6 兄の在り方

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 彼女は立ち上がると、自分の腕を抱いてゆっくりとした足取りで洗面所の方へ歩いていった。私は床に膝を付けたまま、花乃の後ろ姿を眺める。その歩く様が、私に見られることを意識しているような、私を男として誘っている風にしか見えなかった。情欲を孕んだ脚が私に見られていて、一歩足をつく度に髪やTシャツを艶めかしく揺らす。私は再び唾を飲み込んで、見惚れることしかできなかった。

 彼女の姿が見なくなると私は立ち上がり、深呼吸をして早くなった鼓動を落ち着かせる。しかしその努力も虚しく、今日一日彼女とずっとこの部屋に2人きりかもしれないと思うと、檻の中の獣がそれはもう美味しそうな肉を目の前にして唾液を止めどなくだらだらと垂らしていた。自らの溢れ出る唾を飲み込んで腹を紛らわす事もできるが、開くはずのない檻の鍵が今にも開いて、その極上の肉を貪り、堪能できるかもしれない。そのことを想像すると紛らわすことすらできなかった。叶わないのはわかっている。それでも、私はそんな愚かな期待を払拭することができなかった。

 これから私は満たされることのない渇きを一日中耐え忍ばなければならない。そう考えると、身体中の毛穴が開くような震えが起こった。

「ずっとそこに立って何してるの」

意識の外からそう問いかけられ、鼓動が一つ跳ねる。振り向くと彼女が洗面所から顔を出してこちらを見ていた。私が返答に困ってなおも棒立ちすると、返すよりも先にこう付け加えられた。

「今日、時間ある?」

全く予想だにしていなかったセリフに、私はきょとんとして「うん」と返す。多分かなり腑抜けた声だったと思う。

「じゃあさ、ちょっと遊びに行かない?」

ますます不思議を隠しきれなかった。でも、彼女からの初めての誘いで、そして何よりを逃れられる。そう思い至るとほぼ二つ返事で「行く」と言っていた。どこに行くのか、何をするのか、普段ならきっとそう訊き返していたと思う。でもこのときは、彼女の提案にすがるより他になかった。

 彼女は顔を一度引っ込めて、私がそこから目を離すより先に、またすぐにひょこっと顔を出した。

「前に言ってた、にいがよく行く喫茶店って何時から?」

また予想外の問いが飛んできて、私は彼女の意図を推し量ろうとするも半ば反射的に口が動いていた。

「7時」

「よし、モーニング食べに行こう」

顔を引っ込めると、パシャパシャと水の音を立て始めた。

 私を支配していた興奮は、このやり取りのお陰で少し和らいだようだった。でもその渇望が完全に消え失せることはなくて、むしろさっきのような甘美な時間が待ち遠しい。彼女の身体への欲望は、恒星のように、爆発するまで膨らみ続ける。そして、焦れれば焦れるほど膨張は速まっていく。今まさに私の星は一回り大きくなって、依然として爆ぜる時機を伺っていた。私は外出すれば爆ぜることはないだろうということに安心してしまって、この外出の星をさらに膨れ上がらせる可能性に気が付かなかった。いや、もはや気付いてもどうしようもない段階に来ているから、気が付かなくてよかったかもしれない。

 まだ7時まで2時間弱もある。なのに、何もできることがない。何をしたってきっと手もつけられやしない。どうせなら椅子に座って彼女をずっと眺めていたいが、それでは7時を迎える前に臨界点を超えてしまう。

 まだ仄かに朱い光と耳障りな大合唱のある寝室に戻り、再び横になった。目を閉じても光を透かした瞼が赤黒くて、隠すようにして顔に肌掛けを被せた。すると血の抜けていくような疲労感が全身の神経を巡って四肢から力が抜けていき、今朝の興奮を反芻する前に身体の感覚が遠くなっていった。彼女に起こされたのは1時間と少しが経った後だった。


 支度を終え椅子に座り頬杖を付いて待っていると、程なくして「いいよ」と玄関の方から呼ばれる。腕時計を見ると丁度よい時間だった。例の喫茶店は駅前にあるから10分も歩かない。私は満を持して立ち上がり、淀みない足取りで彼女の元へと向かった。

 彼女は既に出立の準備を済ませ扉の前に待っていた。私は歩きながらその姿を下から上へと観察する。ミモレ丈のワンピースは初夏らしい淡い水色で、トートバッグの掛けられた肩は白い肌が見えている。肩甲骨のあたりまで流れている黒い髪とのコントラストが女性らしさを際立たせていて、そして彼女の横顔を見ると薄化粧しているように見えた。私はモーニングのつもりでかなりラフな格好だったので、そんなのが隣に並んで良いものかと逡巡するも、「早く!」という掛け声に急かされて振り返ることもなく家を出た。

 外はまだ涼しいくらいで、澄み渡る青空に雲は遠く、東の方から射す柔らかな陽光が私たち二人の細長い影を作る。歩道のない狭い住宅街の道を二人並んで、妙な沈黙と共に歩いていく。私は彼女に歩調を合わせることに集中していて、過ぎ行く電柱に止まった蝉の声すら遠くに感じた。ちらりと彼女を見てもじっと視線を落としていて、何か話しかけてくる気配はなかった。話していたらあっという間に過ぎ去る道が、果てしなく長く思える。私はごく自然な話題を探すけれど、意識すると余計に浮かばなくて、やっと陳腐な話題が浮かんでもどこか不自然に思えて飲み込んでしまうのだった。

 そこに後ろから、朝の急いだ車が私たちの横を通過する。背後からその気配を感じ取り、私が思わず彼女の方へ寄ると手と手がこつんと軽く当たった。

「ごめん」

「ん、大丈夫」

立ち止まることなく咄嗟に謝ると、彼女はこっちを見ることもなく、視線を変えずにそう答えた。エンジンの音を響かせる軽自動車が瞬く間に小さくなってゆく。触れたところが妙にくすぐったかった。

 私は振り子のように揺れる花乃の手を見る。そこから色白の腕をつたって肩まで視線を上げていく。横から彼女を見ると、鳩尾みぞおちでウエストがキュッと締まっているおかげで、ツンとした胸の膨らみが張っている。家だとTシャツをだぼっと着ていることが多いので胸の形が強調されることはないが、しかし今は、身体と調和の取れた姿形が浮き彫りになっていた。私はその稜線を横から眺める。見れば見るほど、さっき彼女の肩に触れた右手がむず痒くなる。縮こまっていた熱が一段赤くなった。

 あまり見すぎるのも良くないとようやく私が視線を切ると、少しして今度は彼女がこちらを向く。

「どれくらい行くの?」

道のりも半分を過ぎた当たりで彼女から投げかけられたその問いは、私の存在を掴んでいるけれど、やはり見つめる先はどこか遠くにある気がして、私はそんな彼女を一瞥すると直近の行った時のことを思い出す。

「そうだなあ、少なくとも月に1回、今月は先週も先々週も行った。モーニングは初めてだけど」

家に一人でいると気が気でなかったからとにかく外に出たかったのだ。

「ふーん、そっか。でもそんなに行って何やって時間潰してるの?」

「小説読むとか、仕事するとか、ただぼーっとするとか」

矢継ぎ早に繰り出される質問にテンポよく返事する。

「なにそれ」

クスクスと笑うその満面の笑みの横顔はどこか幼気で、しかし色香も確かにあった。一瞬緊張が走って、その横顔に向けられていた私の目は所在を失い、彼女から目を逸らしたことに気恥ずかしさを覚え自らのうなじさすった。

「花乃は――」

休日何をしているのか。そう言いかけて喉が詰まった。の光景が思い起こされた。

 全くおかしな話だ。休日は短い時間じゃないし、仮にそう訊いたとて彼女が妙な意味に受け取る訳がない。第一、だから何だというのだ。しかし名前を口に出してしまった以上このまま引っ込めるんじゃあまりにも不自然だから、飲み込みかけた言葉をそのまま吐き出すより他にない。

「花乃は、休みとかどうしてるの?」

一度言い淀んでから発せられたその疑問に彼女はきょとんと、たいそう不思議そうな顔でこちらを向いて、磁石がくっつくように目と目が合った。

「えっと……」

彼女が三、四度瞬まばたきしながら目を逸らし、立ち止まって自分の髪を撫でる。

「変なこと言ったか」

ふと、頭の中で唱えただけのはずが、無意識に口から漏れてしまった。完全に言い切った後で撤回もできず、けれども案外まずい一言ではなかったらしい。

「ううん、そんなことないけど、にいからプライベート?とかそういうの聞かれるの、珍しいなって思って」

びっくりしちゃった、と照れ笑いする。

「ほら、普段はさ、家のこととかお母さんたちのこととかしか訊かないじゃん?っていうか、何か訊くこと自体があんまり。まして私のことなんて」

そこまで言われて確かにそうだと納得がいった。花乃個人のことを訊いたことは記憶を辿る限りでは殆どないんじゃないだろうか。

にい、私にあんまり興味ないのかなあって。でも今の訊き方だと、もしかしてそんなことない?」

妙に勘のいい奴だと思う反面、内心を見透かされているようで焦燥感が湧き出てくる。別に、妹に興味を持つことはこれっぽちも悪いことだと思っていない。むしろ今までが無さすぎたせいか、こうやって偶に会って話すようになって、兄としての心配という意味での興味はそれなりに持っていた。ただ、そんなこと一々言い表すこともなければ、ひとの世話をするくらいだから、改まって私が気にかける必要もないと考えていた。恐らく、その結果が「訊かない」ということであって、彼女への信頼が故の無関心だと自覚している。しかし、今まさにその無関心が覆されたのだと指摘されて、何も言えなかった。

 私が押し黙ってから少しも経たずして、私たちは店の前で足を止めた。

「続きは中で話そ」

私の顔を覗き込むようにして彼女がそう言う。顔色を伺うような、心底しんていを見透かそうとしているような目に身体が突き動かされた。

 先の問いかけには返事をせず、ただ「うん」と頷いて私は店の扉を開いた。


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