4 発露

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 玄関を開けると、今朝まで灯っていた部屋の光はなく、廊下の向こうは水の滴る音が響きそうな静寂と暗闇だった。奥からゆっくり流れてくる冷気が私の足にべっとりと纏わりついて、なめくじが這うようにじりじりを身体を舐め回す。その得も言われぬ悪寒と気持ち悪さに身震いさせ、私は靴を脱いだ。花乃はいなかった。

 じっとしているのが気持ち悪くて、そそくさとリビングに入るとそこは、いつも通りなのにいつも以上にしんとした孤独の空間のようだった。部屋を見回しても誰もいない。色彩を戻す為にひとまず明かりを点け、鞄を椅子に置くと、テーブルの真ん中に置き手紙があるのを見つけた。手に取ったそれには、今日の夕食のメニューとその在処が書いてあって、最後には「花乃」という署名がある。私は着替えるのを後回しにして、文字を読み返しながらキッチンに立ち、ワークトップにはタッパーに入れられた煮物が置いてあって、触るとまだ少し温かかった。冷蔵庫にも、書かれた通りのものが入れられてある。私は胸の内で花乃の顔を思い浮かべた。


 正直、私はまだ花乃のことをあまり知らない。よくというのはまさに趣味嗜好のことであり、そして根本にどのような思考があるのかでもある。わざわざ知る必要もないのはわかっているが、瞬く間に心的にも物理的にも距離の縮まってしまった今と、私の持つ花乃という人物への理解の深さには明らかな齟齬がある。一言でいうと、不気味だった。ここまで一気に距離の縮まったようなことが起こるとは予想だにしていなかった。もちろん、その齟齬のある状態でも平生の自分を保たせているのが所謂兄妹という血縁関係であることは重々理解できる。しかし、同じ両親から同じ血を分けた妹に不信感を覚えているのも、また確かなことだった。そして、そんなことを考えていると必然的に生ずる疑問がある。花乃はわたしのことをどう考えているのだろうか?

 今の私にならわかる。このような疑問を抱くというのは、つまり花乃に対して、妹という認識と女という認識が混在している現れに他ならないのだ。妹に対し女という感覚が交じるという禁忌を私は既にこの時には犯していて、遅かれ早かれその禁忌で身を滅ぼすことになるのは言うまでもない。しかしこの時の私には知る由も分かる由もなかったのだ。花乃に対して持ち合わせていた感覚的な距離感と実際花乃によって振る舞われる距離感との食い違いは、トリックアートのように、私の脳を錯覚させ、混乱させるには充分だった。

 一人暮らしの男子のうちに、帰ると夕飯を作ってくれる女子がいるというのは、それはもう強烈な刺激なのだ。その甘い汁をとことん吸いたくなってしまうのもある種男という生物のさがなのかもしれない。




 ある日、仕事が午前中に終って昼頃には家に帰ることがあった。夏の熱気に焼き上げられた家のドアを開けると、ちょうど良い涼しさの空気が足から頭へとつたい、土間には花乃の靴が丁寧に揃えられてあった。どうやら来ているようだ。ただ、とても静かだった。

 なぜ私はこの時、「ただいま」を言わなかったのだろう。

 私が家の扉を開けた音に反応はなく、「ああ、寝てるのか」と私は直感した。そうすると尚のこと起こさないように音を立てないようにと侵入するが、私の直感は半分言い当てていて、もう半分は全くと言っていいほど間違っていた。いつもならもっと想像が及ぶはずなのに、この時ばかりは、蝉が我を忘れて鳴き続けるほどの猛暑に当てられて、私の脳はそれ以上の思考をしていなかった。その小さな過ちがなぜ痛恨事になると想像できよう。

 10円玉を立てるように荷物をそっと置き、そのまま忍び足で静かにリビングの戸を開ける。カーテンが閉まっているにも拘らず電気は点いていなくて、やはり寝ているのだと私は確信した。ただしかし、寝ているとわかっていても念のため存在を確認しておきたいという心理が働くのはごく自然なわけで、僅かな緊張に呼吸を浅くした私は奥の閉め切られた寝室の戸をそっと、内を覗き見られる程度に開けた。寝室もリビングと同じようにして暗がりだった。隙間から押し流れてきたやけに冷たい空気に身を震わせながら、その空間でモゾモゾと動く人影を観察した。目を細めてその姿を注視すると、案の定、ベッドに横たわっていたのは花乃だった。しかし、様子がおかしかった。

 お腹や脚があらわになるほどの薄着、Tシャツと下着だけの格好で、横顔をよく見るとイヤホンをしたまま目を瞑っていた。どうやら私の存在に気がついていない様子だった。そして私がその姿をじっと観察している間も、花乃は身体を捩らせながら、右手が両膝を合わせて立てられた太ももの間に隠され、そこから中指を、太ももの内側から腹、胸へと這わせるようになぞり、唇にあてがって、一度舐ねぶるように咥えてからまた太ももの間に忍ばせると、肩と脚がピクッピクッと小さく跳ね、同時に甘い吐息と漏れ出るような色のある声が鳴った。その光景は、いくら女性に疎い私にもすぐに分かる。自慰だった。

 私はその官能的な仕草、情欲の息遣いに唾を呑んで見入った。彼女の擦り合わせられた白い脚の間に行方をくらます右手の意味に想像を膨らませ、時折煽情的に小刻みに跳ねる腰やお腹、揺れる胸、ここからでも分かるくらいツンと突起した胸の先が、布の上から人差し指に引っ掻かれるようにもてあそばれていて、快感に耽溺するその姿から目を離せなかった。快楽に乱れる艶のある黒い髪と、赤く血の気に満ちた唇、色情に湿った吐息、耳を愛撫するような漏れ出る嬌声、鼻腔に充満する甘いような女の匂い、私は用いる事のできる全ての感覚を研ぎ澄まして、彼女を堪能してしまったのだ。

 私の奥底にあった、誰に蒔かれたのかもわからない邪悪が発芽したのはおそらくこの時だと思う。花乃がこんなにも婀娜っぽく、艶めかしく映ったのは生まれて初めてだった。そして今、目の前にいる女が花乃だとわかった時、じりじりと後ずさるように戸から下がって、もう十分かと思ったところで音も立てず玄関の外へ逃げ込んだ。

 ほんの数秒から十数秒だっただろうか、花乃のあの乱れた姿が瞼の裏に焼き付いていた。瞬きをする度に鼓動は加速し、爆発する。外の暑さなんて気にならないほどに私の身体は焼けるような熱を帯びていた。

 私はこのいっぱいに膨らんだ熱情をまさかこの場でとほばしらせる訳にも行かず、ただ目を瞑って、あの甘く蕩けるような味を思い出し、何度も何度も反芻した。反芻すればするほど、私の頭は真っ白になって、意識がぼうっとして、私自身も同じようになろうと何か手立てを探すけれども、悶々と生殺しされるまま、ただ呆然と回顧に耽った。


 それからだ。私が彼女の身体を見るようになったのは。

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