第5話 別れと再会
王太子殿下の後ろを、付き添いの神官のふりをして粛々と歩く。行き交う神官は殿下の姿を認めるなり、廊下の壁に寄って慎ましく礼をしていた。
白で統一された神殿の中で、殿下の黄金色の髪はとても目立つ。後ろ姿だけでも、はっとするほど美しいひとだった。
……なんだか、懐かしいわ。
言葉も交わさず、笑いあうこともなく、この数年間ふたりで並んで歩いてきた。彼に個人的な感情は持ち合わせていないつもりでいたが、長年の顔馴染みともなると、それなりに情は芽生えるものだ。
……仲の悪い幼馴染、といったところかしら。
イザベラは殿下が優しいと言っていたが、それは彼女限定なのだろう。殿下が私に優しかったことなんて、今日までただのいちどもなかった。
黙々と歩き続けているうちに、光のあふれる中央から離れ、薄暗い北側の棟へ移動していた。やがて殿下は地下へ繋がる螺旋階段を降り始める。
……この先にあるのは、地下牢のはずじゃ。
嫌な予感に、肩が震えた。お兄さまが、残酷な扱いを受けていたらどうしよう。
石造の階段はところどころでこぼことしていて、注意しなければ足を踏み外してしまいそうだった。淀んだ空気に混じったかびの臭いに眉をひそめながら、一段一段慎重に降りていく。
「手を貸せ」
数段先を降りていた殿下が不意に速度を緩めたかと思うと、私に手を差し出してきた。あまりに驚いて、しばらく固まってしまう。
……殿下が、公的な場以外で私を尊重する素振りを見せるなんて。
イザベラに恋をして、彼も変わったのだろうか。信じられない思いで見つめていると、殿下が苛立ったように私の手を取った。
「君が僕をどう思っているかは知らないが……これでも、反省している」
「え?」
「……僕はたぶん、君を蔑ろにしすぎたと思う。君が聖女候補であったとき、イザベラと平等に接しているとはとても言えなかった。君は僕のことなど、今更微塵も気にしていないだろうが、ひと言謝りたかった」
螺旋を描くように曲がる階段の途中で、殿下は私をまっすぐに見上げた。
彼とは数年間数え切れないほど顔を合わせてきたのに、初めて彼と目が合ったような気がする。
「君を神殿の中で孤独にした一因は、きっと僕にもある。すまなかった」
彼は、こんなにも誠実なひとだっただろうか。こんなふうに、私の苦痛を思いやってくれるひとだっただろうか。
……そもそも殿下の性格を判断できるほど、お話をしたこともなかったのだわ。
お互いに、お互いの本当の気持ちを決めつけあって、距離を取っていたのだろう。恋人には到底なれないが、今からでも友人になることはできるのかもしれない。
「どうかお気になさらず。……イザベラを、必ず幸せにしてくださいませ」
「ああ、約束する」
殿下はわずかに口もとを緩め、再び前を向いた。私の歩調に合わせて、ゆっくりと階段を下っていく。螺旋階段の最後の段で手を離された瞬間、私と殿下の関係性に、すっきりと何か区切りがつけられたような気がした。
螺旋階段を降り切った先には、燭台がぽつぽつと灯るだけの薄暗い廊下が広がっていた。地下独特の、押しつぶされるような閉塞感が漂っている。
「アスター公爵令息は、この先だ」
殿下は薄闇の方を指さして、歩き始めた。こんな場所にお兄さまが閉じ込められているなんて。
遠くで、水滴の滴り落ちる音が響いている。足音さえも大袈裟に響いてしまうようで、ルカ神官に見つからないか怖くて仕方がない。
「まもなくだ。……安心しろ、この辺りは人払いしてある」
そう言って、殿下はある扉の前で止まった。厳重に鍵のかけられている飾り気のない黒い扉だ。
殿下は上着から鍵を取り出すと、すぐに扉を解錠した。この先に、お兄さまがいるようだ。他の牢屋とは違い、ここだけは個室になっているらしかった。
殿下が静かに扉を開ける。すぐに薄暗い室内が露わになった。
「……っ!」
お兄さまは、小さな寝台の上に寝かされていた。熱があるのか、燭台に照らされた額は薄く汗ばんでいる。見ない間に、ずいぶんやつれたようだ。ろくな食事を与えられていないのかもしれない。
「お兄さま……! お兄さま!」
慌てて寝台まで駆け寄り、彼の額に触れた。やはり、熱を出している。意識は朦朧としているようだった。
……ひどい。こんな状態になるまで放っておくなんて。
ろくな治療を受けられていない証だ。彼の肩に乱雑に巻かれた包帯をとり、傷口をよく観察した。傷の周りが赤くなっている。
「女神ネージュさま……御力をお貸しください。『あなたの涙で黒き澱を払い清めたまえ』」
迷わず「ルナの祈り」を使用し、傷を清める。淡い光が溢れ出し、赤みがすっと引いていった。
間髪入れずに、もういちど指を組んで視線を伏せる。
「祝福の力で、傷を覆ってください……『女神の慈愛は張り巡らされた蜘蛛の糸』」
薄い光が、彼の肩の傷を覆う。これで傷は問題ないだろう。あとは体力の回復を待つだけだ。苦しげな寝顔が、わずかに和らいだのを見てほっと息をつく。
「……君たちふたりの身柄を引き渡すよう、公爵家から嘆願書が出ている。これがあれば、王族の権限で君たちを公爵邸へ返すことは可能だ」
「本当ですか?」
「ああ、今夜にでも神殿を出ていけるはずだ」
……よかった。これでお兄さまを屋敷へ戻せる。
お兄さまはそもそも、ネージュ教自体好きではないのだ。こんな場所では身も心も休まらないだろう。
「ありがとうございます、殿下。では……兄のことをよろしくお願いいたします。一刻でも早く、公爵邸へ帰してください」
「……君は?」
殿下の問いを受けながら、そっとお兄さまの手を握る。熱を帯びた大きな手が愛おしかった。
「私は……イザベラの講義のために残ります。これは、お互いに、愛するひとと正々堂々と結ばれるための戦いなのです」
お兄さまの顔を覗き込み、額に張り付いた黒い前髪をそっと避ける。あの鮮やかな新緑の瞳が見えないのはどうにも寂しいが、仕方がない。ここで言葉を交わしてしまえば、私はきっと帰りたくて仕方がなくなってしまう。
「……アシェルさま、先に屋敷へ戻って、私を待っていてください。必ず、何者でもないエマとなって、あなたのもとへ帰りますから」
……そうして、次に会ったときにはきっと、私だけの「アシェルさま」になって。
眠るお兄さまの前で誓って、閉ざされた唇にそっと自らの唇を重ねた。もう、初めてくちづけたときの傷跡はとうになくなっている。彼と離れ離れで暮らす今となっては、あの痛みも疼きも恋しくてならなかった。
それ以上の言葉は告げずに、寝台のそばから立ち上がった。「ルナの祈り」を二度も使ったせいですこしふらついている。
「兄のことを、頼みます。殿下」
「……まかせろ。安全に屋敷まで送り返す」
お兄さまの寝顔から、なかなか目を離せない。こうしていくらでも眺めていられるのに、離れなければいけないのが苦しくて仕方がなかった。
……必ず、還ります。あなたのもとへ。
心の中で再度誓いを固めて、後ろ髪をひかれる思いで部屋を出る。聖女選定のやりなおしの日まで、私の持てるすべてをイザベラに伝えなければ。
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