第2話 聖女選定の真相
人目を避け、物陰に紛れるようにして進むこと、半刻。細心の注意を払って移動したため、思ったよりも時間がかかってしまった。
雪の結晶を模った模様が施されている白い扉の先には、聖女――イザベラさまの私室がある。聖女は王太子と結婚式を挙げるまでの期間は、神殿のこの部屋に滞在し、儀式や礼拝を行うとルカ神官から教わったことがある。
……人の出入りは、あまりなさそうね。
しばらく様子を観察していたが、女性神官がひとり出てきたのを最後に、あの部屋に近づく人影はない。イザベラさまは神官嫌いで、基本的に人を寄せ付けないのだとここに来るまでの噂話で知った。
……行ってみるしかないわ。
呼吸を整えて、すばやく扉の前まで移動する。ゆっくりと扉を叩き、返事を待った。
「何?」
不機嫌そうな、張りのある声が聞こえてくる。神官のふりをすればきっと、追い返されてしまうだろう。
……彼女を、信じてみるしかないわ。
ひと呼吸置いて、思い切って口を開いた。
「イザベラさま……私です。元聖女候補の、エマ・エル・アスターです」
がた、と椅子が揺れるような音が響いた。すぐにこつこつと靴音が近づいてきたかと思うと、内側からほんのすこしだけ扉を開けられる。
扉の隙間から、ふわりと流れる艶のある黒髪が見えた。イザベラさま本人が扉を開けているのだ。
「……ちょっと待って、何その格好」
「少々事情がありまして……よろしければ、中へ入れていただけませんか」
ここで長話をするのは得策ではない。多少無礼に思われてでも、早めに室内に招き入れてもらう必要があった。
イザベラさまはさらに扉を開けると、視線だけで室内に入るよう私に促した。今日も、燃えるように鮮やかな赤い瞳が美しい。
「ありがとうございます」
私が入ったのを見届けて、彼女はすぐさま鍵をかけてくれた。破れたネグリジェのようなワンピースに外套姿の私を見て、尋常ではないと悟ったのだろう。
「何、どうしたの? 公爵家が没落でもしたわけ?」
突き放すようなばさばさとした言い方だったが、赤い瞳はちらちらと私の足元に向けられていた。中庭を抜けたせいで薄汚れている。
「公爵家は没落していないのですが、少々事情があってここに捕らえられておりまして……」
何から、話せばいいだろう。視線を伏せて逡巡していると、イザベラさまが怪訝そうに眉を顰めた。
「どういうこと? あなたはお兄さんと一緒に旅に出ているんじゃなかったの?」
イザベラさまは腕を組んで、気だるげに問い返した。初対面のときのあの張り詰めた空気に比べれば、ずいぶん砕けた印象になったものだ。
「旅に出ていたのは本当なのですが、旅先でルカ神官に捕まってしまい……それから、幽閉されているのです」
「はあ? 何それ。やっぱり最低ね、あいつ」
「やっぱり?」
「こっちの話よ。あいつに捕まった、って……まさか、変なことはされてないわよね」
「変なこと、ですか?」
彼女の意図を汲みきれず、きょとんとしてしまう。イザベラさまは溜息混じりに首を横に振った。
「わからないなら大丈夫ね」
そう呟くと、イザベラさまの白い手が私の腕を掴んだ。そのまま、豪奢な布張りのソファーまで案内される。
「まずは座りなさいよ。怪我してるじゃない」
「あ……本当ですね」
彼女に促されるがままにソファーに腰掛ければ、彼女は私の破れたワンピースの裾をめくって膝を観察していた。気づかなかったが、擦りむいたような傷がある。窓から脱出する際に、知らないうちに擦れていたのかもしれない。
「ふうん……まあ、軽い怪我だけど、一応ね」
イザベラさまの白い手が、傷口の上にかざされる。たちまち、手のひらから眩い白い光が溢れ出した。直視することが躊躇われるほどの、強い光だ。
……なんて強烈な「ルナの祈り」なの。
とてもじゃないが、擦り傷程度に発揮する力ではない。これほどの強さなら、瀕死の人間がひとり助かってもおかしくない。
光が収まるころには、膝の擦り傷は跡形もなく消えていた。イザベラさまはふう、と息をつくと、頬にかかった髪をかき上げながら立ち上がる。
「ありがとうございます、イザベラさま。……本当に、素晴らしいお力です」
「別に、私のはただ強いだけだもの」
どこか自嘲気味に笑ったかと思うと、ふと、彼女はテーブルの上に置いてあったものを慌てて片付け始めた。分厚い辞書と、何かを書きつけていた紙の束のようだ。手紙でも書いている途中だったのだろうか。
彼女はそれらを近くの戸棚の上に置くと、私の向かい側のソファーに座り、長い足を組んだ。白く透き通るような細い足がちらりと見える。聖女の証である白い装束を着ているが、彼女が着るとどことなく妖艶でどきりとした。
……本当に、初めて会ったときの印象とずいぶんおかわりになったわ。
私や殿下の前でびくびくとしながらも、純真な笑顔をのぞかせていた彼女とは、まるで別人のようだ。いつしか彼女は私や神官たちに丁寧な言葉を使うことをやめ、高慢に振る舞うようになり、品がない、と貴族たちに揶揄されるようになってしまった。
けれど、私は思うのだ。本当の彼女は、初めて会ったときのあの純真な彼女だと。嫌いであるはずの私の傷を、なんの抵抗もなく直してくれた様子を見て確信した。
……イザベラさまはやはり、聖女になるべき方よ。
この高慢さを正しく自信につなげることができれば、彼女はきっと――。
「何、そんなに見つめて。品がないって嘲笑ってるの? やめないわよ、公爵令嬢さまが相手でも」
イザベラさまは腕を組んで、長い足を見せつけるように組み替えた。赤い口紅を塗った唇が、にいっと歪む。
「いいえ、ただ、見惚れていただけですわ」
「生粋のご令嬢は嫌味もお上手ね」
「私は、あまり令嬢らしい会話は不得手でして」
「……まあ、そうよね。あなたって、人じゃないみたいだもの。人じゃないみたいに、綺麗で――」
ふい、と視線を逸らされてしまう。イザベラさまの炎色の瞳は、よく見れば細やかに揺らいでいるようだった。
「――それで? 話は何? あなたがルカ神官に捕らえられていることと何か関係があるの?」
どこか苛立ったように、イザベラさまは告げる。
イザベラさまにはすべて打ち明けようと決めていた。けれど、面と向かってすべてを綺麗に説明できる自信がなく、昨晩あらかじめ手紙をしたためておいたのだ。
それを、そっとイザベラさまに差し出した。彼女は怪訝そうに眉を顰め、それを一瞥する。
「何、これ」
「私が、ルカ神官に捕らえられている理由がここに記されております。そしてこれは――イザベラさまにも、関わりのあるお話です」
「私にも……?」
イザベラさまの長い指が、そっと手紙を開く。長い時をかけて彼女は、聖女選定の儀の真実を目にしていた。
どれくらい、無言で向き合っていただろう。手紙を読み終わったらしいイザベラさまが、ふいに立ち上がる。
はっとしたのも束の間、彼女は思い切り手紙をテーブルに叩きつけた。テーブルの上に載っていた花瓶が、ぱりん、と音を立てて割れ、花瓶に入っていた透明な水がテーブルの上を広がっていく。
「イザベラさま!」
「余計なことをしてくれるわ!」
ソファーから立ち上がり、彼女は戸棚の上に置いてあったものもすべて床に落としてしまった。
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