第2話 わざとじゃないの?
「大きい会社ね…。」
バーで忘れた名刺ケースを届けるために、出会ったばかりの泉つばさの会社まで出向いた私。オフィス街に堂々とそびえたつその会社は、周囲のどの会社よりも存在感を放っていた。さすが大きな会社だ。そんな会社の正面玄関を前に、パーティドレスを着たライバル会社の社員の私がぽつんと立っている構図。なかなかにシュールだ。
こんな姿同僚に見られたら噂の的になっています。それは避けたい。さっさと名刺ケースを渡して、帰ろう。
私は携帯を取り出して、彼女に電話をかけた。
「もしもし。」
「あ、沙織さん着いた?」
「ええ。」
「了解。今から正面玄関まで迎えに行くからそのまま待ってて。」
「早く来て。」
こんな格好でずっと待たされるわけには行かないもの。
「なあに?急かしちゃって。そんなに私に会いたくてしょうがない?」
「違うわ。ここでこんな格好でいたら不審がられるからよ。」
「夜だから誰も見てないよ。ほとんどの社員はもう帰宅してるし。」
「御託は良いから早く着なさい。」
「ふふっ、強気な女の子も好きだよ。」
「……うるさいわね。喋ってる暇があるならさっさと忘れ物を取りに来なさいよ。」
「仰せのままに。」
プツっと電話が切れると、私はため息交じりに携帯を鞄にしまった。今日はなんて日なのかしら。さっさと帰ってシャワー浴びて寝たい。
ほどなくして、彼女は正面玄関から颯爽と出てきた。チャコールグレーのパンツスーツに、フワフワのショートウエーブヘアー。そして相変わらず一つも崩れていないナチュラルメイク。なんだか完璧すぎて腹立たしささえある。
「お待たせ。来てくれてありがとね。あれ?タクシーは?」
「とっくの前に支払いを済ませたわ。」
「ごめんごめん、領収書ある?ちゃんと払うから。」
「良いわ。面倒だから。それよりもこれ。」
私は鞄から名刺ケースを出して渡した。彼女はそれを受け取る…かと思ったら、名刺ケースを超えて、私の手首を掴んで引き寄せた。そのまま私は彼女の胸元にすっぽり収まる。
「……何のつもり?」
「んー何だろう。分かんないや。」
「は?」
「沙織さん見てたらこうしたくなっちゃった。」
「離して。」
「嫌。」
「警察呼ぶわよ。」
「それは困るなあ。」
くすくすと笑いながら彼女…泉つばさは私の背中を指先で撫でた。……パーティドレスを着ているから背中が割と空いていて、素肌を直になぞられる。指先は慣れた手つきで、首元から背中へ。くすぐったいのと、ムズムズする感覚に思わず身をよじる。
「んっ…止めて。正面玄関とは言えほぼ外よ?何考えてるの。」
「じゃあ、室内なら良いんだ。」
「良くないわよ。」
「まあ、そう言わずに。ね?」
「あっ。」
チュっと音をたてて首筋に落とされるキス。こんなところで堂々と。夜だから人通りは少ないものの完全にゼロではないのに。私は平静を装いながら彼女を押し離した。
「止めて。痕が残ったらどうするのよ。」
「それは光栄だなあ。」
「貴女とは会話が成り立たないわ。」
「あなたじゃなくて、つばさ。ほら、呼んでみて。」
「嫌よ。」
私は首元を押さえて帰ろうとするが、彼女は私を引き留める。
「待って。」
「何。」
彼女は後ろから私を抱き留めた。ふわりと鼻を掠めるのは高級感のある香水の香り。好みの匂いだ。無意識に帰ろう急ぐ足を止めてしまった。
「あれ?どうしたの、素直だね。振り払って帰るかと思った。」
「……何でもないわ。」
「ふーん。」
ぎゅっと抱きしめる力を強くする彼女。距離がより一層近づく。好みの香がより強く感じる。ああ、良い香り。どこの香水だろう。
「一つ聞いてもいいかしら。」
「何なりと。」
「どこの香水?」
「へ?……あ、ごめんね。嫌な匂いだった?」
「いいえ、いい香りだと思ったから。」
私は振り向かずに行った。彼女は私を後ろから抱きしめたまま言葉を続ける。
「なるほど。沙織さんは私の顔も好みだし、香りも好みだと。」
「……。」
事実だから否定はしないけど、なんだか肯定するのも悔しくて私は無言を貫いた。
「この場合の無言は肯定の証……ってことで良いよね?」
彼女…つばささんは私の頬優しく触れ、なぞる。その触り方がまたもどかしい。こう、核心には触れずに、その近くまで触れてそれから離れていくような…なんとも言えない触り方。私は頬から彼女の手を離して、くるりと彼女に向き直った。
「どこの香水なのか聞いたのだけど。」
「教えてあげるからこの後私と過ごしてくれない?」
「……。」
「大丈夫。私沙織さんが喜ぶことしかしないから。」
「それはどうかしら。」
「試してみる価値はあると思うよ?」
「私暇じゃないの。」
「知ってる。同業者だからね、君の会社も暇じゃないことくらい知ってるよ。」
「………。どうしてそんな私にばっかり構うのかしら。暇人?」
「暇じゃないよ。ただ好きな人に傍にいて欲しいだけ。」
「独占欲の塊ね。」
「ありがとう。だからこその社長なのかもよ?」
「褒めてないのだけど。」
「沙織さんの言葉は私にとっては全部褒め言葉に聞こえるよ。」
「病院に行くことをお勧めするわ。」
「ふふっ、つれないなあ。」
もう話にならないわ。帰ろう。と私が歩き出そうとした時だった。
「あれ?社長、こんな時間に何してるんですか。」
スーツに身を包んだ男性がいた。見た感じここの会社の社員だろうか。私は軽く会釈をした。男性は私を見てにっこり笑った。
「可愛らしい方ですね。社長のご友人ですか?」
「まあ、そんなところ。」
「へえ…。」
男性は私をじーっとみた。なんだか視線が生々しいというか、本人自体は爽やか系なのになんだか不快な感じがする。
「僕車で来てるんで良かったらお二人とも送りましょうか?」
「気持ちはありがたいけれど、私たちはこれから用事があるから大丈夫よ。」
「そうですか?でもこんな遅い時間に女性二人は危険では?」
「既にタクシー呼んでるから大丈夫よ。」
いつの間にタクシーなんて呼んだんだろう。
「でも…。」
「君は明日の会議に出席の予定でしょう?プレゼンを成功させるためにも今日はゆっくり寝なさい。社長命令よ。」
「………はい。」
「じゃあ、私たちは失礼するわ。タクシーも来たみたいだから。行きましょう、沙織さん。」
「わっ。」
私は男性にもう一度会釈をした。つばささんは私の手を引いて歩き出した。
「いつの間にタクシーなんて呼んだの?」
「今から呼ぶよ。」
「さっきタクシー呼んでるって言わなかった?」
「あれは嘘。」
「どうして?」
「視線に気づかなかった?沙織さんのこと狙ってたよ。」
「嘘?」
「ほんと。美人の沙織さんをあんな人に取られるわけにはいけないからね。」
嘘か本当か分からないけれど、どうやら機転を利かせてくれたようだった。
「というわけで、沙織さん。不快な思いにさせたお詫びに何か御馳走させて。」
「不快な思いなんてしてないわ。」
「顔に出てたよ。あの社員に顔を見つめられていた時に。」
「またそんな冗談ばっかり言って。」
「人間観察が趣味って言ったでしょう?人の表情見るのは得意なの。」
つばさんはそのまま携帯を操作してタクシーを呼ぶと、私と一緒にタクシーに乗り込んだ。
「大丈夫、ちょっとお茶したらちゃんと家まで送るから。香水もどこの物か教える。」
「……。」
「駄目?」
隣同士に並ぶ私たち。つばささんは私の指に自分の指を絡めた。また触り方が…。見つめ方が…。さっきの人は不快だと感じたのに、つばささんからは全然不快な感じがしない。
「今回だけよ。」
「やった。ありがとう。」
無邪気な笑みを浮かべるつばささん。
そして走り出すタクシー。
つばささんは本当にお茶だけして、私を家まで送ってくれた。強引にホテルに誘われたりするのかしら、とちょっと思ってたけれど思ったよりも紳士的で拍子抜けしてしまった。
私がタクシーから降りるとき、つばさんはニコっと笑った。
「ああそうだ。沙織さん。」
「明日は襟のある服を着て、髪の毛は下ろしていた方が良いよ。」
「どうして?」
つばささんはトントンと首元を指で触って合図をした。
「私が付けた痕、残ってるから。」
「はい?」
慌てて首元を押さえた。つばささんは楽しそうにクックと笑いを堪えながら笑っている。
前言撤回。彼女は紳士なんかじゃない。悪趣味の変人だわ。
「じゃあ、またデートに誘わせてね。あと今度会った時は名前呼んでね。」
そう言ってタクシーに乗ったつばささんは行ってしまった。私は首元を押さえたまま小さくため息をついた。
玄関の前で鍵を開けようと鞄を開けると、見覚えない腕時計が入っていた。
「なにこれ?」
そしてタイミングを見計らったようにかかって来るスマホ。ディスプレイにはつばささんの名前。
「もしもし。」
「沙織さん、家ついた?」
「ついたけれど。」
「私の時計行方不明なんだけど、もしかして沙織さんの鞄に入っちゃってたりしない?」
「今見つけたわ。」
「良かった!今度取りに行かせて。」
あたかも今ないことに気付いて焦ったように電話してきているけれど、これはもはや確信犯では?もしかしたら名刺ケースを忘れたのも全部わざとのような気さえしてきた。
「わざとじゃないの?」
「え?」
「時計も名刺ケースを忘れたのもわざとじゃないのかしら?」
「バレた?」
あっさり認めたわ、この社長。
「次に会う機会が欲しくてね。」
「性格悪いわね。」
「ありがとう。で?会ってくれるのかな?」
「仕方ないから会うわよ。ただ……。」
「ただ?」
「こんなことしなくても、普通に誘えば予定が空いていれば会うわよ。」
「……。」
スマホ越しにつばささんの返事が一瞬滞った。しかし本当に一瞬で、すぐにいつも通りの返事が返ってきた。
「ふふっ、ありがとう。じゃあ今度正式にお誘いさせて。今日は遅い時間までごめんね。ゆっくり休んでね。おやすみ。」
「ええ、おやすみ。」
通話が終了し私は洗面所へ向かう。首元にはうっすらと小さくはあるけれど、赤い花が咲いていた。
「……もう。」
呆れてため息をしたはずなのに、鏡に映っている私の顔はどことなく嬉しそうな顔をしていたので、私は急いで顔を洗ったのだった。
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