第五章 ネージュ教本神殿
第1話 頼るべきひと
「エマさま、こちらが新たに聖女候補となられたイザベラ・エル・ウィロウ男爵令嬢です」
ルカ神官の案内で、私は王太子殿下とともに黒髪の少女と面会していた。
うねる黒髪を腰もとまで伸ばし、燃えるような赤い瞳を彷徨わせている彼女は、気弱そうでこの場の空気に圧倒されていることは確かだった。聞けば、彼女はウィロウ男爵が愛人に産ませた子どもで、つい最近まで下町で暮らしていたらしい。
作法も、教養もまだ十分とは言いがたい段階で聖女候補に選ばれ、こうして王太子殿下に謁見することになるなんて、さぞ心細いだろう。気の毒になるほど、イザベラさまは緊張しているようだった。
「ウィロウ男爵令嬢、私はこの国の王太子のフェリクスだ。こちらは君と同じく聖女候補であるエマ・エル・アスター公爵令嬢。どちらが聖女になるのかは女神の思し召し次第だが、これからよろしく頼む」
私の隣に座った王太子殿下が、淡々と告げる。いつも通りの、何事にも興味がないような声音だ。私も大概だが、彼が感情を露わにしている場面を見たことがない。私と殿下が揃うと、場の空気が凍りつくようだと皆が噂するのを知っている。
「フェリクス王太子殿下、アスター公爵令嬢、お目にかかれて光栄です。私が鐘を鳴らしたのなんて、たぶん、偶然みたいなもので……聖女さまにはきっとアスター公爵令嬢がなるってわかっています。だから、短いお付き合いかもしれませんが……よろしくお願いします」
たどたどしくそう告げると、イザベラさまは顔を上げて照れたように笑った。その赤く透き通った瞳と目があった瞬間、理屈とは無縁のところですとん、と何かが腑に落ちる。
……おそらく、この方が聖女なのだわ。
この方の「ルナの祈り」は私の比ではない強さだ。同じ力を持つ者として、いやでもそれがわかってしまった。
当然私がなるものと思っていた聖女の座は、最初からこの方のものだった。数年間の血の滲む努力は、なんだったのだろう。
なんだか、馬鹿らしくて妙な笑いがこぼれそうになる。ルカ神官の目もあるので表情には出さないが、心の奥がきりきりと張り詰めるように痛かった。
「君、は……」
殿下はがたん、と椅子から立ち上がると、吸い寄せられるようにイザベラさまを見つめていた。
深い海のような青の瞳が揺らいでいる。そんなふうに動揺を表す姿を、初めて見た。それくらい、イザベラさまの存在は殿下に鮮烈な印象を刻み込んだようだ。
すっと、ふたりと私の間に、見えない線が引かれるのがわかった。私は、弾き出されたのだ。
「ウィロウ男爵令嬢、これからよろしくお願いいたします。せっかくの初対面の場ですが――申し訳ありません、少々、気分が優れず」
「ああ、君は下がっていい」
冷たく突き放すような殿下の言葉に、ドレスをつまんで礼をする。イザベラさまだけが、心配そうに私を見ていた。
「あの、アスター公爵令嬢、よろしければご休憩さなるお部屋まで私が付き添いますが……」
この場に男性ばかりいるから、気遣ってくれたのだろう。力が強いだけでなく、心優しい少女でもあるらしい。なにひとつ、敵うところがない。
「ありがとうございます。ですが、外に迎えの者がおりますので平気です」
笑いもしない私の言葉は、どれだけ冷たく聞こえるだろう。本当なら微笑みのひとつでも送りたいところなのに、ルカ神官の目があるからそうもいかない。
案の定、イザベラさまは傷ついたような表情をなさっていた。胸の奥が、きゅ、と痛む。
「気にする必要はない。あの者は、いつもああなのだ」
殿下がイザベラさまを気遣うそぶりを見せると、彼女はぎこちなく頷いた。所作も表情も未熟な部分は否めないが、むしろそれが彼女の純真さを引き立てるようで目を引く。
……殿下とイザベラさまは、気が合いそうね。
見つめ合うふたりの横顔を目に焼き付け、もういちど礼をする。謁見室を出れば、廊下でお兄さまが腕を組んで待っていた。その横顔は、遠い日のお兄さまを思い出すほど冷徹だ。
「エマ」
私の姿を認めるなり、ぱっと優しい笑みが浮かぶ。先ほどまでは近寄りがたいほどの無表情だったのに、私を見るなりがらりと雰囲気を変えるこの瞬間が好きだ。
「早かったね。新しい聖女候補はどう? 遠目で姿を見る限りでは、君の敵にはならなそうだけど……」
「いいえ……おそらく、あの方は――」
そこまで言いかけて、やめた。何年間も私を応援してくれたお兄さまを前に、早々に弱音を吐くのはよくないだろう。
「――すこし、疲れてしまいました。今日はもう屋敷に戻りたいです」
「それは大変だ。すぐに帰ろう」
お兄さまに肩を抱かれ、ふ、と気が抜けるようだった。知らずのうちに、緊張していたらしい。
「お兄さま……たとえば、私が聖女に選ばれなくても――」
縋り付くように、そっと彼の肩に頭を預ける。
「――変わらず、私を愛してくださいますか」
真っ白な床で、ふたりの影が溶けあっていた。境目のない大きな影を眺めていると、彼とふたりでひとつの生き物になったようで安心する。
「馬鹿なことを聞く。僕は君が君であるというだけで、愛おしくて仕方がないのに。君が魔女になったとしても、嫌いにはならないよ」
優しい言葉とともに頭の上におとされる口づけがあまりに柔らかくて、なんだか泣きそうになってしまった。言葉の代わりに何度か頷いて、いっそうお兄さまに体を預ける。
「お兄さま……もうすこしだけ、こうしていて」
「お望みのままに、かわいいエマ」
大きな手に、そっと髪を撫でられる。その感触に、静かにまつ毛を伏せた。
この日、確かに私は人生でいちばんの敗北を味わったのだ。
◇
「エマさま、お目覚めでございますか」
天蓋から下ろされた薄布越しに、女性神官が話しかけてくる。見慣れない光景に、一瞬どきりとしたが、すぐに自分の置かれた環境を思い出した。
……そうだ、ここは。
「お食事のご用意ができております。きちんと、お召し上がり下さい」
薄布越しに見えていた影が身を縮める。きっと、礼をしたのだろう。女性の言葉通り、美味しそうなスープの香りが漂ってきた。
ここは、王都にある本神殿の一室。女神ネージュの泉でルカ神官に捕らえられてから半月をかけて王都まで移動し、昨日からこの部屋に幽閉されていた。リリアをはじめとした従者たちには、
「アスター公爵家の兄妹は神殿に重要な用事ができた」と伝えられ、王都の屋敷に戻されているらしい。
「お兄さまは……お兄さまの容態はどうですか」
薄布越しに、女性神官に問いかける。この半月、気にかかることはそれだけだった。
王都へ戻るまでの間は、ルカ神官の目を盗んで様子を見ることもできた。お兄さまは肩に傷を負ったせいで高熱を出し、ルカ神官の許可でいちどだけ「ルナの祈り」を使わせてもらったが、傷を塞ぐことは許されなかった。お兄さまはまだ、私を庇った傷の痛みに苦しんでいるはずだ。
「生きておられますよ。エマさまが反抗しなければ、再び『ルナの祈り』を使ってもよいとルカ大神官が申しておりました」
「……私が『本物の聖女だ』と名乗り出れば、力を使わせてくれるということね」
女性はそれ以上答えず、退室してしまった。かちゃり、と外から鍵のかかる音が虚しく響く。
ルカ神官が私に望んでいることはよくわかっていた。言葉通り、私が聖女として公の場に立つことだ。
昨日、夜遅くに到着したにもかかわらず、ルカ神官はお兄さまを置いて、私をある部屋につれていった。春に聖女選定の儀が行われた、神殿で最も神聖とされる儀式の間だ。大神官以上の権限を持つ者と聖女候補のみが入室を許される場であるだけに、今の私が立ち入って良い場所ではないように思ったが、ルカ神官はまるで気にするそぶりがなかった。
そこで、ルカ神官は私とイザベラさまの髪が入った小箱を見せた。黒髪がはいった小箱に、聖女の証である氷の花が生えている。イザベラさまが聖女である証だ。
今更それを確認させて何を言いたいのか、とルカ神官を見つめれば、彼はいっそう小箱を私に近づけた。
――よくご覧ください。この黒髪は、イザベラのものではありません。
ルカ神官に言われるがままによく観察してみれば、黒髪のなかに一筋だけ銀色が光っていた。まるで、私の髪色のような色だ。
反対に、銀髪の中には一筋黒い部分がある。彼の言わんとしていることを察し、ぞわりと肌が粟立った。
――イザベラと彼女の生家が、神官長を買収して、あなたの髪を黒に、イザベラの髪を銀に染めて小箱に収めたようです。ですから、氷の花が芽生えたこちらの黒髪は、本当はあなたの髪なのですよ、エマさま。
ルカ神官は、あるとき聖女選定の儀に疑念を抱いて、権限を使って私たちの髪を調べたらしい。そうして黒髪と銀髪の一部を念入りに洗ったところ、塗料が取れ、それぞれの本当の髪色が姿を現したのだという。
一歩間違えれば、破門されてもおかしくない行いだ。その危険を冒してまで、彼は確かめずにはいられなかったらしい。
――男爵家と神官長の間でやりとりされた金銭の記録と契約書の存在を確認しています。私の手の者をそれぞれの家に潜り込ませておりますので、まもなく手に入る予定です。それを証拠として国王陛下に提出し、あなたを本物の聖女として認めてもらえるよう、嘆願するつもりです。
体じゅうに、再び重たい枷が付けられるのを感じた。
わかっている。ルカ神官は間違っていることを正そうとしただけだ。彼は何も悪くない。
それでも、どうしてそっとしておいてくれなかったのかと、理不尽な苛立ちを覚えてしまった。
――従わなければ、あの魔の者の命はありませんよ。彼にはこの先、あなたを神殿に繋ぎ止める枷になっていただく。
とても、聖職者のすることとは思えない。かつてはルカ神官に無条件に従っていたものだが、こんな残酷な手口を見せられては、彼に対する尊敬も信頼ももうないも同然だ。何を言われても、憎悪の感情ばかりがわき起こる。
けれど、お兄さまの命を握られている以上、ルカ神官に従わざるを得ないのも確かだった。
身動きが、取れない。ルカ神官が国王陛下に証拠を提出してしまっては、本当に手遅れになるのに。
焦燥感に身を焼かれる。とても食事をする気分ではなかったが、倒れるのは御免なのでむりやりかきこんだ。
……こんなところで、じっとしている場合ではないわ。
朝食をすばやく摂り、自分のするべきことを考える。空いた食器をとりにきた女性神官とも特に言葉を交わさずに、じっと窓の鉄格子を睨んだ。
……あのひとに、会いに行かなくちゃ。
かたん、と食事をとった席から立ち上がり、クローゼットへ近寄った。今、私が纏っているのはネグリジェのような柔らかな素材の白いワンピースだ。裾は床に着くほど長く、ひどく歩きづらい。身動きを取らせないという意味でも、ルカ神官はこの服を選んだのだろう。
……けれど、ルカ神官は、私を神聖視しすぎよね。
か弱い公爵令嬢は、幽閉されれば泣いて暮らすことしかできないと思っているのだろう。立場を奪われた憐れで儚い聖女、というルカ神官の幻想を押し付けられているようで、いっそ吐き気にも似たものを覚える。
クローゼットの中から、旅の途中に纏っていた生成色の外套を取り出し、姿見の前まで移動する。
……大体このくらいかしら。
目星をつけ、膝の辺りで思い切りワンピースを裂いた。見栄えはよくない上に素足を晒してしまっているが、外套を羽織れば問題ないだろう。破れたワンピースの上から外套を纏い、食事をとっていたテーブルの上に乗った。鉄格子が嵌め込まれた窓が、ちょうど顔の高さにくる。
……できるか、わからないけれど。
若干の不安を覚えながら、鉄格子に手をかざす。そうして、女神さまへの祈りを身体中に巡らせるように集中し、祈りの文言を唱えた。
「女神ネージュさま――『白雪のような清らかなあなたの光で、我らの翳りを打ち払いたまえ』」
聖歌の一節であるその文言を唱えたとたん、鉄格子にぱきぱきとひびが入る。やがて綺麗に根元から折れた鉄の棒を机の上に置いて、窓を開けた。
「ふふ……案外、できるものね」
前々から考えていたことだ。「ルナの祈り」は癒しや浄化に使われているが、祈りの文言をうまく使いこなせば、悪いものを壊すこともできるのではないか、と。
今は鉄格子を祈りの文言の中の「翳り」に置き換えて想像を巡らせたが、案の定うまくいった。帰ってくるときには、いつも通り人やものを癒す要領で鉄格子を直せばいい。
折れた鉄格子で体を傷つけないよう注意を払いながら、窓から身を乗り出す。外套が引っかかりそうになったが、なんとか窓から体をすり抜けさせることができた。
抜けだした先は、どうやら神殿の中央に広がる中庭のようだった。ここからなら、中庭に面した連絡通路からどこへなりとも行ける。
……本当は、お兄さまのところへ行きたいけれど。
残念ながら、居場所に見当もつかなかった。ルカ神官の権限が届く場所、と言う意味では神殿の中の一室だとは思うが、この格好であてもなく探し回るわけにもいかない。いちどでも見つかれば、きっと今のように抜け出すことは叶わなくなる。
……だから、私のいくべきところは。
中庭から、神殿の最上階を見上げる。頼るべきひとは、部屋を抜け出す前からとっくに決めていた。
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