第4話 はじめての友人
「では、イザベラ、次は第二章を読んでみましょう。ここには聖歌のもととなったルナの娘と女神の対話について細かく書かれています」
イザベラと再会してから、二日。私は幽閉されている部屋から毎日抜け出し、こうしてイザベラの部屋に通い、聖典を読み解く講義をしていた。
イザベラと再会した日、彼女の計らいで純白の神官服を手に入れることができたため、移動はずいぶん楽になった。女性神官は皆、ベールで顔を覆っているので、特徴的な銀髪も自然と隠すことができる。
幸い、今のところ私があの部屋から抜け出していることにルカ神官は気づいていないようだった。聖女選定の儀のやりなおしについても、それとなく話を切り出している。
――エマさまのお望みであれば、なるべく実現できるよう計らいます。私としても、どちらが真の聖女であるかを陛下の前でお示しできるのは、喜ばしいことですので。
ルカ神官は、「聖女選定の儀をやりなおしてほしい」という私の要求を、最後の悪あがきとして捉えているようだった。彼がどれだけ私を単純で純真な「聖女さま」として見ているのか知らないが、彼が私に押し付けている幻想も時には役に立つらしい。
「ふうん……聖歌のもととなった話とかあるのね」
イザベラは聖典をぱらぱらとめくりながら、テーブルに頬杖をついた。彼女の聖典にまつわる教養はほとんど無に等しく、ルカ神官がどれだけ彼女の教育をおろそかにしてきたかがよくわかる。
「そうですよ。聖典の言葉や聖歌には、すべて意味が込められているのです」
にこりと微笑みかければ、イザベラはふい、と視線をそらしながら私の書き付けに手を伸ばした。
「まあ、そうみたいね。……エマの書き付けにずいぶん助けられているわ。とてもわかりやすくまとめられているから、私みたいな教養のない者でも楽しめるもの」
私が「ルナの祈り」を使うためにまとめた書き付けは、聖典の理解に役立っているようだった。思いがけない活用の仕方ができたのは、なんだか嬉しい。
「そう言っていただけて光栄です。解釈集として本にでもまとめてみたくなってしまいます」
冗談半分に呟けば、イザベラは平然と答えた。
「いいじゃない。色々落ち着いたらやってみたら?」
「えっ……」
「なに驚いてるの? あなたにはそれをできるだけの力も環境もあるでしょ」
なんてことないように言い放って、イザベラは聖典に向き合い始めた。その積極性は、私にはないものだ。
……お兄さま、私は眩しい友人を得ましたわ。
心の中で彼に語りかけ、聖典の講義を再開する。
お兄さまの居場所は、イザベラさまから殿下にも話を通してもらい、内密に探してもらっているところだ。お兄さまのことを考えるたび焦るような気持ちを抑えられないが、今の私にできることを着実にこなすしかない。聖女選定の儀のやりなおしがいつになるかわからない以上、イザベラの教育をできる限り進める必要があった。
「祈り祈りって言うけれど、結局私、みんなのことを大切に……って心から思えないのよね。もちろん、みんなが苦しんだり悲しんだりするよりは、平穏に暮らせたらいいと思うけれど……」
イザベラは溜息混じりに窓の外を見やった。確かに、突然博愛を身につけろと言われても難しいだろう。物心がつく前から教育されていたのならともかく、イザベラのようにしっかりと自我が育ち、己の愛する人を見つけてしまった後では余計に困難なはずだ。
「そうですね……例えば、大切なひと――殿下のためなら、心から祈ることができますか?」
「それはもちろん! 好きなひとのためになら、いくらでも祈れるわ」
殿下のことを話すときのイザベラは本当に可愛らしい。私にはない、ぱっと輝くような笑顔が好きだった。
「それでは、殿下の大切な方たち――国王陛下や王妃さま、ご友人のこともイザベラにとっては特別な方になりますね。その方たちのためにも祈ることはできそうですか?」
「そうね、殿下の大切なひとたちだもの」
イザベラは続きを促すように頷いた。
「そして殿下の大切なひとたちにもまた、別の大切なひとがいますね。このようにしてどんどんと範囲を広げていけば、皆、誰かの大切なひとで特別なのだということがわかるはずです。顔はわからなくても、イザベラが殿下を愛する気持ちをもとに考えれば、広く民の安寧を祈ることはそう難しいことではないはずですよ」
「……本当に? 生まれてから、ずっとひとりぼっちの子どもだっているわ。誰の特別でも大切でもないひとだっているはず」
イザベラは下町で育った過去を持つだけあって、私の知る安寧の外側にいる人たちのことをよくわかっている。私などには、想像し得ない世界なのだろう。
「そういうひとたちを聖女であるあなたが慈しめば、そのひとたちも特別で大切な存在になるでしょう。それは、聖女の大切な役目のひとつだと私は思っています」
「難しそう……私にできるかしら」
イザベラは腕を組んで物思いに耽るように窓の外を眺めていた。それだけ私が言ったことを真剣に受け止めてくれたのだろう。
「イザベラならきっとできます。私より素質があるのではないでしょうか」
静かに微笑みかければ、彼女はちらりと私を一瞥して、すぐにそっぽを向いた。わずかに耳の端が赤い。
「やっぱり、綺麗よね……これぞ聖女の笑みって感じ……殿下はこれ見て本当になにも思わないのかしら……?」
がたん、と音を立ててイザベラがテーブルに身を乗り出す。驚いて反射的に身をひくも、そのぶんだけ彼女も距離を詰めてくる。
「ねえ、エマは好きなひといないの?」
唐突な質問に面食らう。イザベラの勢いは止まらなかった。
「なんだか、安心できないのよね。あなたみたいなひとが、独り身でいるの」
どうやらイザベラは私を警戒しているらしい。心配しなくとも、殿下とイザベラの間に割って入るような真似はしないのだが、恋する乙女は疑り深くなるものだ。
……イザベラには、言ってもいいかしら。
迷うようにまつ毛を伏せる。その間も、イザベラの視線をひしひしと感じた。
「何よ、言いづらい相手?」
「そ、そういうわけでは……」
いざ口にしようとすると、どうにも恥ずかしい。瞬きで誤魔化そうとするも、イザベラは許してくれなかった。
「ずいぶん勿体ぶるわね。私の知っているひと?」
「おそらく、ご存知だとは思いますが……」
恐る恐るイザベラを見上げる。まったく私を逃す気のない赤い瞳を見て、観念した、
「その……私の好きなひとは、お兄さまです。訳あって、血はつながっておりませんの」
「へえ……? ああいうちょっと陰のある感じが好みなんだ?」
イザベラがにやにやと笑いながら、面白いものを見たと言わんばかりに私を眺めている。なんだか、視線だけで追い詰められていくような心地だ。
「ちょうどいいじゃない。あなたのお兄さんがあなたを見る目、妹を愛しているっていうのとはちょっと違うもの。……血がつながっていないと聞いて安心したわ」
イザベラは思ったよりもちゃんと私たちを見ていたらしい。余計に恥ずかしくなってきた。
「そういうイザベラこそ、殿下のどこがお好きなのです?」
「殿下ってものすごく優しいし、笑うととっても可愛いのよ」
夢見るようにイザベラは指を組んだ。よほど殿下のことが好きらしい。
「笑う、こともあるのですね、あの方……」
私の前ではぴくりとも表情を動かさなかったから、彼が感情表現をするということ自体、どこか信じがたいような話だ。
「それ、たぶん殿下も同じことをあなたに対して思っているわよ。私もつい最近まであなたって笑わないひとだと思っていたのだから」
殿下とはもう何年もの付き合いになるのに、互いに笑顔のひとつも見たことがないなんて妙な話だ。やはり、私が殿下の婚約者にならなくてよかったと思う。
そのまま講義の休憩がてら雑談に花を咲かせていると、ふと、廊下につながる扉が叩かれた。誰かが訪ねてきたようだ。
「エマ」
イザベラがすっと表情を切り替えて私に目配せをする。素早く聖典や書き付けをまとめて持ち、席を立った。
「はい、例の場所へお邪魔いたします」
「そうして」
聖典と書付を持ったまま、イザベラの寝室へ向かった。壁には大きな本棚が設置されており、それをわずかにずらすと隠し通路が現れる。暗く、夏でもひやりとした空気の通る不気味な通路だったが、身を隠すにはもってこいの場所だ。
イザベラに来客があったときには、一時的にこの通路に身を隠すことにしている。本来は聖女が非常時に逃げきれるように用意された通路らしい。
本棚をずらして通路に蓋をし、ほっと息をつく。この通路まで身を隠してしまえば、多少の物音を立てても問題ない。イザベラが通路を開けにきてくれるまで、ここで待っていよう。
石造りの壁に寄りかかりながら、軽く目を瞑って時間を潰した。
瞼の裏に浮かび上がるのは、いつだってお兄さまの姿だ。イザベラと恋の話をしたせいか、いつもよりも体が火照っているような気がする。
そのまま、イザベラの来客が帰るのを待っていると、まもなくして、本棚がずらされ冷たい通路に白い光が差し込んだ。
「エマ、待たせたわね」
光の中から黒い影が手を差し出す。するりと伸びてきたその手に自らの手を重ねれば、ぐい、と腕を引かれた。
「イザベラ、ありがとうございます」
本棚の影から彼女の寝室へ足を踏み入れた瞬間、イザベラ以外の人影を見かけて一瞬体が固まった。海のように深い青の瞳が、興味なさげに私を捉えている。
「王太子殿下……?」
「……本当にいたのか」
じつに三月ぶりの再会だが、すこしも心は動かなかった。ただ、王族を前にして義務的に礼をする。
だが、あいさつの言葉を告げるより先に、イザベラが私たちの間に割って入った。
「まあまあ、お堅いのはなしにしましょ? それよりエマ、朗報よ。殿下が、あなたのお兄さんの居場所を突き止めてくださったわ」
「本当ですか!?」
思わず、イザベラに縋るように距離を詰めた。
「お兄さまは……お兄さまは無事でしょうか?」
お礼の言葉より先に、彼の容体が気になってしまう。苦しんでいなければいいが。
「傷は治っていないみたいだけれど、ちゃんと生きているみたいよ。よければ、殿下が連れて行ってくれるって」
「えっ……?」
殿下が、そこまでしてくださるなんて思わなかった。イザベラと手を取り合うような体勢から、殿下に真っ直ぐに向き合う。
「王太子殿下、なんと御礼を申せば良いか……」
視線を伏せて言葉を選ぶように口を開けば、彼もまたぽつぽつと言葉を返した。
「事情はイザベラから聞いている。……君はイザベラによくしてくれていると聞いた。彼女を聖女にするために、尽力してくれているとも。全面的に協力するつもりだ」
これほど心強い味方はない。神官服のスカートをつまみ、深く礼をした。
「感謝してもしきれません。本当に……ありがとうございます」
自然と柔らかく微笑みながら礼を述べれば、彼は意外そうに青い瞳を見開いた。
「……君は笑えないのかと思っていた」
「フェリクスさま、言ったでしょ? エマが無表情だったのは、あのルカ神官の妙な教えのせいだったのですって。エマは結構表情豊かな子よ? 笑うし、すぐ照れるしね」
先ほど恋の話をしたときのことを思い出させるように、イザベラはにやりとしながら私を見ていた。なんだか、弱みを握られたような気分だ。
「何はともあれ、お兄さんのところへ行ってきたら? あ、ちゃんとベールは被りなさいよ」
イザベラに促されるがままに、薄手のベールを被る。銀髪がはみ出ているところがないか、念入りに確認してくれた。
こういう所は、お姉さんのようにも感じるから面白いひとだ。いろいろな姿を合わせもあっている彼女は、殿下が恋に落ちるのも納得の魅力的な女性だった。
「うん、いいわね。私は講義の復習でもしているわ、先生」
「すばらしい心がけです。では、行って参りますね」
「気をつけなさいよ」
こういうやりとりは、なんだか友人らしくて嬉しい。殿下の前だということも忘れて頬を緩めていると、訝しげなまなざしを感じた。
「人はこうも変わるものなんだな。……行くぞ」
殿下はよほど、私の変化に戸惑っているらしかった。無理もない。「氷の聖女」とまで呼ばれた私が、イザベラとこうして年相応の少女らしく話している様は、一年前の私が見ても驚くだろうから。
……殿下もきっと、イザベラにと出会ってお変わりになられたのよね。
前の殿下であれば、こんなふうに誰かのためにわざわざ足を運ぶことはしなかったはずだ。確実に、イザベラが殿下によい影響を及ぼしている。
……ふたりには、末長く幸せになってほしいわ。
そのためにはやはり、聖女選定の儀のやりなおしで、女神さまにイザベラを選んでいただくしかない。彼女を聖女にするために私にできることならばなんだって、やり遂げるつもりでいた。
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