第8話 それは本気ですか?遊びですか?(下)
希さんの家に着くと、彼女は私をリビングのソファーに案内してから、キッチンへ向かった。
「珈琲と紅茶、どっちがいい?」
「……紅茶で。」
「了解。」
希さんは手際よく紅茶を用意する。程なくして部屋の中に紅茶のいい香りが広がった。そして希さんは両手で二人分の紅茶を持って、私の隣に腰を下ろした。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう…ございます。」
「あらら。余所余所しくなっちゃったね。残念。」
希さんは苦笑した。
「まあ私の自業自得かな。」
「………。」
希さんは一口紅茶を飲んで、それから困った顔をして笑った。流れる沈黙。カチカチと時計の音だけが響いている。
「あの。」
「なあに?」
「泉さんが言ってたことって。」
やっぱりそのことを聞いてくるよね、と言わんばかりに希さんはほんの少しだけ目を細めて私を見た。
「うん、事実でもあり嘘でもあるよ。」
「それはどういう…。」
希さんは紅茶を口に含んだ。コクンと鳴る喉。
「確かに女の子は何人か抱いたことがあるけど、本気で付き合った子はいないかな。」
やっぱり本当なんだ。ということは私もそのうちの一人なのかな。遊び……なのかな。出会ってから今までの流れといい、希さんの普段の口調と言い、遊びだったとしても何だか頷けてしまう自分がいる。
「そんなに悲しそうな顔しないで。」
希さんはマグカップを置いて私をじっと見つめた。
「真子ちゃんは信じてくれないかもしれないけど、自分から付き合おうって言ったのは真子ちゃんが初めてだよ。」
「それは嘘ですか。」
「ひどいなあ。嘘じゃないよ。」
「だって…んっ。」
話が終わる前に希さんは私に唇を重ねた。
「ふっ…あっ。」
深いキス。なのに私に触れる手はまるで硝子細工を扱うように丁寧で繊細。私の頬の上を希さんの指が優しく撫でる。ああ、顔が…体が熱い。ソファーに体が沈んでしまいそうになるのを目を閉じて必死にこらえる。
「ん…。」
音を立ててゆっくりと離れる唇。くたりとソファーの背もたれに背中を預ける私。
「目、開けて。」
ゆっくりと瞼を押し上げると、希さんは妖艶な笑みを浮かべていた。
「こうやって、何度でもキスしたいと思えるのも真子ちゃんだけ。」
「嘘ばっかり…。」
「んーどうしたら信じてくれるのかな。抱いたら信じてくれる?」
「余計信じられなくなります。」
「じゃあ、抱くのはやめておくよ。」
「あ……。」
スッと離れる希さんの手。なんだか名残惜しくて、思わず情けない声が出てしまった。私はそれを誤魔化すように、そして熱く火照る体を落ち着かせるように私は何度か深呼吸をした。
「あれ?その顔はもしかして抱いて欲しかった?」
「そっそんなことないですから!」
「ふふっ。可愛い。」
「そうやって何人もの女の子を騙して手玉に取ってきたんですよね?」
「なんか勝手に話に尾ひれ付けてない?」
その時、希さんの携帯電話から着信音が鳴り響いた。急に鳴るものだから驚いた私は肩をびくつかせてしまった。希さんは特に驚く様子もなく、テーブルの上に置いてあった携帯を手に取ると一瞬ものすごく眉間に皺を寄せた。
「あの…大丈夫ですか?」
「んー何が?」
「今一瞬すごい顔してましたけど。」
「そう?」
希さんは何事もない顔をして通話終了ボタンを押したが、さっきの表情が忘れられない。そして通話終了ボタンを押してから10秒も立たずに再び電話はかかってきた。
「出なくていいんですか?」
「いいの。」
通話終了ボタンをもう一度押す希さん。そして今度は携帯の電源自体を切ったようだった。
「良いんですか?」
「うん。彼女の電話にはろくなことがないからね。」
「彼女?」
「つばさ。全く何のつもりなんだか。」
希さんが携帯をテーブルん上に置いた瞬間だった。次は家のインターホンが鳴った。希さんは一気に眉間に皺を寄せる。そしてインターホンはまるで遊んでいるかのように何度もピンポンを繰り返した。何々何?もしかしてホラー的な何かですか。怖い。
怯えている私をよそに、希さんは大きなため息をついて立ち上がった。
「の…希さん。」
「ごめんね真子ちゃん。ちょっと待ってて。」
玄関へ向かっていく希さん。私はその後ろ姿を見送った。ガチャリと鍵が開き、ゆっくりとドアが開かれる音が聞こえる。大丈夫かな。もし怖い人だったらどうしよう。
「つばさ、何のつもり。警察呼ぶよ。」
「それは勘弁。っていうかその前に電話に出てよ。」
「嫌。つばさはろくな事言わないし。今の私にとっては疫病神以外の何物でもないからね。」
「とか言って本当は疫病神じゃなくて恋を成就させる女神かもよ。」
「どういうことかな?」
「今希の家にいるんでしょ?三守さん。」
「……だったら何?」
「ちょっとお話ししたいなーって。」
「残念だけどお断りさせてもらうよ。今真子ちゃんと大事な話してるから。」
「その話に私が必要だと思って来たんだよ。」
玄関で言い争いまではいかないものの、二人の会話が聞こえる。明らかに険悪ムードだ。私…仲裁に入った方がいいかな。でも…。
迷っている中、二人の会話は続く。
「意外だなあ。希がそこまで執着するなんて。余計興味が湧いてきちゃった。三守さんに。」
「そういう人にはもっと会ってもらいたくないね。」
二人とも口調は穏やかなのに会話にトゲを感じる。そういえば、希さん悪友って言ってたっけ。……このままだと話に終息もつかなさそうだし、泉さんは私に用があるみたい。ちょっとだけ顔をだしてみよう。
私は玄関へと歩みを進めた。そして廊下からひょっこりと顔をだすと、すぐに私に気付いた泉さんが満面の笑みを浮かべた。
「やあ、三守さん。さっきぶりだね。服が乱れてない…ということは抱かれてないみたいだね。」
「だっ抱かれてませんよ!何言ってるんですか!」
「あははっ。」
何がおかしいのか楽しそうに笑う泉さん。希さんはため息をついて額を手で覆っている。
「三守さん、少しだけ私とお話ししない?」
泉さんは非常に軽いノリで私に声を掛ける。ちらりと希さんを見れば、希さんは反応に困っているようだった。
「私ね、君と話がしたいと思ってたんだ。」
「どうしてですか?」
「ふふっ、だって店で君に会った時、私の言葉を聞いて君は不安な顔をしていたからね。」
そんな顔したっけ。泉さんは自信満々話す。希さんを見れば額に手を当てていた。
「ごめんね真子ちゃん。店でも言ったけどこの人人間観察が趣味の変態だから。特に真子ちゃんは顔に出やすいし恰好の餌食というか…。」
「そう!君の表情は実に分かりやすい。いっそ分かりやすすぎて清々しい気分になるよ。」
貶されているわけではないが、泉さんに言われると少しイラっとしてしまうのはどうしてだろう。
「あー今の表情は希と一緒だ。さては私ウザがられてるね。」
「当然だよ。真子ちゃん、さあドア閉めて部屋に戻ろうか。」
「待って待って。」
泉さんは特に焦る様子もなく、私たちの様子が面白いのかクスクスと笑っている。
「つばさ、雨季はどうしたの?」
「んー?彼女に会いに行くってさ。雨季の彼女残業続きみたいでさ。私と二人で飲むより彼女といた方が楽しいってフラれちゃった。」
悲しそうな素振りを見せるが一つも悲しそうではない。むしろこの状況を楽しんでいるように見える。この人、あれかな。日常とか平凡というものが嫌いなタイプかな。常に変化を求めているような…そう考えれば社長っていうのもなんか妙な説得力がある。人の下で働くようなタイプには見えない。
「それは残念だったね。」
「だからこうやって希に会いに来たんだよ。」
「うん、迷惑。」
「ふふ、褒め言葉。」
希さんは小さく舌打ちした。驚いて希さんの顔を見れば、希さんは何事もなかったかのように私に笑いかけた。このバチバチした水面下の争いのような雰囲気を終わらせたい。そんな一心で私は口を開いた。
「あの、お話しってなんですか?」
「ああごめん。話逸れちゃったよね。すぐに終わる話だよ。ちょーっとこっちきて。」
泉さんは私を手招きした。私は言われるままに泉さんに近づくと、彼女は少しだけしゃがんで私にコソっと耳打ちをした。
「確かに希に言い寄って来る女の子は多かったし、何人も抱いてはいるけど、希から誘うってことは滅多になかったんだよ。それにこうやって自分の家に女の子を引き入れていることにも驚いちゃった。自分のテリトリーには入れたがらない人だから。希の表情や態度、口調からも本気みたいだから、三守さん安心していいよ。ごめんね、お店では希が本気なのか知りたくてちょっと意地悪しちゃった。」
ふふっと口角を綺麗に上げて泉さんは微笑んだ。希さんは眉間に皺を寄せている。
「以上!泉つばささんの人間観察に基づく考察と報告でした!ああ、そうだ。もう一つ忘れ物。」
泉さんはもう一度私の耳元に唇を近づけた。今度は何を言うんだろう。私は耳を澄ませて神経を集中させる。すると泉さんは……
チュッ
「あっ。」
小さなリップ音を立てて私の耳にキスをした。耳に神経を集中させていたせいで、柔らかい唇が耳に触れる感触が直に伝わる。思わず声が漏れてしまった。
「んふ、可愛い。じゃあ、私は希に殺されたくないので失礼するね。三守さんまた今度飲みに行こうね。今度はちゃんと御馳走させて。」
「つばさ!」
希さんが泉さんを捕まえようと手を伸ばすが、泉さんはヒラリと交わして、手を振って家を出ていった。
私はというと、キスされた耳を隠すように手で覆っていた。
「………真子ちゃん。」
「……はい?」
「こっちきて。」
「あっ…。」
希さんは私の腕から手首にかけて撫でるように指を滑らせて、そのまま私の手を取ると、ぐいっと引き寄せた。勢い余って希さんの胸元に飛び込む私。希さんはそのまま私の背中に手を回して抱きしめた。希さんの匂いがする。
「のっ希さん!?」
抱きしめる手が移動する。そして先ほどキスされた耳を指でなぞられる。
「あんっ…。」
ひどく優しい触り方に思わず体がビクっと反応してしまう。そしてどんどん熱くなる体。ドキドキと高鳴る胸の音。希さんにきっと丸聞こえだ。恥ずかしい。
「駄目だなあ…。」
希さんがぼそりと呟く。何が駄目なんだろう。もっもしかして私のこと?
耳を撫でる指が移動して、私の頬をなぞり、顎へ移動する。そのままクイっと顎を上げられ、強制的に希さんと顔を合わせる。
驚いた。希さんはいつもの余裕のある表情とは打って変わって、焦りが見える。私の顔に触れる彼女の手が小さく震えていた。私は無意識にその上に自分の手を重ねた。
「希さん大丈夫ですか?」
「ごめんね。真子ちゃん。」
希さんの手がすっと離れて解放される。
「はは…つばさは場の空気を掻き乱す天才だよ。おかげで私も振り回されちゃって…ほんと駄目だなあ…。真子ちゃんに情けないところ見せちゃったね。」
「そんなこと…。」
「希が真子ちゃんに何言ったのかは知らないけど。ろくでもないこと言ったんじゃない?ごめんね、幻滅した?」
「幻滅なんて……してません。ちょっと驚きましたけど。」
「え、つばさ何言ったの?」
「教えません。」
「えー。」
もし泉さんの言うことが本当だったら。希さんが私に対して遊びじゃなくて本気になってくれているのだとすれば…。
「希さん、改めて聞かせてください。私の事、遊びじゃないですか?」
「違うよ。本気。」
じっと見つめる希さん。その目は先ほどまでの焦りはなく、揺らぐことない真っ直ぐな瞳をしていた。
「こんなに可愛くて、愛おしいのは真子ちゃんだけ。実は付き合ってる女の子を家に呼んだのも真子ちゃんが初めて。それに何度でも抱きしめたいし、傍にいて欲しいと思ったのも真子ちゃんが初めて。……面と向かって言うとちょっと恥ずかしいね。」
少しだけ頬を赤らめて笑う希さんは、こう言っては失礼かもしれないけど、まるでぶっきらぼうな少年の様で普段子どもと接している身としては可愛さのあまり抱きしめたい衝動に駆られる。というか押さえられない。私は希さんを両手でぎゅっと抱きしめた。
「わっ。」
後ろによろける希さん。私は希さんを抱きしめたまま、子どもをあやすように背中をトントンとさすった。
「まっ真子ちゃん!?」
「すみません。なんだか希さんが子どものように可愛らしく見えてしまって。」
「えー、そこは大人っぽくてかっこいいじゃないの?」
「お顔は大変かっこいいです。でもなんていうか、ふふっ。」
「あ、ちょっと笑わないでよ。」
「すみません、ふふっ。可愛らしいです。」
「……それはちょっと心外だなあ。」
希さんは私の両腕を掴んで希さんから離すと、そのまま体制を変えて私を抱き上げた。所謂お姫様抱っこだ。
「わっちょっと、希さん!?おろしてください!重いですから!」
「軽いよ。」
希さんは軽々私を抱き上げたまま、寝室へ移動した。そして私を宝物を扱うように丁寧にベッドへ寝かした。
「希さ…ふあっ…。」
言い終わる前に希さんは私を組み敷いて唇を重ねた。角度を変えて繰り返される深い深いキス。意識が飛びそうになる。ぞくぞくと体が痺れる。無意識に私の腕は希さんの首の後ろに回る。希さんは、恍惚な表情を浮かべた。その顔のせいで余計ぞくっと体が疼き出す。
「んっ…、あっ。」
夢中になるキス。唇が離れたと思えばまた重ねられる。
「わっ……のっのぞみさっ…んっ。」
希さんはさも面白そうにキスを止めようとしない。
どれくらい唇を重ねただろう。いつの間にか私の身体はぐったりと力が抜けていて、希さんに回していた腕もベッドに沈み込んでいた。
希さんが唇を離し、私の身体に触れるとピクっと体が動いてしまう。
「ふふっ。これでも子どものように可愛らしい?」
「……前言撤回……します。」
希さんは満足気に微笑むと、少し汗ばんだ私の額を撫でた。
「ごめんね、明日朝早いのに。今日はここまでにしておくね。抱きたいのは山々なんだけど、真子ちゃんの大事な仕事に支障をきたすわけには行かないから。」
とかいいつつスーッと私の鎖骨を撫でる希さん。
「やっ…あっ。」
「敏感だね、可愛い。」
「希さん…。」
「ん?」
「何でもありません。」
「ほんと?もしかしてこのまま続きしてほしい…なんてことはないよね。」
駄目だ。分かってはいるけれど、このまま中途半端で身体に熱を灯したまま朝を迎えるのを本能的に拒否している自分がいる。私はブンブンと首を振って、自分に言い聞かせる。
明日は早い、今日は寝るんだ、と。でも体は言うことを聞いてくれない。いつの間にか無意識に希さんの上着をつまんでしまっていた。
「……真子ちゃん、誘ってるの?」
「違っ。」
「ああもう、理性的でいないといけないのに。そんな可愛いことされたら…。」
希さんは私をギュッと抱きしめた。
「ごめん、明日必ず遅刻しないように送り届けるから…。いい?」
「……はい。」
「出来るだけ体に負担がかからないように気を付けるから。」
私はコクンと頷いた。ああ、駄目だ。
それから私は希さんと夜を共にした。
翌朝、職場にて。
「三守さん、おはようございます。撮影晴れて良かったですね。そろそろ朝日が上がりますよ。」
「よろしくお願いします…。」
「あれ?寝不足ですか?」
「まあ…そんなところです。」
「腰痛ですか?腰さすってますけど。あ、もしかして…。」
女性のスタッフさんが声を少しだけ潜める。
「生理痛ですか。」
「いえ、違うので大丈夫です。」
「そうですか?無理はなさらないでくださいね。サッと撮影終わらせちゃいましょうね。」
スタッフさんが元気いっぱいに言うと私から離れていった。
昨夜はほぼ寝ずに希さんと……って思い返すだけで顔が火照る。またスタッフさんに変に勘繰られるわけにはいかない。私はブンブンと顔を横に振って、腰をさする手を離す。
「三守さんー、本番お願いします!」
よし、私は歌のお姉さん。さあ、テレビの前の子どもたちに最高の笑顔を届けるんだ。そのための撮影だ。
「みんなー!おはよう!真子お姉さんだよ!」
私はテレビカメラに向かって大きく手を振って歌い出したのだった。
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