第4話 嫌ならもっと抵抗しないと(下)
「……結局来てしまった。」
一方的に誘われただけだし、行くと答えたわけでもない。無視して帰ることも出来る。だけど、待たせているのを分かっていて放っておけない。こういうのをお人好しって言うんだろうか。
そんなわけで無事撮影を終えた私は、希さんに指定された喫茶店まで来てしまった。これで店内に希さんがいなかったら最悪だ。いや、でもあの人軽そうだし、冗談だったのにね、って流されそうな気がしないでもない。
そんなことをぼんやり考えながら私は喫茶店の扉を開けた。
「いらっしゃいませー。おひとり様ですか。」
「いえ…待ち合わせで先に来ているはずなので…。」
「そうですかー。」
店員さんの軽い声に、会釈をして、キョロキョロと店内を見渡す。すると、奥の席でスマホをいじっている希さんの姿が視界に入った。
私は一直線に歩いて行った。足音に気付いたのか、希さんは私が席に到着すると同時に顔を上げた。綺麗な双眼が私を見つめてにっこり笑った。
「へえ、本当に来てくれるとは。優しいんだね。」
「違います。人を待たせているのを分かっていて帰るのは後味が悪いと思っただけですから。それに、この前奢っていただいたので今日はそのお返しをしようと思っただけです。というわけでここのお金は私が持ちますので、好きなものを注文してください。」
「ぷっ。あははっ。」
希さんは吹き出して笑った。何がそんなに面白いの。私は普通の事を言っただけなのに。
「真子ちゃん律儀だねえ。まあ、とりあえず座って。足疲れてるでしょう?」
希さんに促されて、私は彼女の向かいの椅子に座った。ああ、足が和らぐ。そういえば今日の撮影中は、あの奇抜なクラゲ衣装のせいもあってずっと立ちっぱなしだった。座った瞬間に足に相当負担が来ていたのがわかる。
「別にお返しなんて良いのに。この前だって私が御馳走したかっただけだし。それに可愛い顔も見れたしね。」
希さんは唇をトントンと指先で触れる。それはつまりこの前のキスのことを言っているわけで…。反射的に顔が赤くなってしまう。
「なっ何言ってるんですか。」
「ふふっ。とりあえず真子ちゃんは何飲む?」
希さんの前には飲みかけの珈琲カップがあった。
「希さんは珈琲ですか?」
「うん。そうだよ。」
「私も珈琲で。」
「ココアもメロンソーダもあるよ?あ、それともオレンジジュース?」
「子供向け番組に出ているからって子ども扱いしないでください。」
「ごめんごめん。」
すっと手を挙げて希さんは店員さんを呼んだ。
「珈琲一つお願いします。」
「かしこまりました。」
希さんはさらっと私の分の注文を終わらせると、机に置いていたスマホをポケットの中にしまい込んだ。
「どうだった撮影は?」
「順調に終わりました。」
「随分可愛い恰好してたもんね。」
「あれが可愛いと感じるなら希さんおかしいですよ。」
「そう?」
希さんは軽く笑った。そして程なくして注文した珈琲が来た。
「それで呼び出した理由って何ですか。」
「真子ちゃんと話したかっただけ。」
「は?」
「いいね、その真顔。」
希さんは飲みかけだった珈琲を口に運んだ。
「あれからお店に来てくれるかなーって思ってたのに真子ちゃん全然来てくれないからね。折角真子ちゃんに似合う下着いくつかキープしてるのに。」
「そうなんですか。」
「うん。例えばこんなの。」
希さんはポケットからスマホを取り出して、画像を出すと私に見せてくれた。
き、奇抜すぎる。なにこれ、そういうプレイ用のやつですか。もうなんていうか紐じゃん!
「うん、良い反応。この画像は冗談ね。本当はこれ。」
完全にからかわれている。次に希さんが見せてくれた画像は、またもや私の好みど真ん中の可愛らしい下着だった。
「結構最近入った商品なんだよね。サイズ展開も豊富だし、これノンワイヤーだから痛くないんだよね。それなのに胸の形も綺麗に見せてくれる魔法のようなブラでね。」
「へえ、可愛いですね。」
それは興味がある。私が話に食いついたのを機に、私たちは他愛のない話をした。
下着の事だったり、仕事のことだったり。希さんはとても聞き上手なのか、話しをしやすい雰囲気を作るのが上手いのか、ついついいろんなことを話してしまった。
今日はお酒も入っていないし、普通の喫茶店だからそんな変なムードになることもないし、本当にただただ女友達と話しているような空気が心地よかった。まるでこの前キスしたことなんて忘れてしまうくらい。普通に会話に花を咲かせてしまった。
「おっと、いけない。遅くなっちゃったね。真子ちゃん明日も仕事?」
「いえ、明日は休みです。」
「それは良かった。でもそろそろ遅い時間だから送るよ。」
「え?」
「今日は車で来てるんだ。」
希さんは車のキーを取り出してにっこり笑った。
「大丈夫です。まだ電車もありますし。」
「ここからだと駅までまあまあ歩くでしょう?」
「そうですけど。」
「足、痛くない?」
「え。」
足が痛いこと、いつの間に見破られていたんだろう。
「駐車場まですぐだから。それにさっき真子ちゃんと話してた下着もサンプル車に詰んであるから良かったら実物見てみたくない?」
確かにそれは魅力的だ。でも、このままついて行ってこの前みたいにキス…されたりしたら……。
「……何もしないですか?」
「何かしてほしいの?」
「違いますから!」
希さんはニヤっと笑って、そう?と答えると、席を立った。
「というわけで、行こうか。」
「あのっ、じゃあ、その代わりここのお代は払わせてください!」
「それなら、お願いしようかな。」
会計を済ませて…と言っても珈琲二杯分だから、この前奢ってもらったお酒に比べたら全然足りないくらいだ。希さんもっと注文してくれても良かったのに。
店員さんからレシートを受け取り、希さんと並んで駐車場まで向かって、車に乗る。
希さんの車は、イメージ通りというか、無駄なものがなくて大人っぽい匂いがして、すっきりとしていた。まるで新車の様だ。
「背もたれ、好きなように倒してくれて良いから。」
「ありがとうございます。」
「はーい。」
希さんがハンドルを握る。静かに発信する車。大きく揺れることもなく、乗り心地の良い運転。慣れているのかな。
その揺れが心地よすぎて、だんだん眠くなってくる。いけない。しっかり起きていないと。
「真子ちゃん、そういえば住所詳しく聞いてなかったよね。教えて貰っていい?」
「………。」
「真子ちゃん?」
「スー………。」
ああ、なんだか希さんが私の名前を呼んでいるような気がする。なんだかその声さえ心地よくて、私の瞼はいつの間にか閉じていた。
「参ったなあ。」
「んんー…。」
いけない寝てしまったみたいだ。今車はどのあたりだろう。それにしても本当に希さんは運転が上手い。今だって揺れ一つなくて……。
瞼をこすりながらゆっくりと瞳を開くと、そこには見知らぬ天井が。
「へ?」
ここ、どこ?え、ちょっと待って。車じゃない?どう見ても、どこかの部屋だよね?どこ?店?ホテル?それとも誰かの家?確か希さんに送ってもらっていた最中だったはず。
慌てて起き上がると、私の上からズルリと布団が落ちた。どうやら私はベッドの上にいるようだ。
「あ、真子ちゃん起きた?」
希さんの声がする。私は慌てて彼女の方へ向くと、彼女はベッドを背もたれにして、膝の上に乗せたパソコンを触っていた。
「喉乾いてない?水持ってこようか?」
「ののの希さん。こっここはどこですか!」
「とりあえず落ち着こうか。」
スッと立ち上がると、希さんは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して私に渡した。
「ありがとうございます。」
希さんは、クスクスと笑いながら説明をした。
「真子ちゃんの住所を聞こうとしたら、真子ちゃん寝ちゃっててさ。声かけても揺すっても起きないの。だから、とりあえず私の家に連れて来たんだよ。」
「ということはここは希さんの家…。」
「うん。そうだね。」
「車の中からどうやってここまで…。」
「ああ、それはこうやって。」
希さんはお姫様抱っこの仕草をした。
………。人の車で爆睡した上に、起きないからお姫様抱っこで部屋まで上げてもらい、なおかつ家主を差し置いてベッドで寝るとか……最悪だ。本当に申し訳なさすぎる。
私は慌ててベッドから降りると、希さんに盛大に土下座をした。
「大変申し訳ございません。」
「良いよ。仕事忙しいのに誘ったのは私だし。疲れてたんだね。寝顔可愛かったよ。」
「車からここまで重かったですよね?」
「羽のように軽かったよ。」
「すぐに帰りますので!」
「終電もうないと思うけど。」
ほら、と希さんの指差す方向には時計があった。指し示している時間は午前二時。残念ながら終電はとっくの前に超えている。何時間寝てたのよ私!
「……タクシー呼びます。」
「泊って行ったら?うち一人暮らしだし。こんな夜中に可愛い女の子を一人で外を歩かせたくないしね。それに……。」
希さんは座って私に視線を合わすと、私の両頬に手を添えた。ぶわっと上がる体温。フッと笑う希さんの口元。ドキドキと高鳴る胸。
「この前の続きもしたいしね。」
「ひゃっ。」
両頬に手を添えたまま、親指で私の頬を撫でる希さん。ぞくりと体の内から言葉にならない感覚が沸き上がる。
駄目だ。このままだと流されてしまう。
「やっ。」
「本当に嫌?」
「嫌に決まって……んっ。」
そのまま希さんに唇をふさがれる。柔らかい感触。一気に上がる私の体温。前よりも時間をかけたキスが降り注ぐ。
「ふあっ。」
ゆっくり息をする間も与えず、何度も角度を変えて重ねられる唇。小さく鳴るのはリップ音。そのたびに体の奥がぞくぞくとする。抵抗しなきゃ、頭の中ではそう考えているのに体は言うことをきかない。力が抜ける。
唇が離れる頃には、私はクタっと希さんにもたれ掛かってしまった。
「はあっ、はあっ。」
熱い吐息が零れる。全く平然と笑う希さんに対して、私は息切れしている。
「キス、好きなんだ。」
希さんは悪戯に笑う。
「違います。」
「今日テレビ局のエレベーターで会った時も言ったけど、嫌ならもっと抵抗しないと。」
希さんは床にへたり込んでしまっている私を軽々抱き上げると、そのままベッドの上に寝かせた。まずい、これは…。慌てて起き上がろうとしたが、両手首は既に希さんに掴まれ、完全に組み敷かれていた。
ドキドキと心臓は高鳴り続ける。一生分の拍動をしているんじゃないだろうか。
この状況、非常にまずい。だってこんなのまるで……。
「ちなみに真子ちゃん、女性に抱かれたことは?」
「あっあるわけないじゃないですか。」
「じゃあ、私が初めてってわけだ。」
「だだだ抱くつもりなんですか?」
「駄目?」
「駄目に決まってます!何もしないって言ったじゃないですか。」
「そうだっけ?」
「そうです!それにっ。」
「それに?」
女性どころか、男性にも抱かれたことがないなんて言ったら希さんに笑われるだろうか。いや、笑われるどころか引かれるかもしれない。
私は29歳にもなって男に抱かれた経験がないのだ。言い訳に聞こえるかもしれないけど、音楽とか学業に集中していて恋愛どころじゃなかったっていうか…。ピンとくる人がいなかったっていうか…。
「……何でもないです。とにかく、駄目なものは駄目ですから!」
希さんは私の顔をじーっと見つめる。
「もしかしてだけど、抱かれること自体が初めてとか?」
「………。」
言い当てられてしまった。すぐに切り返しの言葉が出てこない。顔が熱い。希さんの顔が直視できない。私は目をぎゅっと瞑った。
「顔真っ赤だし、プルプル震えてるけど。もしかして図星?」
恥ずかしすぎる。絶対希さん引いてるでしょ?もしくは笑われてるに違いない。私はさらにきつく目を閉じる。ああもう今日は最悪だ。最悪の日だ。
「ほっといてください。引いてるんでしょう?」
「何で?むしろ自分の貞操を大事にしてるのは好感が持てるし、教育番組のお姉さんらしくて関心するよ。」
私はゆっくりと目を開いた。希さんは小首を傾げていた。まるでどこがおかしいの?と言わんばかり。
「本当ですか?」
「もちろん。引くことでもないし、恥ずかしがることでもないよ。」
馬鹿にしたりしないんだ。希さんは私の頭を撫でた。それが何だか嬉しくて、笑みが零れた。希さんは次は私の口角に触れる。
「ふふっ。可愛い。そしてそんな可愛くて真面目なお姉さんの本当の初めてになれるなんて、光栄だなー。」
「はい?」
「ゆっくり時間をかけて、いっぱい教えてあげる。まずは……。」
「えっ、ちょっと、待ってください、まっ。」
言い終わる前に希さんが唇を重ねた。今日一番の深いキス。希さんはキスをしながら、私の腕を希さんの首に回すように優しく誘導する。
手を離してしまえば、深い海の底へ沈んでしまいそうな。
恍惚な表情の希さんと目が合う。その瞬間体の内からぞくぞくとする。駄目だ、離れないと。と頭では思っているのに、体は必死で希さんにしがみついている。
「真子ちゃん、そう上手。」
優しく、囁くような声に導かれるまま、その夜は忘れられない夜になってしまった。
そして迎えた翌日朝。
「……最悪です。」
「最高の間違いじゃないの?」
「最悪ですよ!だって私の大事な初めてを…。」
「初めての相手が私で良かったと。」
「誰がそんなこと言ったんですか!それに私たち付き合ってもないのにこんな…ああっもう。教育番組のお姉さん失格です…。」
「じゃあ、付き合おうか。前も立候補してもいい?って告白してるんだけどね。私は返事待ちのつもりだったし。」
「はい?」
「返事は?女は無理?その割には気持ちよさそうにしてたけど。ほらあの時のキスとか…。」
「ああもう、思い出させないでください。」
私は両手で顔を覆った。その手は強制的に外される。
「私と付き合うの、嫌?」
「嫌…じゃないですけど。」
「じゃあ、決まり。これからもよろしくね、真子ちゃん。とりあえずまずは連絡先交換させて。」
ふふっと綺麗な唇で弧を描いて笑った希さんは、今日一番生き生きとした顔をしていた。
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