二日目 火事です〜。

 昭和末期に発生したホテルの大火災を契機として、真っ当な宿泊施設の防火対策は大幅に強化されている。


 スプリンクラー等の消火設備、防火区画、耐火構造の壁面と床、従業員達の火災訓練と行動も細かくマニュアル化されていた。


 つまり、通常ならば、ホテルの火災で大規模な被害が発生するなどあり得ないのだ。


「だ、駄目だ! 奥の階段はもう降りられない」

「非常階段も無理──ってか、燃えてんだけど。ありえないっしょ」


 口と鼻をハンカチで抑えたイケメン氷室と京極が部屋に駆け込んできた。


 既に廊下は煙が満ち始めていたのである。


「くそっ。エレベーターは動かねぇし」

「あんたバカぁ? 火事の時は動いてても乗っちゃ駄目だっての」


 妙に覚悟が決まってしまっている天王寺キララは、ベッドの上でストレッチ体操をしていた。


「でも、スプリンクラーが反応しないって、どういうことよ?」


 天井を見詰め、不安な様子でクラリスが呟いた。


 出火元が複数ある上に、設置されている防火設備の多くが作動していない。


 設備点検の義務を怠っておらず、従業員の教育訓練にも抜かりはなかったのだが、上層階の客に対する避難誘導へ手が回らない状況に陥っていたのだ。


 こうなっては、防災マニュアルなど通用しない。


「他の部屋の奴らも焦りまくってる」

「ま、逃げ場が無いんだから、当然よね」


 悲鳴のような館内放送、そして廊下や他の部屋から響く怒声が、事態の深刻さを物語っていた。


「糞っ! もう窓を叩き割って一か八か行くしかないだろ?」

「十階からじゃ、さすがに無理だっての」

「やっぱ、消防車が来るのを待つしか──」

「──あ、あのね」


 部屋の隅で何も語らずスマホを眺め続けているオサムの様子を伺いながら、双葉アヤメはおずおずと声を上げた。


 彼女の脳裏には焼き付いていたのだ。


 断崖絶壁から白鳥ミカが滑落した際、アヤメだけはキララの毒液による目潰しを免れたため、超常現象とも言えるオサムの運動能力を目撃している。


 ──ううん──あれは運動能力という次元じゃないわ……。

 ──ヤモリとか、なんかそういう……。


 いわゆるファンデルワールス力である。


「戸塚くんだったら──」


 皆を順番に抱えてホテルの壁面を地上まで駆け下りることが可能ではないか──とアヤメは考えたのである。


 実際その通りだったのだが、現在のオサムは別のことに気を取られていた。


「さっきから、何見てんの? オサム」


 唐突な火災で告白が中断された白鳥ミカだったが、彼女の内面ではオサムとの心理的距離が幾分か縮まっている。


「あれ? うちらのホテルじゃん」


 京都駅に程近い十二階建てのホテルが映し出されており、上層階を中心にして噴煙が上がっていた。


「つか、こいつスパチャもらってね?」


 何者かが中継する事故現場のライブ配信では、なぜか投げ銭が飛び交っていた。


「ムカつく」


 ミカが顔をしかめる。


 理由は不明ながら消防隊は未だ到着していない。


 だが、何の役にも立たない野次馬と、鼻が効いて小銭に群がるコバエだけはいち早く現場に集まっているようだが──。


「腹など立たん。お陰で状況が理解できた」

「え?」

「情報提供には謝礼が必要だな。ふむん──」


 動画下部で流れるリアルタイムチャット欄に、時折¥記号が表示されていることにオサムは気付いていたが、スパチャの仕組みを理解していなかった。


 オサムはYoutube鑑賞などという無駄な時間を費やす男ではない。


 そんな暇があるならば、巨乳彼女をゲットする作戦を練るべきなのだ。


「貸して」


 大方の事情を察したミカが、素早くオサムのスマホを取り上げた。


「んで、幾ら?」

「相場を知らないのだが──百万程度の価値はあるだろう」

「ぶふっ」


 驚いたミカの唾液がスマホの画面に飛び散った。


「あのね、マックスで五万だってば」

「ほう、なるほど──」


 オサムは感心した様子で深く頷いた。


「実に良心的だ」


 ◇


「階下の連中はどうするんです?」

「映像で見る限り、十階以上の宿泊客を皆殺しにする配置だ」

「み、皆殺し?」


 オサムの言葉に、京極の顔が青ざめた。


「事実、逃げ場が無かっただろう」


 十階から十二階に居合わせた宿泊客と従業員達を引き連れて、ホテルの屋上に集まっていた。


 オサムとキララが中心となり、屋上への迅速な避難誘導を果たしたのである。


「こ、これから、どうするの?」

「大丈夫だってアヤメ。さすがにそろそろ消防隊が来る──」

「来ない」


 オサムは夜空に浮かぶ月を見ながら言った。


「この派手な騒ぎを起こした連中は、当然ながら各所に手を回している。抜かりはない」


 ──つまりは、ボクを晒し者にするつもりなのだろう。


 当面の安全を確保できる場所へ辿り着いたとはいえ、柵越しにビルの下方を見詰める人々は消防隊が到着するのをひたすらに祈っていた。


 消火活動が始まるか、あるいは救援が来なければ、やがては火の手に追いつかれてしまうのだ。


 無論、オサムがビルの壁面を往復する手段は残されていたが、彼としても自身の異能を衆人監視の元で公開するリスクは冒したくない。


 ──だが、が間に合わなければ……。


 と、オサムの中に若干の焦燥感が生まれ始めた時のことだった。


 月明かりの中に特徴的な形状をした灰色の機体が浮かび上がる。


 五つの機影が、低周波音を響かせながら迫ってきていた。


「救助ヘリ?」

「いや」


 ミカの質問に、オサムが首を振って応える。


「在日米軍のオスプレイだ。何度か墜落事故の報道があっただろう」


 不吉なことを言いながらもオサムは珍しく笑みを浮かべた。


「安心しろ。フィリピン航空より事故率は低いのだ」

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