第3話 ひとりぼっちの聖女

 物が壊れる音の中で、彼女は肩で息をしていた。屈辱に耐えるように、指先が細かく震えている。


「だから、だから嫌だったのよ! 私が聖女なんて! おかしいと思っていた! こんなことだと思っていたわ!」


 叫ぶように、彼女は床に崩れ落ちた。あたりには花瓶の破片も散らばっていて、危険だ。


「イザベラさま、私は、ただ――」


「――下手な慰めはいらないわ! 女神さまの思し召し通り、あなたが聖女になればいいじゃない! みんな……みんな、それを望んでいるのよ。あなたがいなくなった神殿は、光を失ったようだって……私が選ばれるのは、おかしなことだって……! みんな言っていたもの!」


 長い黒髪をぐしゃぐしゃとかきむしる彼女の姿は見ていられない。思わず落ち着かせるように彼女の肩を抱いたが、激しく振り払われてしまった。


「触らないで! いい気味だと思っているんでしょう? そうだ、生粋のお嬢さまに教えてあげる。こういうときには『ざまあみろ』っていうのよ。言ってみたら? 胸がすっとするわよ。すくなくとも私はそうだったわ。聖女に選ばれなかったあなたを、祭壇から見下ろしたときにつぶやいたら、とってもいい気分だった!」


 炎の色の瞳を見開いて、彼女は私を見ていた。あまりの怒りに血が昇っているのか、目尻が赤くなっている。


「……イザベラさまは、私のことがあまりお好きではないのですね」


「みんながみんな清らかなあなたみたいなひとのこと大好きだって思ったら大間違いよ! あなたなんて、この世の掃き溜めみたいな下町の路地裏に行ったら、あっという間に穢されちゃうんだから! 綺麗なものは無条件に汚したくなる、そういう人間だっているのよ!」


「でも、あなたは違う。あなたは理不尽なことはなさらないはずです」


 私の言葉に、イザベラさまは吐き捨てるように乾いた笑みを浮かべた。


「私の何を知っているわけ? ろくに話もしたことないし……あなたはいつもすました顔で、私のことずっと見下してたじゃない! 礼拝も挨拶も教養も血筋もなにもかもあなたに敵わないし……みんな、あなたが聖女になることを望んでいた。私は、初めからいらなかったのよ! 聖女候補になんか選ばれなければ、こんな、惨めな思いはせずに済んだのに……」


 イザベラさまは震えながら、怒りの矛先が見つからないとでも言いたげに、拳で床を殴りつけていた。白い手が、みるみるうちに赤く染まっていく。その手を、そっと包み込むように握った。


「今更、弁明のしようがありませんが……あなたを見下したことは、ただのいちどもありません。けれど、あなたがそう感じてしまったとしたら、きっと、私が感情をあらわにしなかったせいでしょうね。何より、私はあなたを見た瞬間に、あなたが聖女になるのだと確信して……どこか、諦めていたのだと思います。その虚しさを、知らずにうちにあなたにぶつけていたのかもしれない」


 せめて、初対面のあのときに、ルカ神官の教えなど無視して微笑みかけていれば。あのとき助けて言ってくれると言ったイザベラさまの手をとっていれば、私たちは何か違っただろうか。


 包み込んだイザベラさまの手をそっと観察する。相当な力で床を殴りつけていたようで、手の甲の薄皮が剥けていた。痛々しい傷にそっと手を翳し、まつ毛を伏せる。


「女神ネージュさま……あなたの力をお貸しください。『女神の慈愛は張り巡らされた蜘蛛の糸』」


 ふわり、と青白い光が溢れ出す。先ほどのイザベラさまが放った光に比べれば、とるに足らないような明るさだ。これだけでも私はかなり疲労を感じてしまうのだから、やはり、彼女との力の差を思い知らされる。


 ……そういう点でも、やはりイザベラさまのほうが聖女にふさわしいわ。


 災害や疫病が発生したときに、十人しか助けられない聖女と百人助けてもなお平気な聖女だったら、どちらが望まれるかは一目瞭然だ。言うまでもなく私は前者で、イザベラさまは後者だった。


 光が収まると、イザベラさまの手は滑らかに治っていた。涙目になっていた彼女は、握り込んだ手を開いて窓から差し込む陽光に翳した。


「……あなたは、『ルナの祈り』を使うときに不思議な言葉を使うのね」


「これは、聖典の一節です。私は力が弱いので、こうして祈りの文句を借りないと、まともな治癒もできないのです」


 思えば私たちは、互いの「ルナの祈り」を見たことすらなかった。今更になってこんなふうに互いの傷を治しあうなんて、なんだかおかしな話だ。


「綺麗な光だった。……雪の朝みたい」


「それを言うなら、イザベラさまの『ルナの祈り』は眩い虹のようでした。弱っているときにあなたの力を目にしたら、それだけで多くのひとが励まされるでしょう。聖女には、必要な資質です」


 イザベラさまはしばらく私の目を見つめた後、机の上に投げつけた手紙をもういちど手にとった。


「……信じてくれないかもしれないけれど、私、聖女選定の儀の不正には関わっていないわ。でも、男爵家と神官長の間でやりとりされた証拠があるなら……きっと、お父さまの仕業なのだと思う」


 イザベラさまはどこか寂しげに眉を下げ、私が綴った文字を指先でなぞった。


「……私、実の父親にも、不正をしなければ聖女になれない、って思われるくらい、期待されていなかったのね。私が聖女になって、あんなに喜んでくれていたのに……結局は、政治の道具としてしか見ていないってことね」


 そっか、とイザベラさまは泣き出しそうに笑った。


「下町育ちの私が聖女なんて、おかしいもんね。聖女ってやっぱり、あなたみたいな選ばれたひとがなるものよ。あなたなら、殿下に嫁いでも誰にも何も言われないし――」


 そこまで言いかけて、彼女はぐ、と息を詰まらせた。赤くなった目尻から、ぽたぽたと涙が溢れ出す。


「――私、聖女じゃなくなったら、殿下と……フェリクスさまとはなればなれになっちゃうの?」


 大粒の涙を流しながら、イザベラさまは震える手で自らの左手を見た。その人差し指には、イザベラさまの赤い瞳と殿下の海のような瞳を思わせる宝石が埋め込まれた、可憐な指輪が嵌められている。


 訊くまでもなく、殿下から贈られたものなのだとわかる。イザベラさまは震えながら、その指輪にくちづけた。


「私……私、身分違いだってわかってても、フェリクスさまが好きなの。だから、聖女に選ばれたときは本当に嬉しかった。人を助けられるからじゃない。あのひとの奥さんになれるってわかって、本当に嬉しくて……フェリクスさまも、すごく喜んでくれたの。ふたりで幸せになろうって……」


 泣きじゃくりながら、イザベラさまは殿下への想いを口にした。


「ごめんなさい……長年、あなたの婚約者も同然のひとだったってことはわかってる。わかってるけれど……たとえあなたから王子さまを奪った悪女と罵られても、それでもいいって思えるくらい、私、あのひとが好きなの……!」


 声を上げて、彼女は泣き続けた。思わずそっと、彼女の肩を抱く。


 イザベラさまと殿下が、心から惹かれあっていることくらい、私にもわかっていた。殿下に至ってはきっと、初対面のあの日、イザベラさまの純真な笑顔を見たあの瞬間に、彼女に心を奪われたのではないだろうか。


 それでも、おそらくふたりは聖女候補と王太子として守るべき一線は超えていなかったはずだ。心はどうしようもなく惹かれていても、人に恥ずべきことはなにひとつしていない。きちんと認められるまで、清らかな付き合いを続けたのは、それだけお互いに真剣だった証だろう。


「イザベラさま……私があなたにお話ししたかったことは、ここからなのです」


 泣きじゃくる彼女に、静かに語りかける。なかなか涙が止まらないようで、絶えず手の甲で両目を拭っていた。


「聖女に選ばれるのは、どういう人物かご存知ですか? 『その代でもっとも強く正しいルナの祈りを持つ少女であること』です」


「それが……どうしたと言うの」


 イザベラさまが、濡れた赤い瞳をこちらへ向ける。弱々しいその瞳は、初対面のときの気弱な彼女を彷彿とさせるものだった。


「あなたは、私よりもよほど優れた『ルナの祈り』をお持ちです。あなたが聖女に選ばれなかった原因は、力の強さにあるわけではない。祈り方の問題だったように思うのです」


「そんなの……わからないわ。一年前まで、私はろくに文字も読めなかった。今だって、怪しい部分があるの……。あんな難しい聖典なんて、読めるわけがないじゃない! それなのに、ルカ神官は人前でそれを読む巡礼の旅に私を出させようとするの。私を辱めたいのよ!」


 ふと、床に落ちた辞書と、先ほどまで彼女が書きつけていたらしい紙の束が目についた。難しい単語を調べて意味を書き留めたもののようだ。お世辞にも綺麗とはいえない不揃いな文字だった。時折、ぐるぐると無意味な線が描かれて、書きつけた文章を塗りつぶしているような箇所もある。


 それを見て、胸の奥を握りつぶされるような切なさを覚えた。


 ……まさか、イザベラさまは、ずっとおひとりで聖典を読み解こうとなさっていたの?


 彼女につられて、私まで目頭が熱くなる。ルカ神官は、一年前まで読み書きも厳しかった少女に、分厚い聖典を一方的に与えて放置していたのだ。それで私と同等の祈りを要求するなんて、とても教育係のすることではない。


 ……イザベラさまは、どれだけ心細かったかしら。つらかったかしら。


 思わず、彼女の細い肩に回した腕に力をこめる。空いている手で、再び彼女の目尻に溜まった涙を、そっと拭った。


「……イザベラさま、よければ私と一緒に聖典を学びませんか? そうして、正しい祈り方を覚えた後で……もういちど、聖女選定の儀を受けさせてもらうのです。今度は不正がないように、国王陛下の目の前で」


「もういちど、聖女選定の儀を……?」


 イザベラさまが、きょとんとした顔でこちらを見ていた。同い年のはずだが、こういう表情は妙に幼く見える。


「ルカ神官は私を聖女に仕立て上げたい。その証明のために、もういちど聖女選定の儀を行うよう説得することは難しくないはずです」


 彼女に語りかけながら、歴代の聖女選定の儀について記された記録を思い起こす。


「現に、六代前に聖女候補の髪が入った小箱が紛失した事件が起こり、それを隠して行われた聖女選定の儀はやりなおしされています。儀式のやりなおし自体は前例のないことではない。これはいい説得の材料になります」


 いちど目を通した程度だが、印象的だったのでよく覚えている。私の言葉次第では、ルカ神官を説得することは可能なはずだ。


「彼の説得は、必ず私がやり遂げます。あなたは、正しい祈りを覚えるのです。そうすれば、やりなおしの聖女選定の儀で聖女に選ばれるのは、あなたのはずです。イザベラさま」


 彼女の赤い瞳が、蝋燭の炎のように静かに揺れる。彼女の不安が直に伝わってくるかのようなまなざしだった。


 ……イザベラさまは、この一年間、どれだけ心細い思いで神殿に通っていたのかしら。


 彼女の孤独を思うと、やるせない気持ちになった。同じ立場で、同い年の少女として、私はもっと、彼女に歩み寄るべきだったのに。


「本当ならば、あなたが聖女だと悟った一年前に、私から申し出るべきでした。ルカ神官はあなたにも適切な教育を施しているものと……勝手に、いいように考えてしまいました」


 イザベラさまの話を聞いている限り、ルカ神官は明らかに私とイザベラさまの教育に差別をつけている。神官が選定を前にして己の望む少女を聖女に仕立て上げるべく、もう片方の聖女候補の教育から手を抜くのは、決して許される話ではない。


 ……戒律そのものみたいなひとだと思っていたけれど、あの方も人間なのね。


 ふと、泣きじゃくっていたイザベラさまが、私の外套をつかむ。そうして、視線を彷徨わせながらぽつぽつと呟いた。


「私に……できるかしら。私、あなたみたいに、頭よくないのよ。さっき言った通り、難しい言葉はうまく読めないの。聖典には、よくわからない言葉がたくさんあるから……」


「大丈夫。わからないところは、ひとつひとつ教えて差し上げます。それに、難しい言葉も結局は人々の祈りから生まれたものなので……噛み砕いていけば、すぐにわかるようになると思います」


 励ますように笑いかければ、イザベラさまははっとしたように目を見開いた。


「あなた……そんなふうに笑えるのね。まともな笑顔を初めて見たわ」


「そうでしょうね。人前では感情をあらわにしてはいけないと……ルカ神官に言い付けられておりましたから」


「……ひどい」


 イザベラさまが唇を尖らせてぽつりと呟く。普段は高慢に振る舞う割に、意外に素直なところもあるらしい。


「ふふ、私に同情してくださったのは、イザベラさまがふたり目です」


「私がふたり目? ひとり目は? まさか殿下?」


 じとっと、嫉妬をあらわにした目で見られ、思わずくすくすと笑ってしまった。


「殿下は私などには毛ほどの興味もございませんよ。初めて私に同情してくれたのは……私の、心にかけられた枷を解いてくれたのは――」


 お兄さま。


 彼を思い出すだけで、ふっと不安が押し寄せる。こうしている間にも、お兄さまはどこともわからぬ部屋で傷の痛みに苦しんでいるのかもしれない。そう思うと、焦燥感が燃え上がるように熱く身体の中で疼く。


「……イザベラさま、本当ならばもっと準備をしてお話に参るのが筋のところを、こうして急いで伺ったのには、理由があるのです」


「……何?」


「手紙には書いておりませんでしたが、私の兄が……ルカ神官の手の者に矢を射られ、肩に傷を負い、今もこの神殿のどこかへ捕らえられています。実家へ帰さないのは、私を神殿に繋ぎ止めるため……いわば、ルカ神官に兄を人質に取られているようなものなのです」


「人質に……? ひどい、あの男、聞けば聞くほどろくな話が出てこないわ」


 イザベラさまは怒りをあらわにして私を見ていた。その怒りが、今の私には頼もしい。


「……兄のことが、心配で……どうにか彼だけでも先に、神殿から解放したいのです。ですからイザベラさま、あなたのお力をお借りすることはできませんか? どうにか、兄の居場所だけでも知りたいのです」


 指を組んで、彼女に懇願した。言われれば、床に頭だって擦り付けるつもりだ。


 だが、イザベラさまは私の手に触れると、そっと組んだ指を解いた。


「やめてよ。あなたはこれから私の先生になるんでしょ。それに、そのくらいの頼み、懇願されなくたって聞くわよ。ここで無視したら私、人が悪いみたいじゃない」


 イザベラさまは、涙の名残を指先ですくい、どこか得意げに笑った。


「私を誰だと思っているの? 現状、神殿でいちばん権力のある聖女さまよ? それに、殿下の婚約者でもある。権力は、思う存分使わなくちゃ」


 イザベラさまは私の手を引いて立ち上がると、早速机に向かい、便箋に何やら書きつけ始めた。


「殿下に手紙を書くわ。三日以内には見つけてみせるんだから。見てなさい」


 イザベラさまはどこか挑戦的に笑った。その飾り気のない笑みに、じんと胸が熱くなる。


「ありがとうございます、イザベラさま……。この御恩は一生忘れません」


「生粋のお嬢さまってどうにも大袈裟ね。待ってて、今手紙書いちゃうから」


 イザベラさまは羽ペンを手に取ると、インク壺にじゃぶじゃぶと付けて便箋に向き合った。ぽたぽたとこぼれたインクが、便箋の上に数滴染みを作る。


「ええっと……『フェリクスさま、エマのお兄さんが神殿に囚われているみたいです。エマはお兄さんを助けたがっています。居場所を探る手伝いをしてください』。うん! これでいいわね」


「季節の挨拶や近況を伺う表現がありませんが……まさかこのまま送るのですか?」


「私たちの手紙はいつもこんなものよ。……でも、そういうちゃんとした手紙の書き方知らないから、今度教えて。あなたのお兄さんを助け出してからで、いいけど」


 イザベラさまはふい、と視線を背けながらぽつりと呟いた。


「ええ、私でよければいくらでも、イザベラさま」


 胸に手を当てて礼をすれば、イザベラさまはちらりと私を見て再び視線を背けた。


「その……イザベラさま、っていうの、やめてくれないかしら? 堅苦しくて」


「そうですか? 親しみを込めて呼んでいるつもりでしたが……」


 どのように呼べばいいだろう、と逡巡していると、イザベラさまが我慢ならないというように早口で告げた。


「わからないひとね! もっと簡単に呼べるでしょ! エマ」


 それだけ告げて、イザベラさまは封筒を探すべく戸棚を漁り始めてしまった。その後ろ姿を見て、はっと気づく。


 ……イザベラ、って呼んでいいの?


 誰かを、呼び捨てで呼ぶことなんて初めてだ。それも、自分と同い年の少女の名を。


「……イザベラ」


 ぽつりと呟けば、イザベラは一瞬こちらを振り返って、にいっと笑って見せた。

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