7 問答
7
店内は日曜ということもあってか、開店直後であるにも拘わらず既に何人か先客が居た。私たちは奥の方の4人掛けの席に腰を下ろした。ウエイターが水を持ってきて、花乃は早速メニューに目を通している。
私はこの店を気に入っていた。クラシカルな様式の内装も、駅のすぐ近くなのに静かなのも良い。外のせこせこと時間に追われているのを横目に、ここはそれらの干渉を受けることなく、ゆったりとした閑雅な空間なのだ。しかし今回はどうか。眼の前には花乃がいる。それは私の胸中を掻き乱すには十分すぎて、まさかここに花乃と一緒に来ることになるとは、一度も考えたことがなかった。およそこの店の常連なのに、初めて入った店のような浮遊感があった。
「
花乃がお互いの見やすい位置にメニューを開いた。モーニングは初めてだから、私も一緒になって目ぼしいものを探す。二人でメニューを覗き込むうちにふと花乃を
「私、これにしようかな」
花乃は殆ど迷う素振りもなく、写真の一つを指差した。私はなんとなくメニューに意識を集中できず、さっと目を通して具合の良さそうなものを適当に選んだ。正直、今どれを食べてもそんなに大差はないだろうから。
「休みはね、結構家でだらだらしてる」
ウエイターに注文し終えると、花乃はさっきのやり取りの続きを話し始めた。
「私も小説読んだり、あと課題やったりくらいかなあ。ほんのたまに友達と遊びに行くけど」
花乃に見据えられているのがわかる。潑溂とした彼女とは正反対に、私は宙を見たまま「へえ」と気の抜けた相槌を打つ。
「大変なの、学校は」
「ううん、学校自体はそこまで大変でもない。けど、もうそろそろ就活とか卒論とか考えなきゃなーっていうのが大変かな。でも
「いや、俺の方こそ全く大変じゃない……事もないけど」
「ほら。最近忙しそうだったもんね」
彼女の遠回しな批判に、心の内に灯る蝋燭がふわりと揺らめいた。他人事のように言うけど直接の原因は君なんだよ。
「もしかして私が原因だったりする?」
ぽつりっと、でも確かに私の耳に届く語気でそう呟いた。何の兆しもなく核心に迫られた私は返す言葉に詰まってしまった。
「入り浸りすぎた?」
「いや、そうじゃない」
彼女の的外れな答えを間髪入れず否定する。しかし、それでは自白したも同然だということに思わず目を覆いたくなった。花乃の方は自身に原因があることを確信しているのか、臆することなく私を問い質す。
「やっぱり、実は彼女さんがいるとか?」
「そうでもない」
「本当に疲れてただけ?」
一瞬返答し倦ねる。
「そうだよ」
なるべく悟られないよう、いかにもそうだという風を装って毅然と言い放った。
「ふーん、そっか」
「花乃の方こそ大丈夫なの。うちに来てて」
私なんかよりもずっと聡い彼女の性格からして、わざわざ心配するまでもないのはわかっている。けれど、ここまで私の世話をしてくれる理由が未だわからない私は、あるいは話を逸らすためにそう切り込んだ。
「うん、大丈夫。お母さんも何も言わないし、色々楽になって願ったり叶ったりかな」
あれだけ私物を広げて住みやすくしていれば、そりゃあ願ったり叶ったりだろうと私は思う。布団もあれば衣服もあるし、化粧もあって、いつの間にか自分用のマグすら持ってきている。足りないものを探す方が今となっては難しい。しかし私も私で、彼女のいる恩恵をつぶさに授かっているのだから、文句などあろうはずもない。私の方こそ食事や掃除の手間が省けるので、一人暮らしの男としてはむしろこちらの方が願ったり叶ったりだった。
しかし聞きたいのはそういう話ではない。かといってわざわざ訂正して聞き直すのも気が滅入る。私は「そう」とまた気の抜けた返事をするだけだった。
「……それだけ?」
「それだけ」
それきり、しんと静まり返る。
「……
突然だった。
「言いたいことあるならはっきり言ってよ」
私は花乃の方を向いて、パチパチと目を瞬かせた。その顔は憤っていますと言わんばかりで、しかし言葉そのものに怒りや嫌味を感じられなかったのは、きっと花乃なりの気遣いなのだろう。そんなことはすぐわかるのに、何に対して腹を立たてているのかはわからなかった。
「いっつもそう。意味深に含みを持たせるような態度でさ。何かを考えてるのはわかる。でも言わないなら」
いつにもなく心情を吐露した、静かな訴えだった。
「もっとちゃんと隠してよ」
面食らった私は何も返すことが出来なかった。的外れを言われたのではない。全く図星で尚の事困ったのだ。
「思ってること言わないのはいつも通りだけどさ、ここ最近ほんっと酷いよ。こんなにそよそよしくされたら、流石にわかるよ。私が原因なこと。何か言うと思ったら、どうでもいい冗談ばっか達者でさ。というか冗談すらほとんど言わなかったよね、ここの所」
花乃が言葉を発する度に、耳が針で突かれたように痛んだ。
「
それでも尚、私の口は開かなかった。いや、開ききらなかった。花乃の言い分はよく理解している。もし言葉が、私の舌と唇が自律して動いてくれるのなら、きっと私はそれを妨げなかった。しかし舌も唇も、人知れず湧き上がってくる気持ちも、全て脳が掌握している以上、思いの丈を述べるのは、私にとって決して簡単なことではなかった。
私は自白したかった。それが楽になる最も単純で適切な方法だと知っていたから。自白して、楽になりたかった。でもそれ以上に、花乃の前に私の内側を裏返して見せ、今ものうのうと鼓動を続ける心臓を曝すのは、エゴイスティックで高慢な頭にはすこぶる都合が悪かった。私は私自身のエゴを穿つ勇気を持っていなかった。
「俺は……」
無理やり声をえぐり出した時、ここで黙ればきっと自分は一生彼女と相容れないだろう、そんな直感的な確信が、全身の血管を駆け巡った。すると私の閉まり切っていた喉は、自分が思っていたよりも遥かに簡単に空いたのだ。己でも手懐けられなかった心は、彼女と自分を繋ぎ留めていたい気持ちの前に容易く屈服した。
「俺は――」
「おまたせ致しました」
私が言いかけた矢先、間の悪いウエイターが水を差した。考えうる最悪なタイミングに苛立ち、けれどその一声は、光の届かないほど深くまで潜っていた意識を一瞬で水面へと引き上げた。目眩に襲われながらハッと息を吸い込むと、私の緊迫なんて一体どこにも伝わっていなかった。目の前の花乃すらも張り詰めた様子ではなかった。そこでようやく、自分が独り相撲を取っていたことに気がついた。
私はこれを好機と見て、「ひとまず食べよう」と提案した。花乃は釈然としないながら「うん」と頷く。口を動かす内に私の心積りを汲み取ったのか、次第に「これ美味しい」とか「
何を言うべきかはわからない。ただ何も言わなきゃこうなるのなら、とりあえず何かを言おう。花乃ももう子供じゃない。もう背中を追いかけてくるだけの妹じゃないのだから。
コーヒーで一息ついた後、私はやっと話すための口を開けた。
「確かに花乃がきっかけではある。けど何かされたとか、そういうことじゃない。これは俺の問題」
「ふーん」
「今朝はごめん」
「今朝?」
「肩に触れたこと」
「あ、い、いえ、大丈夫です……」
私の心中を射抜こうとする彼女の視線は、今朝という言葉を聞いて伏せられた。
「
私が次の文句を考えている最中に、今度は花乃が切り出した。
「そういうの、結構わかるよ……。その、たまに、目線とか」
そう言われて、私は絶望と恥に支配された。
「あ、そうなの……ごめん」
「べ、別にそれはいいんだけど」
お互いにカップを口元へ運び、顔を隠す。
「でも、そっか」
そう言葉を置いて私に向き直ると、さっきまでの私を責め立てる眼差しは、普段の柔和なものに変わっていた。
普通お前のせいだと言われると嫌な心持ちになるはずなのに、何故か彼女はそんな風でなく、それどころか「一体私の何が原因なの」という私の急所を突く追求すらなかった。普通の人なら瞬発的にそう訊きそうなものを、まるでわかっていると言わんばかりに彼女は何も問わなかった。
そう、彼女はわかっているだ。どの出来事がきっかけなのか、向こうは向こうで目星がついていたのだ。
そう考えた途端、この不自然な無言が彼女の恥じらいに思えてならなかった。私をやり込めていた彼女は、もはや
「女だから、って関係ある?」
お互いほとんど食べ終えたぐらいのタイミングで、彼女がついに切り出してくる。その遠回しな問いかけはある種最も直接的なものだった。
「そう」
弱気になった彼女を目の前に、私はさっきまでの詰られる態度から居直り、ひどく強気に答える。
「女だから」
私は背中をべったりと椅子にもたれかけ、何とはなしに外の景色に目を向けた。
彼女の追求はそれきりで、不思議と今度の沈黙に不快さはなく、むしろ言ってやったという晴れ晴れしい気さえあった。
私は口直しを求めてウェイターを呼びつける。私がコーヒーのおかわりやデザートを見ていると、気の持ち直すきっかけを見つけたと言わんばかりに、彼女もあれやこれを指で指して注文する。お互いまだ店を出る気は見えない。
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