剛速球。

 クラスメイトの協力が得られないまま一週間が過ぎている。


 残った遭難メンバーだけで、三年A組の嘲笑を浴びながら、キャッチボールと素振りを繰り返す日々だったが上達には程遠い。


 イケメン氷室はまだしも、他の連中はフォームがどうこう以前に、まともに捕球することも出来なかったのだ。


 その光景を、オサム監督は何も言わず黙って見守っていたが──。


「やっぱ、うちらだけじゃ無理っしょ」


 ある日の放課後、そう結論付けた白鳥ミカは教卓の前に立ち、部活へ行こうしている運動部男子達を集めた。


「いや〜、無駄無駄」

「連中の練習見ただろ?」

「三年A組な。元野球部が揃ってるらしいぜ」

「そうそう。ってわけで球技大会なんて適当に──」


 口々に練習をサボる理由を申し立てたが、ミカはバシィィンと教卓を平手で叩いた。


「だから、練習すんだっての」


 他方、クラス委員の双葉アヤメは、教室の隅に居残りスマホゲームで遊ぶ陰キャ男子達に話しかけていた。


「──そうは言ってもさ、そもそも僕等が役に立つと思うかい?」

「バットも握ったことないしね」

「うん、やっぱり大雨で中止になればいいのになぁ」

「面倒だもん」


 陰キャ軍団が見せる予想通りのネガティブな反応に、アヤメは何日か悩んだ末に決意した代価を支払うことにした。


「あ、あのね──ちょっと──提案があるんだけど──」


 と、双葉アヤメが妖しい取引を始めた頃、教室前の廊下ではイケメン氷室が女子達に囲まれていた。


「氷室くん、なんで練習頑張ってるの?」


 彼は遭難事件以来クラスの最底辺に落ちていたが、球技大会の練習に取り組む真剣な姿で、再び女子達の評価を取り戻しつつあった。


 やはり、高校生活はイケメン最強である。


「反省──かな──」

「え?」

「林間学校で迷惑かけたしさ。だから、せめて球技大会ではクラスのためになろうって」

「わ、えらい〜」「きゃぁ、青春じゃん」


 女子達の上げる嬌声に、生まれ変わった氷室は表情を緩めることが無かった。


 彼の中に隠されていた人格が芽吹きつつある証しなのだが、その件が明らかになるのはまだ先の話である。


「だから、みんなも協力してくれると嬉しいな」


 そう言って氷室は、白い歯を見せた。


 廊下で上がった女子達の歓声をよそに、教室では白鳥ミカの説得が続いている。


「だからさ──」


 ミカは上目遣いの視線で、極力自然体のアヒル口で語りかけた。


「あんた達が残ってくんないと困るの。頑張ろ。──ね?」


 脇を締め胸を寄せつつ、両手を合わせた。


「え? お、おう」

「そ、そうか。ま、今日ぐらいバスケ部休んでもいっか」

「じゃ、俺も白鳥に免じて行ってみようかな」


 と、ド単純な男どもは好反応を示し始めたのだが──、


「はぁ、やれやれ。バッカじゃねぇの」


 彼等の背後に立っていたサッカー部男子こと水島充が水を刺した。


「あ、何がよ?」


 ミカは目を細め、トゲのある声音で尋ねた。


「ふん」


 普段の水島なら音速でミカに謝るシチュエーションだったが、彼は鼻を鳴らして教室を出ていこうとしている。


「どこ行くの──ああ、またテニス部で覗きってわけか。最っ低」

「ちげーよ、今日は部活に直行すんだよ。校庭使えねぇから、こっちはランニングばっかりで迷惑してんだけどな」

「はあ? ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!」


 歩き去ろうとする水島の腕を、ミカが意外に力強く掴んだ。


「元野球部でしょ? あんたが一番に協力しないと駄目でしょうがっ!」


 なおかつ、オサムへの義理もあるだろうと言いたかったが、クラスメイト達の目に配慮して黙っておいた。


 何度もオサムに助けられたとはいえ、遭難から修学旅行に至るまで、口外しない方が良い犯罪行為が無数にあったためだ。


「あのな、ミカ。無理なもんは無理なんだよ。だって、このクラス素人しかいねーじゃん」


 中学校の部活、そして少年野球経験者もいない。ソフトボールを授業でやった程度の人間ばかりなのである。


 まさに、野球とは斜陽競技なのだ。


「だから、練習するわけでしょ? あんたキャッチャーやってたんだし、その時の経験を活かしてさ──」

「チッ、野球なめんよ」


 珍しく真顔となった水島が舌打ちをする。


「まず、ピッチャーとして投げられる奴はいんのかよ? いねーだろ。それにバッティングセンターも行ったことのないお前らは、90キロの棒球だって打てやしねぇんだ」


 球速90キロ──、数字で聞くと並以下に思えるが手元に届くと速く感じられる。


「だいたいさ、キャッチボールもまともに出来ないわけだろ。お遊戯会かっての。笑わせやがる」

「ぐっ──」


 事実その通りなのでミカとしては返す言葉も無かった。


 その時、


「水島くん」


 窓際で静かに立っていたオサムがようやく口を開いた。


「な、なんだよ」


 オサムの怖さは知っている水島だったが、野球に限って言えば譲れない一線がある。


 ずぶの素人に混じって無様な試合をするために、リトルリーグから中学、そして高校一年生までの練習に励んできたわけではない。


 廃部というアクシデントで潰えた夢の末路が、素人野球では悲しすぎるとも感じていた。


 ゆえに、声を震わせつつも懸命に反抗的な態度を装っている。


「監督を拝命した以上、ボクはマネージメントに徹するつもりだったのだが、そうも言っていられないようだ」


 これまでの練習を観察した結果、彼自身も何らかのテコ入れが必要だと考えていたのだ。


「少しばかり──、お遊戯会に付き合ってくれ」


 ◇


「ぎゃはは。今日はぞろぞろ揃ってやがるな〜」

「おーい、さっさと諦めろ」

「スキーツアーは、A組が頂きだからな」


 三年A組の温かい声で迎えられた二年C組の面々は、肩身の狭い思いを抱きながらも、それぞれが野球用具を手に取っていた。


「あれ? おやおや、水島じゃん」

「水島ぁ。どのつら下げて野球するんだよ」

「お前みたいな卑怯者は、球でも蹴ってろっての」


 捕手用の防具類を付けて現れた水島に、元野球部の面々が一斉に野次を飛ばした。


 だが、水島は何も言い返さずに下唇を噛んで歩き続ける。


「てめぇコラ、無視すんのかよ。先輩が──」

「少し、静かにして下さい」


 ボブカットの敏腕マネージャは手を上げて彼等を黙らせると、しゃがんでミットを構えた水島と、そこから離れて立ったオサムへ好奇の目を向けた。


「一回だけだっ!!」


 人差し指を大きく上げた水島が叫ぶと、オサムは肩をぐるぐると回して頷いた。


 未だに肩の異様な重みが取れていないのだ。


 そのため何度か訝しげに首を捻っていたが、やがて諦めた様子でボールを掌で握った。


 ──どうにも力が出ないが──ふむ、ま、投げてみるか……。


 オサムには野球経験などなかった。

 最も近い訓練と言えば、手榴弾の投擲訓練だろう。


 ──高校生相手なら、ともかく球が速ければ何とかなるはずだ。


 監督就任を引き受けた後、彼は寝る間も惜しんで座学に励んでいた。


「──重心はいい」


 足を上げたオサムを見詰め、敏腕マネージャが小さく呟く


 この時、幾つかの偶然が重なった。


 記憶野に焼き付けた投球フォームの映像を忠実に再現しようとするオサムの意思に連動し、小脳は近似する過去の運動パターンを導き出して四肢へと各種信号を送り始める。


 だが、肩が重い──。


 ゆえに記憶した速球重視のオーバースローではなく、一般的なスリークォーターのフォームとなったのだ。


 球速は犠牲となるが制球が良く、肩と肘への負担も軽減される。


 オサムがタイミング良くリリースすると、空気を裂くような風切りと共に白球が走り抜け、構えたミットと寸分違わぬ場所へ収まって辺りに子気味の良い音を響かせた。


「──え──?」


 三年A組の元野球部からはバカにした表情が消え、敏腕マネージャの瞳に爛々とした輝きが浮かび始めている。


 スピードガンで計測はしていないが、恐らく150キロ近く出ていたはずだ。


「ちょ、何これ?」

「す、すごい──」


 初めて目にしたオサム監督の投げっぷりは、アヤメやミカのような素人目にも圧巻だったのだ。


 だが、最も感動しているのは彼女達ではない。


「いい球──」


 水島は久しぶりに感じた掌の痛みに、あらゆるエロを上回る喜びを感じていた。


「投げるじゃねええかああああああっ!!!」


 立ち上がって吠えるとオサムに向かって走り寄って行く。


「ゆ、優勝だ。オサム、優勝だああ」


 目を潤ませながらしがみついてきた水島を他所よそに、オサムは別のことを考えながら肩を回していた。


 ──やはり、肩の調子が悪いな。


 彼は不満だったのである。


 ──もっと速く投げられるはずなのだが……。


 多忙で先延ばしにしていたが、やはり病院に行こうと決めていた。

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