世界には表と裏がある
「
「あーまぁ、うん。俺これ描く」
「ふーん、俺あっちの方見てくるわ」
おー、と返事をし、新太は友人を見送った。今日は生物の先生の気まぐれで外の生き物のスケッチをすることになったのだ。学校付近の田んぼやあぜ道など先生の目が届く範囲で生き物を見つけ、描く。男子は高校生にもなって虫を追いかけ回す者が多数。女子は1つの花を複数人で囲み、きゃっきゃっと話しながら描いていた。新太はというと、用水路にしがみつくタニシのような生き物に目をつけた。今は5月、田植えもあらかた終わり、田んぼには水が入っている。そこに泳ぐメダカやオタマジャクシ、ザリガニも男子たちに大人気なのだが、あえて新太はこの地味なタニシみたいなやつを描こうと思った。それなりに流れのある水に動じることなくじっとしているこいつに、新太はいじらしさを感じていた。よく見て観察し、うっすらと輪郭を描く。そのとき、背後から伸びてきた腕が新太を抱きしめる。ヒュッと息を呑むと同時に耳元で囁かれる。
「ここにいたの?アラタ」
次の瞬間、白目を剥くほどの勢いで後転したかのような感覚に襲われる。ぐっとその感覚に耐え、ゆっくりと目を開けるとなぜか湖の浅瀬に立っていた。もちろん靴はぐしょぐしょで、制服のズボンの裾も濡れている。奇跡的にノートとペンは手から離さずにいたおかげで被害はない。心の中で安堵する一方、沸々と不快感と怒りが湧いてくる。新太は首に回る手をほどき、背後にいる人物と向かい合う。
「エリサ!いつもやめろって言ってるだろ?!」
エリサは小首を傾げ、えへへと笑う。全く悪びれた様子のないその態度に、新太は余計に腹が立つ。
「えへへじゃない。お前のせいで靴がびしょびしょになっただろうが」
「ご、ごめんね。でもほら、魔法でちょちょいと乾かせるし大丈夫!」
「今俺は、とても不快」
新太がじとっと睨みつけるとエリサはいそいそと新太の手を引いて岸へと向かった。岸へ上がるとエリサは新太の正面に立つ。
「さぁ、水辺の友人たちよ。彼の雫を払い落としておくれ」
エリサが告げると、新太の足元からザワザワと水滴が現れる。新太の靴から、ズボンから、じんわりと水滴が滲み出て、生地を離れた途端に霧散する。はたから見るとそれはそれは美しく、幻想的に見えるだろう。けれども新太からすれば、見た目こそ美しく、とても便利な魔法だが、やられる側は全身を虫が這っているような感覚がする。これがまた不快なのだ。
「ほら、魔法でちょちょいでしょ?」
「……」
「え、もしかしてまた虫みたいだった?」
「うん」
「えー?!なんで!?」
思わず「知るか」と怒鳴りそうになるが、こらえる。エリサは良かれと思って魔法を使ったのだ。悪気はない。と新太は自分に言い聞かせる。
「そういえば、アラタがいた水たまりみたいなところってなに?」
「あれは、米育てるところ」
「コメって、あの白いやつ?」
エリサが初めて米を見たのは、新太の弁当を見たときである。以前、昼食中の新たを見かけ、嬉しくて呼び出したときの弁当にご飯が入っていた。
「へぇー、コメかぁ。そういえば、“表”の人間って面白いの食べるよね」
「俺からするとお前らの方が不思議」
「えーそうかなー?」と言うエリサの主食は水である。水道水などではなく、池や湖の水である。エリサが言うには「底の方の水が栄養たっぷりで美味しい」らしい。新太には泥臭い水にしか思えないが、美味しいらしい。
「で、なんで俺を裏に連れてきたんだよ」
「会いたかったから?」
「俺、授業中なんだけど」
「なんの勉強してるの?」
「生物」
新太が答えるとエリサの表情が明るくなる。エリサは湖に駆け寄ると両手を広げ、キラキラした瞳で新太を見た。エリサの言いたいことを理解し、新太はため息をつく。
「いやいや、明らかに植生が違うだろ」
「でもでも、ほら!綺麗なお花!」
エリサは目についた花を摘み、新太の耳の上に刺す。「うん、似合ってる」と呟き、微笑みを浮かべるエリサを見て、もうどうにでもなれと新太は思う。
この世界は新太の住む世界の裏側にある。魔法や精霊が存在し、コンクリートや電気が存在しない世界である。だからとても自然が豊かで、活き活きとしている。植物は新太の住む世界、“表”にあるものもあれば、“裏”にしかないものもある。エリサが手折った花はそこら中に群生しており、“表”でも見たことがある気がする。ならこれで問題無いだろう、と新太はしゃがみ込み、スケッチを始めた。そんな新太の様子を見て、エリサはほっとする。エリサとて、新太の邪魔をしたいわけではない。「アラタは“表”の世界で生きているのだから仕方がない」とは思っている。…‥思ってはいるが、正直に言うとエリサはずっと新太のそばにいたいのだ。だから新太に「こちら側で暮らさないか」と誘い続けているものの、毎回断られている。かと言ってエリサは長時間“表”で過ごすことができない。なのでときどき新太をこちらへ連れてくる。けれど大抵の場合、タイミングが悪い。勉強していたり、ご飯を食べていたりしている時に連れてきては怒られる。しかしエリサはやめるつもりはない。会いたいのだから、しょうがないだろう。
「光の友人たちよ、どうか立ち去らないで」
エリサの声で新太はノートから顔を上げる。周りは夕焼け色に染まり、暗くなりかけていた。新太がそれに気がつかなかったのはエリサの魔法のおかげだ。
それよりも、と新太は腕時計を見る。高校の授業は1コマ50分。こちらにきたのが授業開始から15分経ってから。それからちょうど1時間が経っている。“表”は“裏”の1/2の速度で時間が進んでいる。つまりあちらの世界では30分しか経過していない。しかし、そろそろ授業が終わる。
「エリサ。そろそろ帰らないと」
「えー、もう?」
「授業中なんだって」
しょぼんとしつつ、エリサは新太の両手を握る。
「じゃあまたね、アラタ。……世界よ、裏返れ」
新太をまた、あの感覚が襲う。白目を剥くような後転の感覚。それに耐え、目を開くと青々とした田んぼが広がる。“裏”での立ち位置のずれにより、生徒集団が遠くに見えた。新太はもといた場所から離れたあぜ道に立っているらしい。足元が田んぼじゃなかっただけマシか、と思い、新太は生徒の集団を目指して歩き始めた。
一ページに詰める 蒼貴 @aboutyou
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