3 キザ

3

 何の前触れもなく目が覚めた。しんとした暗い部屋の中、横になった体勢を変えずに夜目の利く視界をギョロギョロと左右に動かす。お天道様はまだ地平線の向こうで姿をお見せにならず、窓とカーテンの隙間が街灯の無機質な光で微かに照らされているだけだった。朝の気配すら感じない薄暗さに、人々が生活を営むのに鳴る音も聞こえない。早く目覚めすぎたかもしれない。

 どうやら昨晩も夢を見なかったようだ。起きるのを億劫にさせる、身体を支配するような脂汗や緊張はない。かといって楽しさや幸福感の残り香もない。何かを思い出そうにも何もピンとくる夢の影はない。夢は記憶に定着しにくい。実際は見ていたかもしれないが、見ていたことすらも覚えていないこともよくある。そういうのは今日を過ごしていれば何らかがトリガーとなって思い出したりすることもあるが、果たして私は夢を見たのか、見ていないのか……何が言いたいかというと、目覚めはすこぶる良い。

 醒めるのが早すぎたかと頭上のデジタル時計に手を伸ばすと、時刻は午前5時を表示していた。いつもなら目覚ましが鳴る時間で、でもそれは昨晩に1時間遅らせたはずだから、つまり体内時計がいつもの時間に私を起こしたというわけだ。言わなくても5時に起きてくれる身体に関心するが、今日は5時じゃなくていいのにと少し複雑な気分になる。これを設定した時は6時までのうのうと眠っていようと思っていたのに、いやはや人体というのは不思議なものだ。頼んでいないのに、勝手にいつもの注文を承っているんだから。たまには趣向を変えたくなることもあるだろうに、これじゃあいつもと違う注文をしにくいったらありゃしない。マスターに顔を覚えてもらうことにも、難点はある。

 私はむくりと身体を起こす。どうせ目を瞑ったってこうも目がぱっちりしちゃ眠られやしないし、もっとも尿意がそれを許さない。なるべく大きな音を立てないようカーテンを開け外を見る。薄雲がかった星の残る空の向こう側は、まだ寒そうだ。もう20分もすれば陽の気配がしてくるだろう。

 リビングで寝ている花乃を起こさないよう、忍び足でゆっくり静かに寝室の戸を開ける。この際だから妹の寝顔の一つでも覗いてやろうかと敷かれた布団の方を見ると、姿がない。姿どころか人の居る形もない。もちろん寝顔なんて枕の上に置かれていない。キッチンの方を向いても人影は見られなかった。どこにいるんだろうかと考えながらトイレへ向かうと、その途中で正面からジャーという大きな水の音が流れてきた。間もなくしてその扉から花乃が現れると、互いにおはようと挨拶を交わす。花乃も既に起きていたようだ。

「早いね」

寝ぼけまなこを指で擦りながら、おっとりとした口調の花乃。欠伸をするとそれが移って私も大口を開けた。

「起きちゃった。いつもはこれくらいだから」

若干の間の後「そっか」という返事が戻ってきて、花乃は自身の布団の方へ、私は当初の目的通りトイレの戸に手をかけた。

 用を済ますとリビングにあった寝床は片付けられていて、ついでにカーテンはレースを残して開けられ、部屋は明かりが点けられて真っ白になっていた。仕事の早い花乃はもう既に次の工程を決めているようで、ジャージ姿は変わらずのまま髪をポニーテールに結い、キッチンで冷蔵庫の中から卵やベーコンなどの食材をどこにあるのか迷う素振りもなく手際よく取り出してはワークトップに揃えて並べていた。こんなに都合よく材料が残ってたっけな、しかもいつの間に冷蔵庫に入っているものの位置関係を掌握したんだと考える隙もなく、なるほどこれも昨日のうちから用意していたんだ。どこまでも抜け目のない妹だ。そう感心しながら、忙しなく、しかし手際よく食材を均等に切り分ける花乃を眺めていた。


 「コーヒー、飲む?」

食事を終え再びキッチンに立つ花乃が椅子に座ってくつろいでいる私に尋ねた。私が「お願い」と快く返事をすると、常備されたインスタントのコーヒーを棚から取り出し、電気ケトルで湯を沸かす。沸くまでそう時間は掛からない。テーブルに肘をついて橙色の残る窓の外に目を向けながら、ケトルの湯を沸かす音に耳を傾けていた。いつもの静寂だがいつもと違う静寂。この静かで穏やかな朝が妙に暖かくて心地よかった。

「この間はありがとね」

突然、花乃がぽろりと訳のわからないことを言った。鳩が豆鉄砲を食らった顔をして花乃の方を見ると、花乃の目線はケトルに落とされたまま。表情の機微はここからじゃ見て取れない。この間にもありがとうにも心当たりがないので、何のことを言っているのかさっぱり。しかし何もわからないではうんともすんとも言えないから、無粋だが、ここは問い質すしかあるまい。

「何かしたっけ」

「いやさ、ほら、夜に駅まで送ってくれたじゃん」

「ああ送ったね、この間。それで?」

「それ、それをありがとねって」

私に礼の言葉を掻き混ぜられて照れくさそうに、ケトルからも目を逸していた。そういう反応をされるとこっちもなんとなくばつが悪くなってくる。

「いいよ」

今度は私も目を逸して言う。水臭いなあとか、こちらこそいつもありがとうとかいう言葉はついに口から漏れ出ることはなかった。ただ律儀にもいじらしく言う花乃が愛らしくてたまらなかった。ああ、兄妹だってのに朝っぱらからなんて距離感だ。

 この妙な空気に耐えかねて何かを言い出そうとした時、湯の沸いたケトルがヒューヒューと私達を冷やかした。ドキリと目を白黒させる私を他所に、花乃が「あ、沸いた」と、その瞬間をもって時間が再び動き出したように、コーヒーを淹れ始めた。これほどケトルにツッコミを入れたくなったこと、そして助けられたと思ったことなど生まれて始めてである。私はコーヒーが淹れられるまでの間を埋めるようにして口を開いた。

「今日は何限から?」

「ええっと、今日は3限からかな」

私の問いを復唱するように答える。3限からだと随分余裕がある。ふーんと鼻を鳴らしいていると、今度は花乃が私に問う。

にいは何時に出るの?」

「そうだなあ、7時半より前」

おかしな言い方をする私に、花乃が「前って、どういうこと?」と半ば笑いながら聞いた。

「7時半までに出れば間に合うから、いつも結構適当に家を出てるんだよ」

いい加減な私に「何それ」と言いながらふふふと笑う花乃。

「じゃあ7時より前に出ることもあるの?にいの勤め先、ここからそんなに遠くないよね。そもそも7時半が早くない?あと、早く着きすぎても暇じゃないの?」

と浮かびうる疑問を矢継ぎ早に投げかけてくる。

「たしかに電車乗って30分と掛からないから7時半も早いかもね。でも早く着いたら早く着いたでやることはいくらでもあるし、時間に余裕があると心も余裕を持てて気が楽でいい」

私の早出論を聞いて花乃は「へー」と腑に落ちているのかいないのかわからない嘆息をする。

 ところに花乃が温かいコーヒーの入ったマグを「お待ち遠様。ブラックでよかったよね」と私の前に置き、正面に腰掛けた。ありがとうと返しながら花乃のマグを覗くと、白の多く混じったブラウンだった。君はオーレ派か。

 初夏といえど朝方はまだ空気が暖まりきらないので、ホットがちょうどいい。二人揃って、息を吹きかけて冷ましてはずずずと少しずつ口に含ませていく。その小さな憩い中で、私は思い出したように先の会話を紡いだ。

「そっちこそ、早いわけでもないのになんでわざわざ泊まり?」

ぼうっと外を見ていた花乃が一度こちらを向く。そしてマグを両手に持ったまま上を向いて「んー」と何かを考え始めた。その姿を今度は私がぼうっと見る。

「……なんとなく?」

疑問げに首を傾げて言い、私は予想外の返答に呆気にとられる。いや俺に聞かれてもわからん。

 とはいえ、付き合う必要もないのに朝食の支度から食後のコーヒーまでやってくれるんだから、邪魔をしている身として当然といえば当然なのだが、妹といえど言うべきは言わなきゃいけない。

「ありがとう」

私が突拍子もなく言うと、花乃はマグをテーブルに置いて、

「え、何、急に」

と面食らって若干戸惑ったような素振りでこっちを見た。そう驚かれると続き言いにくい。

「いやほら、朝に付き合ってくれてさ」

「何それ」

そう言葉をこぼすと私から目を逸らして、再びマグを両手で包むようにして持ち上げ、唇にあてがった。

「いいよ、別に」

ぼそりとした呟きはマグの中を反響したせいか、やけに小さい声のように思えた。どうやら意表をついた私の一言は急所に入ったようだ。

にいってさ」

物思いに耽る間もなく不意に声をかけられてそちらを見る。そして、花乃はにやりと笑いながら言った。

「結構だよね」

花乃からのカウンターパンチをもらい、一瞬素っ頓狂な顔をして、しかしすぐに私は声を上げて笑った。花乃もつられたように小さく笑う。確かにその通りかもしれない。どうやら私はらしい。

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