母
あたしは娘を抱いて、全速力で雪山を走っていた。
「はっ… はっ… !」
草鞋の足がもつれそうになる。
でも、ダメだ。
まだ止まるわけにはいかない。
止まったら、捕まったら、あたしたちは殺される。
村人たちは、産まれたばかりの娘の藤色の瞳を見て、「忌子だ!」と気味悪がった。
そして、あっという間に村民会議で娘を殺すことが決定したのだった。
あたしはすぐに娘を抱いて逃げ出した。
村を出て、いくあてなどなかった。生まれ育った村に帰ろうとも、あそこはこの山の向こうだ。
こんな着の身着のままで冬の山を越えられるわけがないし、それにあそこだって、娘のことを受け入れてくれるかどうかわからない。
でも… どうしても、このまま娘を見殺しにするわけにはいかなかった。
(だって、この子はあたしとフジの娘なんだから… !)男たちの怒号が徐々に近づいてくる。
そのとき、目の前に着物の女が立ちはだかった。
すっと高くなった背丈に、背中に流れる長い黒髪。
その両目の色は、色を映さないあたしの目にもキラキラと輝いて見えた。
「… フジ!」
(なんでこんなところに)
フジはあたしの腕の中の赤子を泣きもせず、じっと目を開いて母を見上げている赤子の目を見て、すべてを悟ったように言った。
「… もう、戻ることはできないのね?」
「戻ったら、殺されるっ… !」
「… わかったわ。… ひかり、下がってて」
ザッ、とフジはあたしの前に出て、雪を被った木々のあいだから現れた追っ手の男たちと向かい合った。
「なんだぁ?この女… どこから湧いてきやがった?」
フジは男には答えずに、
「ひかり。後ろを向いていて。… 絶対に、私がいいと言うまで振り返らないで」
「わ… わかった」
あたしはフジに背を向けて、ぎゅっと娘を抱きしめた。
すぐに男たちの雄叫びが聞こえて… それはすぐに悲鳴へと変わった。
何かが風を切る音が、ひっきりなしに聞こえていた。
その合間に、ぐちゅっ、ぐちょっ、と肉が引き千切れるような音。
そして、男たちの断末魔と命乞いの声がして… 。
あたしはガタガタと震えながら、絶対にフジを振り返らなかった。
(見ちゃダメ、見ちゃダメ、見ちゃダメ…!)
やがて、何の音もしなくなり… 。
「… もう大丈夫よ」
顔を血飛沫で染めながら、着物には返り血ひとつついていないという奇妙な姿になったフジが、いつのまにかしゃがみ込んでいたあたしと娘に手を差し出した。
「追っ手はもうこないわ」
「フジ、ありが… 」
とう、と言おうとして、その手にべっとりとついた血に、動きを止める。
「あ… 」
フジは一瞬、傷ついたような顔をして、
「… ごめんなさい」
と、その手を引っ込めた。
そして、あたしに背を向けて、
「… 南にいこう」と言った。
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