聖水Ⅱ

 イギリス、サフォーク州、レンデルシャムの森──。


 近傍にイギリス空軍のウッドブリッジ基地が在り、さらにはUFO目撃情報で知られる場所だったが、地元民も知らない在外米軍基地が地下空間に存在した。


「オサムお兄様、何故なのですか?」


 昏い森の中を暗視スコープを頼りに歩き続け、ジョンとのランデヴーポイントまで残り数キロというところで思わぬ邪魔が入ったことにオサムは苛立ちを感じていた。

 

「私を置いて消えようだなんて──冷たすぎます」


 退役したジョンの協力を得た今回の脱走計画に、オサムは三年の歳月を費やしている。


 DARPAダーパを隠れ蓑としてポスト・ヒューマンを志向するエンディミオン機関に対し、強い反意を示す派閥が占める地への赴任は絶好機となったのだ。


 本土へ戻れば二度とは訪れないタイミングを逃すわけにはいかなかった。


「留まると言ったのはお前だろう」

「それは当然です。私は、ゴルゴンの瞳と──」


 そう言って少女は、白く小さな左の掌を振って微笑んだ。


「──慈悲なる神の力──オベリスクを授かったのですから」


 オサムは、万力で押さえつけられたかのように動かない瞼を細め、頼りない月明かりに照らされた少女を睨みつけた。


「それで、ボクを止めるつもりなのか?」

「うフふふフふ」


 狂気の混じった笑声と共に、少女は両腕を広げオサムへ迫っていく。


「逃がしません。絶対に逃がしません。逃さない、離れない、離さない──」


 オベリスクと名付けられた環状RNAは、ウイルスとウイロイドの中間的存在と言われているが人体に与える影響については未だ判明していない。


 無論、表向きはだが──。


「さあ、お兄様。可愛い妹の胸でお眠りなさい」


 オサムが最後に認識した感覚は、後頭部とうなじに絡みつくアリア・フォースの冷たい掌と、砂を噛まされた後のような圧倒的な喉の渇きだった。


「──の、喉が──」


 なお、ここまでの会話は全て英語である。


「渇いた」


 ◇


 氷室と京極は試合に戻っており、保健室に残されたのはオサムとアヤメの二人きりだ。


 窓を閉じているためか球技大会のざわめきも僅かしか届かず、ベットに寝かされたオサムの苦しそうな息遣いと寝言だけが室内に響いていた。


 ──ぜ、全部、英語なのよね。

 ──ランデブーポイントだとか何とか……。

 ──女の子と待ち合わせでもしてるのかしら?


 などと、アヤメがあれこれと思い悩んでいる時、ようやくオサムの口からはっきりとした日本語が発せられた。


「渇いた」

「えっ!?」


 思わずアヤメは、おっぱいをビクンと揺らして姿勢を正した。


 ──戸塚くんの、喉が渇いているっ!?


 夏休みが明けて以降の双葉アヤメは、常に二つのタンブラーを持ち歩いている。


 ピンク色と、メタリックシルバーのタンブラーで、修学旅行の火事により失われてしまったが同じものを買い直していた。


「つ、ついに──」


 メタリックシルバーの無骨なタンブラーを手に取り、アヤメはゴクリと音を鳴らして唾液を飲み込んだ。


 彼女が帰宅して最初にやることは、家族に隠れてそのタンブラーを塩素系洗剤で丹念に洗浄することである。


 そして、誰よりも早く起きて、タンブラーをひたひたと液体で満たしていく。


「──来たのね……」


 すべての苦労は、この日のためにあったのだと思えた。


 なお、ネット調べによれば紛うことなき変態行為とされているが、林間学校の洞窟で謎に目覚めてしまったアヤメはもはや欲求を抑えることが出来なくなっている。


 ──い、一応、水分だもの──喉の渇きは癒せるんだからね……。


 そう自分に言い聞かせながら、タンブラーのキャップをひねった。


 こうして双葉アヤメは、新たな世界への扉を開いたのだ。


 ◇


 話は少しさかのぼる。


 オサムが唐突に倒れ、二年C組が大騒ぎとなった時のことだ。


 学校の屋上では、敏腕マネージャーの父である万丈目が勝鬨を上げ、対する悪徳病院長の芦屋あしやは地に膝をついて悔しがっていた。


 地に伏したオサムの姿を見る限り、陰陽師対決の結果は明らかに思えたからだ。


 やはり虐めっ子の事故死は自身の呪法が原因なのだ──と、万丈目は確信を深め大いに満足した気持ちとなっている。


 他方──、


「おおっ、ピッチャー交代だってさ。試合続ける気なんだ」

「ギャルが投げられんの?」

「諦めたんじゃないかな」

「んじゃ、決勝戦の相手は三年の先輩かぁ」


 決勝トーナメントのシードである一年B組の生徒達は、実に気楽な様子で試合を眺めていた。


「ま、どっちだろうが、うちらが勝つよ」

「そうだな。なんと言っても、アリアちゃんが──え、あれ──どこ行くの?」


 珍しく笑顔の消えた表情を浮かべ、先程までの騒動を見つめていた一ノ瀬アリア・フォースが、唐突に背を向けて校舎の方向へ歩き始めたのだ。


「もうすぐ俺等の試合にな──」


 声を掛けられたアリアが、金髪を揺らして振り向いた。


「大丈夫です」


 そう答えるアリアの口調はいつも通りだったのだが、クラスメイトは奇妙な圧を感じて少しばかり狼狽えてしまった。

 

「え、そ、そう。分かった。うんうん、ご、ごゆっくり」


 トイレに行くのだろうと一人で納得し何度か頷いた。


「はい」


 ゆらり──と、アリアは再び歩き出す。


 航空自衛隊岐阜基地での再会から、あまりにも長い時間がかかってしまった。


 本来ならば、あの場で彼の意識を奪い連れ去る手筈だったのである。


 だが、即効性のあるIEオベリスクを浸透させたにも関わらず、今日に至るまでオサムは平常の日常生活を送り続けていた。


 ──尋常ではない体力、そして精神力だけが理由ではないでしょう。


 それを調べることも目的の一つだったが、アリアにとって最も優先すべきことは──、


 ──さあ、お兄様……。

 ──私の胸に抱かれる日々に還るのです。


 アリアは、誰もいない校舎に足を踏み入れたところで、自然体の笑みを浮かべることを自身の表情筋に許した。


「うフふふフふ」


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★DARPA …… 国防高等技術計画局


なお、予定より一話多くなりましたが、次で球技大会編は終わりです。

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