5 苦しみ

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 あの後、西の遥か彼方にも夜の帳が掛かってから帰宅すると、既に花乃はいなかった。夜も遅いからもう帰ったのだろうが、花乃に会いたくない、花乃を見たくないと思っていた私にとって彼女がいないことは都合がよかった。

 思い出してはいけないと何度も強く念じ、しかし彼女の料理や私物を見るたびにその姿を追ってしまう。次に彼女と話す時、私は普段通りでいられるか。正常でいられるか。脳に粘り気のある濃い靄が混じり込んでいるようなこの感覚はいつになったら晴れるだろう。この不安は自分独りではどうしても取り除くことはできない。そして、悶々として血の通いが止まった私の所へ、いつもと変わらない振る舞いの彼女がやってくるのだ。もはやこれは呪縛だった。

 私は信じていた。きっと、時間が経てば私の中にある彼女の影が消えていくのだと。実際、初めのうちは顔を合わせ、会話をすることに緊張していた。しかしそれも回数を重ねて、次第に薄まりつつあるという実感もあった。このまま時が過ぎれば綺麗さっぱり以前の自分に戻れると安心しかけた矢先、そのいびつに積み上げられた不安定な地盤は、突如として瓦解させられるのだった。


 あれからしばらくもしないうちに彼女はやってきて、以前と何ら変わりのない素振りのままだった。私が家に帰るとリビングの明かりが点いていて、何事もなかったという声色と表情で「おかえり」と言う。私は普段の自分の通りに返事をし、向かい合って夕食を摂りながらぽつぽつと雑談、そして彼女を駅まで送り届ける。また彼女の都合によっては例の如く寝泊まりしていくこともあった。

 あの出来事の直後こそ私は動揺や緊迫を胸の奥に押し殺していたが、それも次第に鳴りを潜めていって、彼女を見ても私への接し方に変化は見られなかったし、一月ひとつきも経たずしてついに私は安堵することができるのだった。しかしこの間にも、私のあずかり知らぬところでは小さくも確実な威力の時限爆弾が起爆までの時間を刻一刻と減らしていて、本当に解せないのだが、災厄というのは己が油断したところを狙って襲いかかってくるのだ。


 夕食を終え、携帯に来ていた連絡を椅子に座ってぼうっと見ていた。今日は花乃が泊まっていくので、今のうちに布団でも出してやるかなと思っていた時だった。

「何かあった?」

唐突に投げかけられたその問いかけに戦慄した。ちらっと目線だけで彼女を見ると、皿を洗っていてこちらを見ていない。しかしその声はがっしりと私の心臓を捉えていた。

 私はなるべく平静を装って「いや、何もないよ」と答えるが、彼女は私の苦衷を知ってか知らぬか容赦なく追撃をする。

「嘘。最近のにい、なんかおかしいよ。冷たい気がする」

心臓が強く握り締められ、ツーンと頭に血が上るような緊張が走る。私は口を開きあぐね、まさか目にしたものをありのまま告げるわけにもいかず、目線も身体も虚空に向けたまま、良い風にも悪い風にもならないような急場凌しのぎの言葉を探すけれど、彼女はそんな私を待ってはくれなかった。

「私でよかったら話してみてよ。それとも、話しにくい?」

あまりにも無自覚で優しいことを言ってくる。ずっとじっとしていた私は、彼女のその煽り立てるような一言に居ても立っても居られなくなって、ついに彼女の出した助け舟に乗れなかった。

「うん、ごめん寝るわ」

私は早くここから逃れたかった。しかし今の私にはこの方法しか思いつけなかった。気を遣ってくれた彼女を冷たくあしらったことへの不快感がズシンと身体にのしかかる。椅子から立ち上がると、脳みそを知らない子供に掻き回されるような立ち眩みが襲ってきて、それがこの場を後にしようとする私の逃げ足を早めた。私が寝室に籠もると、程なくしてリビングの明かりも消えた。


 私は決して彼女を避けているというわけではない。しかし私に対してほとんど口を出さない彼女が直々に訊き質すということは、それほど無自覚にも邪険にしていたのだとはっきりわかる。彼女にどれくらい嫌な思いをさせたのだろう。そう思えば思うほど、濁流に飲み込まれていくような気持ち悪さを覚える。

 私は、自分自身から目を背けている。ひた隠しにしてきた己に棲む蛇を奥へ押し込んで存在しないものだと思い込んできたが、それを彼女の手によって、蛇を眠りから覚ました張本人によって照らし出され、表に曝け出されてしまったのだ。

 花乃への態度を改めるのは難しい話ではない。蛇の存在を認め、うまく共存していけばいい。嫌でも自分の分身なのだから、切り離すことはできない。そう、自分自身を認める。それだけでいい……。

 明日は休日で、彼女も学校はないと聞いている。少し、話でもしてみよう。

 

 せっかくの休日というのに早い時間に目が覚めた。朝焼けがカーテンの隙間を縫って私に覆いかぶさって、どこからともなく煩い蝉声が押し寄せてくる。朝も早くなったもんだと外に背中を向けるよう寝返りを打った。もう一眠りしようとまぶたを閉じても、意識は拡散するどころか集中してしまって、だんだん全身がむずむずし始めたところで諦めて肌掛けをひっくり返した。しかしそこで扉の向こうに彼女がいることを思い出し、うっすらとした緊張と興奮が身体を駆け巡った。鮮やかな橙色も、夏の音も、意識の外に追い出された。

 戸を開けるとやはりそこには彼女がいて、まだ寝ているようだった。いや、こちらを背にしていて顔も見えないので、もしかしたら起きていてもおかしくはない。いつもならそろそろ起床する時刻だ。

 束の間、私はじっとその寝姿を眺めた。黒い髪が川のように枕に流れていて、うなじがちらりと見える。胸や腹こそ肌掛けに覆われているが、何のベールもまとっていない肉付きのよい色白の腕が胸の前に力なく置かれていた。その様はさながら写実主義の官能的な絵画のようで、女性の男を惹きつける不思議な妖力があった。そして極めつけに、普段は決して見られない、もはや秘部と言っても過言ではない太ももの内側や裏側があらわになっていた。向こうを見た状態でこの丈の短いドルフィンパンツだから、尻でもあり太ももでもある脚の付け根の部分がよく見られた。目が釘付けになった。

 私はそれに触れたいと思った。己の欲望に任せて、快楽の限りを尽くしたい。快楽に溺れて、彼女をも快楽に溺れさせたい。でもそれは彼女への愛と言うより、ただの情欲に近かった。劣情を掻き立てるものがすぐ眼の前にあり、普段から独りで発散することのない私にとってこの状況は気が狂いそう、いや、既にもうほとんど狂っているのだ。自分にもいつ決壊するのかわからない。

 もし彼女を抱けたなら。彼女が妹ではなく、一人の女だったなら……。

 気がついたら、彼女の肩に触れていた。抑えられなかった。しかし熱いかも冷たいかもよくわからなかった。ただ、柔らかで滑らかな感触に、視界が白むような快感が脳にほとばしった。今にも爆発しそうなくらい激しく速く脈打つ鼓動がさらに加速して、もう、何も考えられなかった。肩から手を離し、今度は太ももを見て生唾を飲み込む。もしここに触れることができたら……。瞬きすら忘れてゆっくり手を伸ばして触れ――。

「どうしたの」

思いもよらないその声が鈍器となって脳天を殴打した。一瞬意識が遠のき、ひときわ強い鼓動のおかげで正気に戻る。咄嗟に手を引っ込めた。彼女が身体を横座りに起こし、背中をこちらに向けたまま振り返る。その艶めかしい後ろ姿は微妙に私を捉えていなくて、私のすぐ隣の床の方をぼうっと眺め、髪の毛先を指でくるくるといじっていた。

「いや、起きてるかなって思って」

言い訳にすらなっていない言葉をどうにか引きずり出して、少し間が空いてから「ふーん」と、問い質すでも何かを言いたげにするでもない含みの有る生返事。

「起きてたんだ」

なんとか誤魔化すために、ほんの僅かに間が空いて私がそう言うと、彼女は正座をした状態の私に向き直って、

にいの手、すっごく熱かったよ」

とクスクス笑った。その彼女の朗らかな笑顔から目を離せなかった。

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