第2話 味わってみる?
「皆―元気かなー?
いつも通りの収録。小さな子どもたちに囲まれて、その日のコーナーをやり、そして歌を収録して、皆でエンディングを迎える。
歌を歌うことは大好きだ。声楽を学ぶために音大に出してくれた親には本当に感謝しているし、こうやって歌うことを仕事にできるなんて本当に幸せ者だ。子どもも好きだし、歌うことも好きだし、私にとってここは楽園のはずだ。
だから、たとえ鬼のようなスケジュールであっても、短期間で恐ろしい量の歌を覚えなきゃいけなくても、年齢的にはギリギリの衣装や髪型でも文句なんて言っていられない。
ちなみに今日は、ツインテールに赤いリボン。衣装は真っ赤なふんわりワンピースだ。なんていうか、リカちゃん人形みたい。これ、外で29歳の女がこの恰好でうろついてたらさすがにやばいだろうなー。
なんて頭の片隅で考えつつ、私は今日の収録に参加してくれた子どもたちに満面のスマイルで見送った。
どんな時でも笑顔。にっこり笑って。はい、笑顔。
「
「あ、お疲れ様です。」
「今日も元気いっぱいで良かったよ!その衣装も良く似合ってるね。」
「あはは、ありがとうございます。」
「明日も元気いっぱい頑張ってね!期待しているよ!」
「はい!頑張ります!」
「じゃあ、僕は先に失礼するよ。」
「お疲れ様でした。」
直角に頭を下げる。ふう、これで今日の仕事も終わり。帰りにコンビニでも寄って、何か飲み物でも買って帰ろうかな。その前にこのツインテールを何とかしないと。
更衣室で着替え始めると、ふと自分のブラに目が良く。藤色のブラ…頭を過るのはあの店員の顔だ。
『じゃあ、立候補してもいいですか?』
違う違う違う。あれはセールストークだ。頭を切り替えよう。出来るだけ下着を見ないようにしてさっさと着替えると、ツインテールを乱雑にほどいて、一つ括りをしてテレビ局を出た。
「お疲れ様でした!」
さあ、まずはコンビニだ。この頭を冷やさねば。コンビニはテレビ局から出てすぐの場所にある。今はなんだか冷たいすっきりする飲み物が飲みたい。
軽やかな入店音と同時にコンビニに入ると、真っ先にドリンクコーナーへ移動する。さあ、どれにしようか。よし、今はすっきりレモン系の飲み物の気分だ。これにしよう。
ペットボトルを手に取った瞬間だった。
「おや?お姉さんじゃないですか。奇遇ですね。」
「え。」
振り向くと、そこにいたのは今日会ったばかりの下着屋の店員だ。
「収録終わったんですか?」
「え、ええ。まあ、そんなところです。」
「お疲れ様です。」
「どうも。」
相変わらず綺麗な顔。
「今から帰りですか。」
「そうです。……それでは失礼します。」
会釈をしてレジに向かおうとすると、彼女はひょいと私からペットボトルを取り上げ、そのままレジの方へ向かっていった。
「あっ、ちょっと待ってください。」
「ん?」
「それ、私の。」
「そうですね。私も買い物予定なのでついでに会計しちゃいますね。」
「そうじゃなくて。」
私が答えるより先に彼女はさっさと会計を済ませてしまった。
「払いますから!」
「良いですよ。」
「良くないです。名前も知らない方に奢ってもらうなんて。」
「
彼女はフッと笑った。
「これで名前も知らない方じゃなくなりました。」
「でも。」
「お姉さんの名前は?」
「………
「あ、じゃあ真子お姉さんって本名だったんですね。テレビに出ている人だから芸名かと思いました。」
何が面白いのか彼女は、笑みを浮かべたまま歩き出した。しかもそっちは駅の方向じゃない。
「真子お姉さん。良かったら一緒に飲みませんか?この辺、美味しいお店多いんですよ。」
「そういうわけには…。」
「明日朝早いんですか?」
「そうじゃないですけど…。」
「じゃあ、良いですよね。行きましょう。あ、その前に水分補給どうぞ。」
早見希、と名乗る彼女は私に買ったばっかりのレモンジュースを差し出すと、歩き出した。
ついて行っていいのだろうか。このまま帰ってしまおうか。でも奢ってもらっちゃったし、お金も返せてないし…。
「どうしたんですか?行きますよ。」
彼女は私を手招きする。……一杯だけ。一杯だけ飲んで、私が会計すればこれはすっきり片付くはず。そうしよう。
「一杯だけですからね。」
「了解しました。真子お姉さん。」
「その呼び方はやめてください。」
私は彼女の後をついていった。
彼女に案内された店は落ち着いたバーだった。お客さんもまばらだ。彼女は何度か来たことがあるようで、店員さんは彼女の顔をみるとすぐに奥の席へ通してくれた。
「こういうお店は良く来られるんですか?」
「たまにですね。」
「あの、さっきから敬語使っていただいているんですけど、早見さんっておいくつなんですか?」
「ん?32歳です。」
嘘、こんなに綺麗で私より3つも年上だと。お肌つやつやだし、化粧も一切崩れていないし、相変わらずいい匂いがするし信じられない。
「真子お姉さんはネット情報だと29歳ってなってますけど、合ってます?」
「……はい。あの、私の方が年下なので、お姉さんって呼ばないでください…。」
「ふふっ、ああいう子供番組って『真子お姉さん』って言葉が固有名詞みたいになってると思いません?」
「それはそうかもしれませんが…。早見さんの方が私よりお姉さんなんですし、敬語も使わないでください。」
彼女は私をじっと見ると、形のいい唇で綺麗な弧を描く。
「そう、じゃあ敬語を止めて、真子ちゃんって呼ぼうかな。それでいい?」
「いいですけど…。」
それと同時に早見さんは距離を少し詰めてきた。なんでちょっとドキドキしてるのよ私。落ち着きなさい。私は仕事帰りに一杯付き合うだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
「じゃあ、私のことも早見さんじゃなくて、希って呼んでね。」
「……希さん。」
「さんはいりません。」
「無理です。」
「じゃあ、慣れてきたら希って呼んでね。」
ほどなくして、注文したお酒がテーブルに持ってこられた。
これを飲んだら、代金を払って帰ろう。
そう決めていたのに。
「真子ちゃん。ファジーネーブル頼んでたけど、甘いお酒が好きの?」
「ええ…そうですけど。」
「じゃあ、ここのお店のオススメのカクテルがあるんだよ。頼むね。」
「えっ、ちょっと。」
私が制止するより先に注文してまった。
しょうがない。これを、これを飲んだら帰るんだ。これを飲んだら………。
「それで、真新しいブラはどうでした?」
「良かったですよ。歌っていても締め付けられている感じもないですし、普段ない胸が少しですがあるように見えますし。」
「それは良かった。今もつけてるんだよね?」
彼女は私の胸をツーっと撫でた。
「なっ何するんですか!」
テーブルに頬杖をつきながら彼女は何事もなかったかのように、にっこり笑った。
「ふふっ、可愛い。もしかしてだけど、真子ちゃんって恋愛経験少ない?」
「のっ希さんに言う義理はありません!」
「そ。じゃあ、キスもまだだと。」
「そんなことないです!付き合ったことくらいあります!」
「ふーん。」
何だこの疑い満点の目は。本当だもの。付き合ったことくらい……あれ、あったっけ?自分の記憶を遡る。……そういえば付き合いらしい付き合いってした記憶が。学生時代は音楽一筋だったし、就職してからは仕事に追いやられる日々で…。
いかんいかん。むなしくなるだけだ。話題を変えよう。
「ののの希さんは今何を飲んでいらっしゃるんでしたっけ?」
「モヒート。」
「へ、へえ。どんな味なんですか?」
「味わってみる?」
「ええ。是非。」
グラスで一口くれるのかな、と思ったら。
希さんはあろうことか、私に唇を重ねてきた。
「んっ。」
ほんのりとミントの香がする。重ねた唇は思いのほか柔らかい。慌てて離れようとするが、彼女はさらに角度を変えて私に唇を重ねた。体の奥から何かが迫ってくるようなぞくぞくとする感覚。体中の力が抜けていく。息が…苦しい。
一瞬希さんと目が合った。彼女は目をスッと細めて微笑んだ。ぞくっと体に電流が走る。彼女の湖のような澄んだ瞳が揺らぐ。この気持ちは…なんなんだろう…。
やっと彼女の唇が離れると、私は思いっきり空気を吸い込む。
「はあっ、はあ。」
「ふふっ。真子ちゃん金魚みたい。」
「なっ。」
「どう?モヒートのお味は。」
「そんなの分かるわけないじゃないですか!」
「じゃあ、質問を変えよう。」
希さんは私の耳元で囁く。
「気持ちよかった?」
駄目だ、この人の表情や声、一つ一つに体が熱くなる。
「………。」
「今日はこの辺にしておこうかな。困らせちゃってごめんね。」
スッと希さんは手を挙げて、店員を呼びカードを出した。
「ここは私が持ちますから。」
「もう支払っちゃった。」
「じゃあ…。」
私は鞄から財布を出して、紙幣を取り出そうとしたが、その手は希さんによって静止されてします。掴まれた手が熱い。希さんが触れる度に、その部分が熱を灯す。
「だーめ。」
「そういうわけには…。」
「じゃあ、今度またお店に来て。真子ちゃんにぴったりの下着選んであげる。」
希さんは悪戯な笑みを浮かべた。
「駅まで送るよ。」
「結構です!」
「そんな顔で駅まで歩かれてもなあ。」
「どんな顔ですか!」
「言って欲しい?」
「っ。結構です!じゃあ、失礼します!」
私は啖呵をきるように立ち上がった。だが、くらりと足元がもつれる。希さんはすかさず私を抱き留めた。希さんの匂いにお酒の酔いが加わって、頭がくらくらする。
「大丈夫?」
「大丈夫ですから!」
「そうは見えないんだけどなあ。」
「ほんっと大丈夫ですから!」
「何で顔隠すの?」
「どうでもいいじゃないですか。」
「まあ、いいや。せめて駅までは送らせて。何もしないから。」
結局私は駅まで送ってもらうことになった。
何を話したかは覚えていない。ただ本当に希さんは何もしなかった。ただ私の話を聞いてくれていただけのような気がする。
「電車、もう来るね。」
「はい。ありがとうございました。」
電車に乗り込む私。はあ、何なの本当に。顔が熱い。
そっと唇に指を振れる。まだほんのりミントの香がしているような気がした。
「もうっ。」
私は鞄に顔を埋めた。
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