出来過ぎた埋葬

川谷パルテノン

出来過ぎた埋葬

 実父が死んだ。もう何年も会っていなかった。ろくでもない人間で、私と母を捨てて女と蒸発した。父を最後に見たのが十一の時で、出て行ってからは東京で飲み屋をやってるとか九州で農家になったとか嘘か本当かもわからないような内容の手紙を祖母には送ってきていた。それも祖母が亡くなってから父の実家で私が見つけたもので、もとより父方の家族と折り合いの悪かった母と私には父がどこで何をしているかなんて知る由もなく知りたいとも思わなかった。ただ昨年に亡くなった母は晩年、認知症を患ってから父のことをよく口にするようになった。母の本心がどこにあったかは分からないがあれで寂しがり屋なとこもあって、父に会いたいと言ったのが本音なのだろうと思う。私はそれがなんだか裏切られたような気分で、母のことは好きだったけれど孤独さがあった。私の二十代は殆どが母の介護に費やされ、亡くなった時は正直ほっとしてしまった。まるで羽でも生えたかのように足取りは軽くて、葬儀が全部終わった日にコンビニで好きなものを好きなだけ買ってやけ食いみたいなことをした。見たかった映画を何本も見て、気づくと朝日が昇っていて、母と二人の時は狭かった部屋がやけに広くて一人で泣いた。

 父が死んだという報せはあろうことか一緒に逃げた女から届いた。それは二枚の便箋にまとめられていて、父が私と母に会いたがっていた、私だけでも葬式に顔を出してあげてほしいなど厚かましい頼みが書かれていた。いったいこの人はどういった気持ちでこんな手紙を寄越したのだろう。そもそも住所がわれているのも怖かった。どうせ父方の親戚が誰かしら教えたのに違いないがそれはそれとしてよく送ってこれたなと思った。私はその手紙をすぐに捨てた。苛立ちを抑えるのに必死だった。もう関係ない人。それが今さら私のことを苛つかせないでほしい。苛ついている自分にも腹が立った。母の納骨の手続きなどがまだ終わっておらず忙しない日々が続く中で私は父の死のことを忘れていった。

 最初の手紙が届いた日からひと月と経たないうちに二通目が届いた。それは身勝手な手紙を送ってしまったという反省から始まっていたが結局は仏前で拝んであげてほしいだとかそういう話に結実していた。父は生前、最期はその女と徳島で農家民宿を経営していてそこの写真も同封されていた。当てつけか。私はまたそれを捨てようと手を振り上げた時に一つの思いつきが浮かんだ。女はおそらく私の顔を知らない。知っていたとしてその頃の私はまだ小学生だ。あれから二〇年近くが過ぎた。私はその民宿に客として出向き散々にこき下ろしてやろうと考えたのだ。今さら自分の性根の曲り具合など気にもならなかった。父が死んだ今、残った女に恥をかかせてやりたいと思った。

 私は新幹線で六時間かけて四国へとやってきた。流石に長旅で、来る途中なんども莫迦莫迦しくなったが、それでもどんどんと知らない景色が広がる度に当初の目的とは別の部分で胸の高鳴りを感じていた。よく言えば長閑な、自然に囲まれた静かな土地だった。実直にいえば何もなさそうな田舎町だった。海も近く、山も近い。父には派手好きな印象があったのでそれにしては随分と退屈な町で最期を迎えたのだなと思う。女が営む民宿までは一時間に一本のバスがあるだけで、私はばっちりそれを逃したあとにバス停に着いた。バス停にはベンチが据えてあり、老齢の男性がひとり腰掛けていた。どうせ暇なので話しかけてみる。もしかしたら女の顔見知りかもしれない。

「こんにちは」

「あ、おまはんどこの人え」

「えっと」

「徳島やないね」

「違います」

 なんだか上手く会話が弾まない。おじいさんはマイペースで、流れから逆に質問されるのかと思いきや特に興味を惹かなかったのかほったらかしにされた。

「バスを待ってるんですか」

「坂がきぶいけんちょっと休んどるでなあ。そんだけ」

「はあ」

 結局何も聞けないままバスが来た。おじいさんはバスに乗らず、バスに乗っている客は私だけだった。発射間際に窓の外を見遣るとおじいさんが手を振っていて、私も遠慮がちに振り返した。

 バスが最寄りの停車場に近づいて私は降車ボタンを押したのにそのまま通り過ぎようとするので慌てて運転席まで駆け寄った。運転手は申し訳なさそうに頭を下げたが狭い道なので引き返すわけにもいかず運賃は要らないということでその場で降ろされることになった。少しだけ歩く羽目になったがようやく目的地に着く頃には昼時も過ぎていた。お腹が空く。私は手紙に添えられていた写真と見比べて間違いないことを確認し、いよいよ足を踏み入れた。なぜだか緊張した。普通の家という感じだ。二、三十年前には流行っていた二階建ての古い家。呼び鈴のボタンを押すとその人は現れた。私は母から父を奪った女の顔を知らなかった。お互い様だったわけだ。なので想像していた女像は父に倣って派手な、それは元ホステスだとも聞いていたからだけれど、人のものを奪ることをなんとも思わない性悪女だった。ところが姿を見せたのは小柄でおとなしそうな、どちらかといえば淑やかで可愛らしい感じのおばちゃんだった。「吉田さんですね。お待ちしてました。どうぞ」と言った声は柔らかく、あまりにもイメージとかけ離れているので私はまるでコーラのつもりで烏龍茶を飲んだ時のような手応えのなさに呆然というか驚きすらあって立ち尽くしてしまった。

「どうしました。どうぞどうぞ。お昼食べられました。まだだったら用意がありますんで」

「すみません。ありがとうございます」

 私の第一声は感謝で始まってしまった。


「外からのお客さんは珍しいんですよ。といってもこのとおり。今はオシャレなところも多いから若い子たちはそっちに行っちゃって。うちなんか選んでいただいてありがとうございます」

「と、とんでもないです。安かったんで」

 私が咄嗟に繕った言葉に対して女はプッと吹き出した。私はまた咄嗟に咄嗟を重ねるように失礼を詫びてしまい、女が「いいんですよ本当のことだから」と受け流すので調子が狂った。一体私はここに何をしに来たのだろうか。女に通されて部屋に着くと窓辺から海が見渡せるように広がっていた。この民宿で一番景色がいい部屋だそうだ。私は精一杯皮肉を込めたつもりで「そうですか」と無感動な言い方をしたが「お昼、すぐお持ちしますね」と躱されてしまう。部屋に一人になると私は悔しさがジェスチャーになった。

 出てきた昼食はやけに豪華で昼からこんなに食えるかよと思ったのだがずいぶん空腹だったようで軽く平らげてしまった。海鮮から山菜から選り取りで知らないのに懐かしい優しい味がした。ただ何故か味噌汁だけはべらぼうに不味かった。

「短い間ですけどゆっくりしていってね」

 私は上手く言葉が返せなかった。その日の夕方、出歩くといっても周りに目立つ行き先もないので部屋でゴロゴロしていた。それもあまりに退屈なので空気だけでも吸うかと外に出ると女は畑で野菜を採っていた。

「もうすぐ夕飯準備しますから。でもよかった。この子たちが無駄にならなくて。あたし一人じゃ食べきれないからね」

「あの」

「なんでしょう」

「お名前、教えてもらってもいいですか」

「あら、ごめんなさいね。清水です。清水里子」

 知っていた。手紙に書かれていたから。

「清水さんはお一人でここを」

「ええ、まあ。少し前に夫が亡くなって。だから予約も取ってなかったんで。吉田さんが、あたし一人になってからのお客さん第一号です」

 夫と彼女が何気なく放った言葉が突き刺さった。父と清水里子の間ではふたりは夫婦だったのだ。そこには私や母の気持ちなど存在しない。私は自分を押し殺すので必死だった。今すぐにでも罵りが口から出かかっているのに、たった半日ほどで受けた清水里子の印象があまりに違うので妙な気を使ってしまっていた。私はどのタイミングで自分が吉田ではなくあなたが夫と呼んでいるその実の娘だと打ち明けようかとあぐねいていた。清水里子が最も痛みを感じる瞬間でなければならない。自分の中では最早ケチをつけるだけでは済まされない状況が出来上がっていて、あとはどう落とし前をつけるかだけだった。夕飯が運ばれてくる。相変わらず美味しそうだ。もうここしかない。

「清水さん」

「なんでしょう」

「一緒に食べませんか」

「あたしは、吉田さんはお客さんですから」

「お願いします」

「そ、そうですか。じゃあ」

 私はしばらく無言で料理を口に運んだ。流石に清水里子も気まずそうである。

「清水さん。私、吉田じゃないんです」

「なんのことですか」

「こんなしょうもないとこ、なんのキッカケもなしに来るわけない。そう思いませんか」

「急にどうしたの」

「松本恵美。あなたが馬鹿みたいな手紙を送ってきた松本健志の娘です」

 清水里子は一瞬息を呑んだような顔をした後諦めたように鎮痛な面持ちを見せた。

「私はあなたを責めにきました。父のためでもあなたのためでもありません。亡くなった母と私のケジメのためにここにいます」

 声が震える。

「私は父のことを許しません。死んだからって最悪な人だったことは変わりません」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「私は、私 は、あなたのことも嫌いです。ふざけた手紙を寄越して、なんで私がわざわざあの人の死を悼まなくちゃならないんですか。私や母のことを一度だって顧みなかった最低な人を」

「ごめんなさい、でも違うの。あの人は最後まで後悔してました」

「何を! 何が後悔なんですか。だったら、いなくならないでほしかった」

「あたしは、あたしが勝手を言いました。二十年前のあたしはろくでもない若い娘で、世間から見放されて然るべき人間でした。ただあなたのお父さんは、ごめんなさい。あなたのお父さんはそんな私にも優しくて、本当にごめんなさい。好きになってしまいました」

「許せない」

「許されたいとは思いません。ただあなたのお父さんはずっと会いたがってました。恵美さん、あなたにです。それをあたしのわがままで、あの人の優しさに漬け込んで、離したくなかった。でもあの人言ったんです。亡くなる間際に、あたしにありがとうって。あたしはその時ようやく自分の馬鹿さ加減に気づきました。あたしがしてきたことはあなたやあなたのお母さんだけじゃなくあの人の幸せも奪ってしまっていた。もちろんふざけたお願いだと思っています。でもあの人があなた達を心の底から見放したわけじゃないとお伝えするのがあたしの最後の役目だと思いました」

「勝手なこと言わないでください。母は死にました。もうそんなこと伝わらないです。父も死にました。なんとでも言えます」

「そうですよね。ごめんなさい。あたしにはもう謝ることしか出来ないです。ごめんなさい」

「もう二度と私の人生に関わらないでください。私は絶対あなたを許せないから。だけど、悔しいけど、許せないけど」

 自分でも何故そんなことを言ったのか、今でもわからない。

「父はあなたといて幸せだったと思います。このお味噌汁、父が作ったのとおんなじ味だから」

 清水里子は鼻声で何度も謝っていた。私の復讐は叶ったのだろうか。そのことはもうどうでもいい気もしていた。

 翌朝、民宿を発つ前に仏壇を拝ませてもらった。私と彼女の間に無駄な会話はなく、簡素な別れだったがそれでいいと思った。帰りのバスには、ここに着いたときに出会ったおじいさんが乗り合わせていて、声をかけるでもなく手を振ってくれる。何を喋ってるのかほとんどわからなかったが、バス停に着くまで私はおじいさんとずっと話していた。

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