第1話

最初の記憶は真っ暗闇。

痛くて苦しくてお腹がすいて、とにかく本能のまま何かにしゃぶりついていた。

何も見えず、体も上手く動かせずに必死に声だけをあげていた気がする。


次に覚えているのはうっすらと目が見え始めた頃。

あまりにもぼやけているので何も見えていないのと同じだったが、光は感じる取ることが出来た。

揺らめく光、暖かさを感じる光、眩しすぎる光。

沢山の光と、常にそばにいる温かな存在たちに自然と安心感を覚えていた。


そうこうしているうちにまた更に出来ることが増えた。

視界がハッキリとし、足もよく回る。

草花が茂る絨毯の上で兄弟や虫たちと心のままに遊んでいた。

毎日遊び、毎日ご飯を腹いっぱい食べて、長い時間を眠りに費やす。

ハッキリとした意識は無かったが、こういった生活にこの上ない多幸感を感じていたのは覚えている。


そしてその日は前日に雨が降った昼の事だった。

その時もいつもの様に走り回り、いつもの様に兄弟らしきやつに飛びかかりじゃれていた。

しかし雨で緩んだ地面は普段の動きをより大きくさせる。

そのせいで飛びついた勢いで足を取られズルっと体勢を崩し、兄弟を腹で覆い隠すような格好になった。

近くの大きな木の幹に頭がコツンと響く。


その瞬間。


目の前に火花が飛び散り数秒間の間にとんでもない量の情報が頭に巡る。

自分の過去、意識、全てが一気に押し寄せてきた。

そして驚く間もなく巡った記憶の中で今自分の体がどうなっているのかをものの数秒で理解できてしまった。


猫になってる…?


そう意識した瞬間、さっきまで自分が覆いかぶさっていた兄弟猫が俺の体に噛みつき2匹の体は90度回転した。

しかし遊んでいる場合じゃないと、足をサッと素早く動かし近くにある木に登る。

四方に伸びるたくさんの木の枝からちょうどいい窪みを見つけそこに体を落ち着けたあと、今しがた思い出した記憶について整理をすることにした。


思い出したばかりだからか、頭に霧がかかっているようではあるが、まず俺は人間だった。

それから性別は男で、猫であるこの体も恐らくオス。

歳は確か20代半ばくらいで世界中を飛び回るような生活を送っていた。

名前は…思い出せないが、出身国は日本という国だろう。

だが最後にいた場所の記憶はきっとヨーロッパのどこかだ。世界中を巡っていたのだからおかしくはないが。

猫になってからの事を思い出す限り今この世界もヨーロッパのような雰囲気がある為、最後の記憶から場所的な移動はあまりなさそうに見える。

しかしどうして猫の体になってしまったのだろう。

人間だった頃を思い出したとはいえ、なぜか覚えていないことも多い。

よくある表現だが、本当にパズルのピースがいくつも抜けているような気分である。

流行りの異世界転生?それとも、生まれ変わり?

転生したのならここは地球ではない可能性があるし、生まれ変わったのならなぜ死んだのか。

それに自分は何のために世界を飛び回っていたのだろう。

肝心なところが全て抜け落ちていた。

そして自分は大事なこと忘れている。何かは思い出せないのに、何かを伝えなければと心が騒がしい。


そこから悶々と答えの出ない思考を何時間も繰り返し、空もオレンジがかってきた頃。

耳に馴染むガサッとした音と直後に鳴るザラザラとした音が聞こえた。その瞬間本能的に木から降り他の兄弟猫たちと合流しながら音のする方向へ走っていく。

見慣れた小さな家の半分ほど開いた窓から家の中に入りみんなニャーニャー鳴き始める。気がついたら自分も同じように鳴いていた。

部屋を移動して音が最も近づく距離になった時、そうだったと今更ながら気づく。俺は今人間と暮らしているのだ。

この人に伝えることができれば、何か思い出す手伝いをしてもらえるかもしれない。

そんな考えを片隅に持ちながら目の前に出されたカリッとしたご飯を、腹が満たされるまで一心不乱に食べた。


器の底が全て見えた頃周りの皆も食べ終わりそれぞれが毛繕いを始める。

とりあえず現状だけでも確認しておくかと、自分も体を舐めながらちらりと辺りを見渡す。

自分も含めて6匹いることとそのうちの1匹は俺たちの母であること、それから歳は猫の体で産まれてから体の大きさ的に生後6ヶ月ほどだろうか。

ちなみに俺の柄は黒が多めで足4本に靴下のような白い毛が生えている。

兄弟たちは俺に似た柄もいるが母親含めほぼクリーム色の茶色に虎模様の、いわゆる茶トラだ。


そして肝心の人間、もとい飼い主は髭を蓄えた40代から50代くらいに見える男。

茶色っぽい作業服のようなものを着ていて、見た目はよくある西洋顔と言ったところか。

どこかで汲んできたのか、木枠のバケツから水を掬いながら俺たちの食器を洗っている。

キッチンも石造りだし、何だか中世ヨーロッパにタイムスリップしたような気持ちだ。

男の顔に動きまで細かく見ながらそう思いを巡らせていると、ふいに飼い主がこちらを見た。


「どうした?俺の顔なんか見て!」


だらしなく口を緩ませながら開口一番そう言い放つ。

猫相手に喋るのだから、もちろん俺の言葉は返ってこないと分かっているのだろうが更に続けて話し出す。


「そんなに見つめてもなぁんにも出て来んぞ」


そう言いながらも待ってましたと言わんばかりの勢いで男の手は床下の小さな扉を開け、俺の体くらいある大きさのビンを取り出した。


「最近手に入れたんだが、これは猫用のおやつらしい」


瓶には何やら茶色い粒の塊がゴロゴロ詰まっている。

確かに猫になってからこのビンは初めて見るな。

しかし、未開封だろうにこんなラベルも何も貼らない商品なんてあるのだろうか。

いささか不安になるも、ビンの蓋が開けられた瞬間漂う香ばしい匂い。

考えるよりも先に体は走り出していた。

それは他の家族たちも同じのようで皆んなして男を取り囲む。


「こらこら、順番だからな〜」


なんてゆるゆるの口元で宥めながら爪ほどのサイズのおやつを何粒か手に取り順番に俺たちの前へ置いていく。

置いた先から無くなるほどの勢いで、どれほど美味しいのかと期待して少し涎が垂れる。

そして俺の前に置かれた瞬間無意識に男の手を頭で押すくらいにグイッと顔を突き出していた。

口に入れた瞬間、口内で広がる鶏肉のような味。

飲み込んでもなお後を引く香ばしい香り。


これは...美味い!美味すぎる!


生まれて初めての衝撃を感じた途端、何の脈絡もなくいきなり脳内に男の声が響いた。


『こいつらはほんとうまそうに食べてくれるなぁ』


本日3度目の大きな衝撃が走った。

これは明らかに脳内で聞こえた飼い主の声だ。

反射的に男の方を見るも先ほどと変わらぬ締まりのない笑顔と、閉ざされた口があるだけ。

理解が追いつかないまま男の方を見つめていると、


『あれ、ソケテスどうしたんだ。最初は食いつきよかったのになぁ』


そんな声が脳内に届いた。

やはり幻聴では無い。

男の顔もあからさまに心配そうな表情へと変わっていた。

呆けている間に兄弟間を何周かしていたようで、俺が1粒しか食べていない事に不安になったようだ。

その表情にハッとして先程のように勢いよく食べ始める。

すると更に脳内で


『あぁ、良かった。美味すぎて固まっちまっただけか』


と男の声が響いた。

本当に一体何が起きているんだろうか。

猫になっていること自体有り得ないのに、その上心の声が聞こえるような特殊能力まで目覚めてしまったのか?

それに男だけでなく周囲にいる兄弟たちからも感情のようなものが伝わってきている感覚がある。

みんなは猫だからか言語としては聞こえてこないが『うまい』『しあわせ』と言った気持ちははっきりと分かる。

いよいよこの状況を受け入れられなくなってきた…。


この時の俺は、口内に巡るチキンの味さえ消え失せてしまうほどに頭がおかしくなる寸前だった。

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猫が世界救うらしい 猫原 @nekohara5618

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