第5話 羽化の時

 賢と夏輝の付き合いは高校に入ってからだ。

 入学早々、夏輝は上級生三人に呼び出される。

 その頃はまだ夏輝と友達という訳ではなかったが、呼び出した上級生の一人に見覚えがあったので、賢は気になって後を付けた。

 その上級生とは、中学時代にフルコンタクト空手の大会で二度当たった事があった。イノシシの様な馬力で突っ込む戦術で、多少のテクニックなど吹き飛ばしてしまう。賢が苦手とするタイプで、二度とも判定負けだった。

 別に夏輝を守ってやろうというつもりは無かったが、殺されそうになったら助けてやるかくらいには思っていた。

 体育館の裏まで行くと、そのイノシシ先輩が夏輝に言った。

「テメェが『狂犬の新田』か? 拍子抜けだぜ、女みたいな顔しやがってよ! 狂犬は狂犬でもチワワだな。トイプードルでもいいぜ。ワッハッハッ!」

 三人の上級生は声を揃えて笑ったが、夏輝は表情を変えずにポケットに両手を入れて突っ立っていた。

「しかし、よく見ると、えらくマブいな。コイツ、本当に男か? 上級生として、性別を偽っていないか確認する義務がある。オラ、そのズボンとパンツ、下ろせや」

 だが、夏輝はソッポを向いて聞こえないフリをする。

 この態度にイノシシ先輩は怒った。

「シカトか、カマ野郎! ナメんなよゴラッア!」

 そう叫んで、夏輝の襟首を掴む。

 引き寄せられた夏輝は、その力のままに前方へ飛び、自分の額をイノシシ先輩の鼻にぶつけた。

 鼻骨がミシミシと砕けながら顔面にめり込んだ。

 鼻血を吹き上げながら後ずさるイノシシ先輩、その足の甲を夏輝は思い切り踏み付ける。

 踏まれた足は固定され、イノシシ先輩は見事に尻餅をついた。そして、大きく開いた股間を、夏輝はまるでサッカーボールでも蹴る様に蹴り上げた。

 声にならない悲鳴を上げ、口から泡を吹いてイノシシ先輩は失神する。

 それでも尚、イノシシ先輩を蹴り続ける夏輝。

残りの上級生二人は、夏輝を止める事もできず、その様子を呆然と見ていた。

 一番強いと思っていたイノシシ先輩が一瞬で倒され、完全に恐怖にとらわれていたのだ。

 結局、興奮でエスカレートする夏輝の暴力を止めたのは賢だった。

「オイ! やめろって! これ以上やったら殺しちまうぞ」

「何だテメエ! テメエも死にテェか!」

「オレだよ、オレ。お前と同じクラスで、隣の席のオレだよ」

「あ……ああ、スマン。お前か」

「何があったか知らんが、もう十分だろ。とっくに気を失ってる」

「オレも知らんさ。いきなり呼ばれたら、パンツ脱がそうとしやがった」

「そりゃヤベェな。なあ、先輩達。三人掛かりで後輩のカマ掘ろうとして、返り討ちにされたんじゃあ立ち場ねぇだろ? オレらもこの事は黙っとくからさ、先輩達も内緒で頼むよ」

 上級生二人はビクビクと頷き、イノシシ先輩を抱えて立ち去った。

「ワリぃ。お前が来なかったら、あの野郎、マジで殺してたわ」

 夏輝は素直に賢に頭を下げる。

 賢は、そんな夏輝を意外に思った。

「いいって。しっかしお前、キレイな顔して強ェなあ。オレもさっきのイノシシ先輩もフルコンやってんだけどよ、オレ、あのイノシシにまだ勝った事がねぇんだ。それをまあ、よくも簡単にボコッボコッにできたな」

「競技と実戦は別もんだ。武の極意は不意打ちにあり、さ」

「なるほどね。誰の言葉だ?」

「それが……忘れてしまったんだ。凄い昔、大切な人から聞いた気がするんだけど……」


 しかし、その後もイノシシ先輩の意識は戻らず、救急車が来る騒ぎになる。当然、夏輝が原因である事も明らかになり、厳重注意を受けた。

 相手は上級生三人、しかも先に手を出された事から正当防衛は認められたが、何ぶんヤリ過ぎである。夏輝は入学早々『ヤバイ奴』のレッテルが貼られる事になる。

 だが、賢は気付いていた。凶暴さの裏にある、夏輝のとてつもない優しさ……。

 夏輝は、道端の草花に気付いて愛でる男だった。電車で老人が乗って来たらさり気なく席を譲り、困っている人がいれば自分から手を差し伸べる。

 凶暴さは、本来の夏輝を守る為の鎧ではないか。そしてそれはサナギの殻の様に、蝶に羽化すれば脱ぎ捨てられるのではないか。

 賢には、そんな感じがした。



 だから週明け、普段は付けないマスクをして夏輝が登校して来た時、身にまとう空気の変化に、賢はその時が来た予感がした。

「ウイッス、夏輝。カゼか?」

 取り敢えず聞いてみる。

「うん、そうみたい」

 夏輝はそう答えて目を細めた。

 ただそれだけなのに、その目があまりに優しくて、賢の心臓はドキドキと早く打つ。

 続けて誠司が登校して来た。

「なあなあ、聞いたか? 八王子でクマが出たってよ。賢、お前行って闘ってこいよ。昔いたろ、そんな空手家」

「ああ、あったな、そんな映画。ありゃサーカスのクマちゃんで、爪も牙も切ってあった事が後で公表されてるよ。だけど2メートル50センチ、300キロのクマを支えながら闘っている風に見せてるから大したもんよ。並の人間なら潰されて圧死だ。だがなぁ、野生の熊と闘えるか、ボケ」

 夏輝は目を細めて微笑んでいるだけだが、その空気感の違いに鈍感な誠司も気付いた。

「えっと……夏輝だよね?」

「えっ?」

 聞かれた夏輝が驚きで固まる。

 止むを得ず、賢が助け船を出す。

「当たり前だろ。他の誰に見えるんだ?」

「そうだよな。ハハハ、スマンスマン。前にさ、たまたま皇族のお嬢様ってのを見かけた事があってさ、なんか今日の夏輝に雰囲気が似てんだよ」

「なんだ、それ。メガネかけた方がいいぞ。そういや、ジェームス・ディーンも普段はメガネだったんだろ」

 だが、誠司が今日の夏輝に持った印象は、賢が感じていたのと同じだった。

「そう、ド近眼でね、『アーネル』ってメガネを愛用してたんだ。今もレプリカが売られてて……そうだな、オレもかけてみようかな」

 話は上手くそれ、誠司がそれ以上、夏輝の雰囲気が変わった事について言及する事は無かった。



 その日一日、カゼ気味で今一元気が無い男を演じた夏輝だったが、放課後にそれは起こる。

「夏輝ぃ、帰るぜぇ」

 賢が声をかけたが、夏輝は首を横に振った。

「ううん、当番だから掃除やって帰るよ。先に帰って構わないから」

 誠司とメグの目が丸くなった。

「ちょっと、大丈夫? そのカゼ、よっぽど悪いんじゃない? 言葉遣いも変だし」

 メグは言ったが、賢には夏輝がそんな事を言い出しそうな予感がしていた。

「手伝うのはいいけどよ、そんな体調じゃあ周りが迷惑じゃネェか?」

「いや、カゼはもう随分いいから、やる事やって帰るよ。じゃあ、また明日。さよなら」

 そう言うと、夏輝は床を掃いていた女子のところへ行ってホウキを受け取り、掃除を始めた。その女子も目を丸くして夏輝を見ていた。

「さよなら、だってよ……やっぱ今日は変だぜ」

 誠司の言葉にメグも頷く。

「あれってカゼの症状……じゃないよね。夏輝が掃除始めたらさ、カースト上位は掃除やんないってお約束が崩壊しちゃうよ。メグは掃除なんかしたくないからね」

 賢は、少し考えてから言った。

「でもまあ、内申書のこと考えたら、コツコツ掃除するのが正解なんだろうな。取り敢えず、今日のところはオレらだけで帰ろうや」


 掃除をしていると、直之が色々と気遣って声を掛けてきた。

「雑巾はこれを使っていいよ」

「ゴミ袋はここに置いてあるからね」

 もちろん嬉しかったが、今までサボっていた分、要領が掴めない自分が不甲斐ない。だから、せめて力を使う仕事くらいは自分が率先しようと思った。

 女子が四人がかりで捨てに行こうとしていた、汚れた水の入った二個の20Lバケツを、夏輝は両手に持った。

「これはボク……オレが捨ててくるよ」

 重いバケツを軽々と運ぶ夏輝を、女子達は頼もしく思う。

 そして、水を捨て、流し台でバケツをゆすいでいる時だった。

「おい、新田」

 声の方を振り向くと、いつぞやのイノシシ先輩の手下的先輩が二人立っていた。

「あ……お久しぶりです」

 夏輝はペコリと頭を下げる。本当に一年以上、まともに顔を合わせていなかった。

 それもその筈、あの日以来、イノシシ先輩と手下の先輩は、夏輝の姿を見かけると逃げていたからだ。

 だが、彼らは彼らで思うところがあり、この日とうとう夏輝の前に姿を現したのだった。

「金田君が待っているから、ちょっとツラ貸してくれ」

 精一杯虚勢を張っているが、声が震えている。夏輝が怖いのだ。

 金田というのがイノシシ先輩の名前らしいが、それすら知らなかった事に今さら気付いた。

 それにしてもマズイ事になったと思う。

 姉が言う『前世の覚醒』以来、夏輝の内面から凶暴性や獰猛さが、全く無くなってしまったからだ。ケンカで一番大切なのは、躊躇無く先に相手を殴り付ける非情さだが、その意味で今の夏輝は最弱と言えた。

「あのう、先輩方、すみません。この通り、掃除の途中ですので」

 夏輝がバケツを持ち上げてアピールする。

「ヒッ!」

 二人は素早く後へ飛び下がった。

「バケツでオレ達殴って壊れたら、怒られるのはお前だからな!」

「いえ、そんなつもりは……」

「いいから付いてこい」

 夏輝は、渋々二人の先輩の後に続いた。

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