第5話 私が立派な大人だってことを証明します

「三守さん、来月の収録曲決まりましたよ。はい、こちらに記載されてます。」

「ありがとうございます。」


 帰り際にスタッフさんに渡された書類。そこには来月収録予定の曲がずらりと一覧になっていた。その中に目を引く曲が。


「あっ!」

「どうしたんですか?大きな声をだして。」

「すみません!一番好きな曲が入っていたので嬉しくて。これ全部歌えるんですかね?」

「どうでしょう…。あくまで予定ですので。書類の中に楽譜も入っていますので、一通り練習はお願いしますとのことです。」

「はい。ありがとうございます!」


 やった。最近過密スケジュールがさらにひどいことになっていたので、これは私に対するもはやご褒美といっても過言ではない。いつか歌える時が来ればいいと思っていた曲がリストに入っているだけで、こんなに気分が晴れるんだ。何て言うかどんより雲が晴れて快晴って感じだ。今ならどんな変な衣装でも、どんな奇抜な髪型でも、どんとこい!


 私は書類を胸に抱いた。帰ったらさっそく練習しよう。ああ、もちろん他の曲も練習するけれど。まずはこの一番大好きな曲から。今にもスキップしそうな勢いで鼻歌を歌いながら私は帰宅した。


 しかし現実はそう甘くない。


 翌日の仕事終了間近のことだった。ディレクターに呼び出されたのだ。こういう時はろくなことがない。


「三守さん、昨日渡した曲のリスト見てもらったかな?」

「はい。」


 まさかリストから外されたとか!?それはちょっとショックが大きいかも…。でも今回外されたくらいだったら、来月とか再来月に歌える可能性もある。もうワンチャンスあるはずだ。前向きに…前向きに考えよう。


「もしかして曲の変更ですか。」

「いや、そうじゃないんだ。」


 ほっと一息をつく。良かった。変更じゃないんだ。


「三守さんはピアノは弾けたよね?」

「はい。弾けますけど。」

「良かった。じゃあ昨日渡した曲の中の、この曲の伴奏をお願いしたいんだ。また練習しておいてくれるかい。」

「はい。」


 どの曲だろう。渡された伴奏譜に目を落とすと、タイトルで固まった。

 え、これ私が歌いたかったあの曲……。


「あの…。この曲、伴奏ということは歌うのはどなたが?」

「ああ、歌はお兄さんにソロで歌ってもらうよ。こう、昨日ピンと来たんだよね。お兄さんが歌って、お姉さんが伴奏っていうの、今まであんまりやってないからさ目新しくて良いかなってね。じゃ、そういうわけだから。何か困ることでも?」

「………いえ、何でもありません。」

「そう?じゃあ、失礼するよ。よろしくね。」


 昨日まで舞い上がっていた自分を殴りたい。ほら、現実そんなに甘くない。今収録ってことはしばらくは歌う機会はない。下手したら年単位で歌えない可能性も。


「伴奏か……。」


 一人取り残された部屋で机に項垂れる。歌いたいって言えばいいのは分かるよ?わかるけど、そりゃ上の命令だったら従わざるを得ないじゃないの。私に曲を決定する権利なんてないんだから。


「はあああ…。歌いたかったなあ。」


 その時、携帯が振動した。鞄から携帯を取り出してみると、あの人からの連絡だった。

 希さんだ。


『真子ちゃん、良かったら一緒に飲みに行かない?』


 何てタイミングで誘ってくるんだ。まさか盗聴器でも仕掛けられてるんじゃ…ってそんなわけないよね。私はサクッと返信をする。


『良いですけど。』

『今日は随分素直だね。仕事は終わりそう?』

『今日はもうこれで上がりです。』

『そう、丁度良かった。じゃあこの前会ったコンビニまで来れる?』

『はい。着替えたらすぐに向かいます。』

『了解。』


 携帯で時間を確認する。時刻は午後7時過ぎだった。私は鞄に携帯を入れて、着替えに行った。



 というわけで、合流して私たちは今、希さんが選んだお洒落な居酒屋に来ている。幸いにも個室なので、職業柄あまり周りの目を気にする必要もないのは助かる。ただ、この居酒屋。個室なのに席が横並びっていうちょっと変わった形をしている。まあ、多分外の景色が良く見えるようにっていう理由なんだろうけど。事実夜景が綺麗だし。ただ、今は外の景色を楽しむようなテンションにはなれない。


 少しでも気分が上がれば…と私はいつもよりハイペースでお酒を飲んでしまった。


「どうしたの?今日はえらく落ち込んでるね。」

「別に良いじゃないですか。落ち込む日だってあります。働いてたら落ち込むことの一つや二つ。三つや四つ…あれ、いくつだっけ?」

「うんうん、分かったけど、ちょーっとペースが速すぎかな。真子ちゃんそんなにお酒強くないよね?もう三杯目だけど。」

「飲みたいときだってあります!今日はそんな日なんです。希さんもどんどん飲んでくださいね。ここは私が払いますから!」


 嫌なことを忘れたい。そんな一心で私は普段はあまり飲まないお酒を次々飲んだ。なんだか体がふわふわして気持ちいい。それに、希さんがうんうん、って聞いてくれるから余計気分が良い。


「希さん。」

「うん、なあに?」

「歌いたいです。歌いたかったんです。でも伴奏なんです。」


 ああー何だろう。さっきまでいい気分だったのに、次は急に悲しくなってきた。今日は涙腺が緩いなあ。あ、鼻水出てきた。


「何のことか分からないですよね。すみません。」

「良いよ。話聞かせて。」

 私は鞄からティッシュを取り出して鼻をかみながら話した。


「歌いたい歌があったんです。でも伴奏しろって言われたんです。」

「そうなんだ。残念だったね。代わりに歌うのは誰?」

「お兄さんですよー。歌のお兄さん。お兄さんもそりゃー歌が上手いですよ。音大も出てますし。でもあの曲を歌うことは私の夢でもあったんですよー。でも上に言われたら従うしかないじゃないですか。私に権限なんてないんですよ。ああ、社会人辛いですね。お酒は美味しいですね。希さんは優しいですね。あれ、何話してたんでしたっけ?」


 頭がぼーっとする。


「真子ちゃん、水飲もうか。」

「嫌です。」

「飲んで。えらく酔ってるよ。」

「酔ってません!」

「酔ってる人は皆そう言うの。ほら。」

「嫌です。」


 はあ、と小さくため息をついた希さんは、グラスの水を口に含むと、そのまま私の唇にキスをした。希さんの唇から冷たい水が流れ込んでくる。あれ、これは口移し…。


「んっ…。」


 少しだけ強引なキス。ぞくりと体が何かを求めている。

 ごっくん、と冷たい水が喉を通る。


「飲めた?」


 私はコクンと頷いた。希さんはまるで子どもをあやすように私の頭を撫でた。


「よしよし。」

「子ども扱いしないでください。」

「そう言われてもねえ。」

「私は立派な大人です。」

「立派な大人はそんなに泣いて鼻水垂らしながら駄々をこねないと思うよ。」

「じゃあ、私が立派な大人だってことを証明します。」

「真子ちゃん?」


 私はこの前希さんに教えてもらったように、希さんの首に腕を回した。

 そしてそのまま唇を重ねた。希さんの唇はほんのり苦いお酒の味がした。


「んんっ……。」


 角度を変えて何度か唇を重ねる。この前の希さんのキスを思い出しながら、希さんの真似をしてみた。


 ゆっくりと唇を放す。


「どうですか。立派な大人のキスですよ。」

「ふふっ。この前よりかは上手。でもまだまだ。」


 今度は希さんが、私の顎に手を添えて唇を重ねる。私のキスよりもずっと深い。とろけてしまいそう。へにゃりと体の力が抜ける。希さんはすかさず私の身体を支える。そのせいでより一層希さんとの距離が近くなる。


「ふあっ…。ん…。」


 ゆっくりと唇が離れる。


「はあっ、はあ。」


「続き、したい?」


 希さんの瞳が、綺麗な瞳が、私を見つめる。私は頷くことしかできなかった。


「ふふっ。可愛い。でも駄目。酔ってる上に明日も仕事な子には無理をさせられないよ。」


 希さんは私をゆっくり立ち上がらせる。


「さあ、帰ろうか。駅まで送るよ。歩ける?」

「歩けます。」


 じゃあ、この身体の熱はどうしたら良いんだろう。


 希さんは会計をサッと済ませると、私を支えて歩き出した。

 夜風に吹かれて歩いていると、少しずつ酔いも覚めてくる。それと同時に、さっきした自分の行為もしっかりと自分の記憶に刻まれているわけで…。

 酔っていたとはいえ、自分からあんな場所でキスするなんて…最悪だ。今日の私何してんの。自分で自分をタコ殴りにしたい。


「希さん。」

「何?」

「えっと、その…ご迷惑おかけました。申し訳ありません。」

「あ、酔いがさめてきた?」

「大変なご無礼を。」

「良いよー。面白かったし。新しい一面も見れたし。立派な大人だもんね?」

「やめて下さい。本当に申し訳ありませんでした。」


 勢いよく頭をさげたと同時に、鞄から楽譜が落ちた。


「すみません、拾います。」

「良いよ。」


 希さんも楽譜を披露のを手伝ってくれた。


「ああ、伴奏譜ってこれだよね。」

「はい。」

「この曲好きなんだ。」

「そうです。ああでも、伴奏でもこう…この曲に関われるだけで私は充分なので。」

「真子ちゃん、酔ってた時の本音駄々洩れと言ってることが全然違うよ。」


 クスクスと笑う希さん。ああもう、だから酔ってた私何してんの!恥ずかしい。


「というわけで、もう駅に着いたんだけど、帰れる?」

「帰れます。帰れますから!本当に多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。あの、店での事は忘れていただけると幸いです。」

「ごめん、それは無理。」


 ああもう、最悪だ。私はがっくりと頭を垂れた。


「ふふっ。真子ちゃん大分お疲れみたいだから、今度のお休みに旅行でも行こうか。」

「へ?」

「また連絡するね。ほら、もう電車くるよ。」

「あっ。」


 電車が接近のアナウンスが鳴る。希さんに頭をさげて慌てて電車に乗り込んだ。

 ホームの向かい側で、希さんはヒラヒラと手を振ってくれた。





 しばらく禁酒しようと心に深く誓った。


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