第2話 旅のおわり

 お兄さまもまた、ほとんど反射的に、庇うように私の肩を抱いた。


 夜の闇から、声の主はすっと姿を現した。背後に、何人もの人影を引き連れて。


「あ……なたは……」


 ……どうして、こんなところに?


 夏だというのに、空気が凍りつくような気がする。先ほどまでの甘やかな空気は、彼の登場で跡形もなく打ち消されてしまった。


「――お久しぶりです、エマ・エル・アスター公爵令嬢。あなたの教育係、大神官ルカが、お迎えに馳せ参じました」


 夏の夜風に、一本に編み込まれた彼の純白の髪が揺れる。彫像のような冷たい顔だちをしたそのひとは、貼り付けたような笑みを浮かべて、私だけをその金の瞳に捉えていた。


「ルカ神官……本当にお久しぶりです。でも、どうしてここへ……? イザベラさまのお世話はよろしいのですか……?」


「僕が仕えるのは、聖女さまただおひとりですから」


 噛み合わない会話が、不気味でならない。もともと怖いくらいの信仰心を持ち合わせているひとなのに、そこに翳るような盲信が覆いかぶさっているような気がして、夏だというのに寒気がした。


 お兄さまも、似たような印象を抱いたのだろう。私の肩を抱く腕に、力がこもる。


「ご立派な信念をお持ちだ。どうぞ、聖女さまのおわす王都へお帰りになるがいい」


 お兄さまとルカ神官は、犬猿の仲と言ってもいい。お兄さまはもともとネージュ教によい印象を抱いていないし、ルカ神官はお兄さまのことを私にとり憑く「魔の者」とまで罵るほどに嫌っている。挨拶もそこそこに嫌味を交えた言葉が飛び交うのは日常茶飯事だった。


「聖女さまは、ここにいます。今、私の目の前に」


 ルカ神官の金の瞳は、お兄さまを一瞥することもなく私を見つめ続けていた。その尋常ではない様子に、思わずお兄さまの服にしがみつくように縋り付いてしまう。お兄さまも、いっそう私を引き寄せてそれに応えてくれた。


「ルカ神官……私に期待してくれたのは嬉しいですが、今の発言は神殿への背信行為と捉えられてもおかしくありません」


 それがわからないひとではないはずだ。彼は戒律そのもののような、厳格なひとなのだから。


「……詳しいお話は王都の本神殿でいたします。ここでお話ししても、信じていただけないでしょうから。ですからまずは、私のもとへお帰りください。エマさま」


 いつものことだが、ルカ神官の言葉はひどく強引だ。私を、ひとりの人間として尊重していない。ただ、「ルナの祈り」が使える存在としてしか、見ていないのだ。


 ……私はもう、そんな扱いを受ける場所には帰れない。


「どんな事情があれ……私、もう神殿には戻らないわ。聖女としては生きられない。他の……女神さまに代わる光を見つけてしまったから」


 言うまでもなく、お兄さまのことだ。王太子以外の男性に想いを寄せる娘など、すでに神殿に足を踏み入れるにふさわしくないと、ルカ神官ならわかるだろう。


 だが、彼は動じなかった。すっと瞼を閉じてしばらく何かを考え込んだかと思うと、唇を歪めて淡々と告げる。


「それなら、仕方がありません。魔の者が相手とはいえあまり乱暴な真似はしたくなかったのですが……もういちど、あなたの光を女神さまだけにしなければならないようですね」 

 

 金属が擦れるような音がして、彼の背後に控えていた人影が長剣をかざした。どうやら、武装した神官のようだ。


「……え?」


 血生臭いことと無縁なルカ神官が、どうして剣を?


 一瞬、頭のなかが真っ白になった。神官服と剣は、相容れないもののはずなのに。


「エマ、行こう」


 私とは反対に、お兄さまの判断は早かった。呆然とする私の手を引き、全速力で駆け出したのだ。それを見て、ルカ神官の従者たちも私たちの影を追うように走り出す。


 ……え? え? どうして、私たち追われているの。


「エマ、つらいだろうけど全力で走って! どうにか、セオたちのところまで帰るんだ」


 必死に足を動かしながら、お兄さまについていく。お兄さまは痛いくらいに私の腕を強く握っていて、それだけ危険事態なのだとようやく悟った。


 考えるのは、あとだ。お兄さまの言う通り、まずはルカ神官から逃げなければ。セオさまとオーレリアさまに合流できれば、保護してもらえるかもしれない。


 けれど、広大な湖のような泉の半周は思っていたよりも長かった。私のせいで、だんだんと走る速度が落ちている気がする。体を思い切り動かしたことなんてほとんどないから、すぐに体力に限界がきてしまったようだ。


 有無を言わせずに、お兄さまに抱き上げられる。視界がぐらぐらと揺れた。


「お兄、さま……」


 怖い。どうしてこんなことになってしまったのだろう。思わず涙目になりながら彼の胸にすがりつく。


 ルカ神官たちとはまだ距離があるが、反対方向から別の追手が来ないとも限らない。かと言って道を外れて不慣れな夜の森の中へ姿を隠すのも危険だとわかっていた。


 その瞬間、ひゅ、と何かが風を切った。ぱっと、赤い血が散る。


「え……?」


 森の中から、銀色に光る弓矢が飛んできたのを見た。そしてそれは、どうしてかお兄さまの肩を貫いて、服を赤く染めている。


「お兄さま……? いや! お兄さま!」


「っ……く」


 苦痛に耐えるように歯を食いしばりながら、お兄さまは地面に膝をついた。慌てて彼を抱きしめるように庇うも、私たちに追いついた追手が、お兄さまの背後に銀の剣を振り下ろすほうが早かった。


「いや!」


 ざく、と剣の切っ先がお兄さまの肩を裂いていく。先ほどまで私が庇うように抱きしめていた場所だ。お兄さまが咄嗟に私の服を掴み、守ってくれたようだった。


 だが、それでは意味がない。私は、お兄さまを守りたかったのに。


「お兄さま……! お兄さま、だめ!」


 ぐらり、と彼の体が泉に向かって倒れ込んでいく。慌てて彼のシャツを掴んで引き止めようとするも、私の力では到底叶わなかった。


「あ……っ」


 ばしゃん、とふたりして泉に落ちてしまう。それほど深くはなく、むしろ泉の底に体を打ちつけてしまい、鈍い痛みを覚えた。


「お兄さま……!」


 すぐに、「ルナの祈り」を使わなければ。彼の傷を水に触れさせないよう、なんとか彼の上半身を引き上げたその瞬間――。


 ぶわり、と私たちの周りを光が取り囲んだ。


 青白く光るようでいて、七色に色彩を変化させる不思議な光だ。目を奪われたのも束の間、眩い光が、ぱっと泉全体に向かって駆け出していく。瞬く間に、広大な泉は極彩色で覆われた。


「え……?」


 これは、この光はなんだろう。この世のものとは思えぬ幻想的な光景に、恐れすら抱いた。ここが女神さまの御許なのだと言われれば、なんの疑いもなく信じられるような、美しい景色だった。


 お兄さまは、私の腕の中で寂しげに、そしてどこか諦めたように微笑む。


「そっか……やっぱり君が、聖女なんだな……」


 それを機に、ふっとお兄さまの体から力が抜ける。神官たちが私の腕を掴むのは、それとほとんど同時だった。


「いやっ! 離して! お兄さまの傷を、治さなくちゃ――」


「――エマさま、やはりあなたはすばらしい。目立つと思ってこの光景を見ることは諦めていましたが……いいものを見せてもらいました」


 ルカ神官は、珍しく上機嫌なようだった。目の前に迫る人間味のない端正な微笑みが恐ろしい。


「ルカ神官、このひとたちの手を離してください! このままではお兄さまに『ルナの祈り』を使えません!」


 人々を慈しむことが何より大切だと口癖のように言っていたひとだ。こうして頼めば、わかってくれるはず。


 けれど彼は冷たく微笑むばかりで、むしろお兄さまの体を無理やり私から引き剥がした。


 虹色に光る泉の表層で、じわりと赤が溶けていく。お兄さまから流れ出す血の色だった。


「ああ……神聖な泉が、魔の者の血で汚れてしまいましたね。――お前たち、後程きちんと清めておくように」


「はっ」


 そうこうしている間に、神官たちの手でずるずると泉から引き上げられた。お兄さまと、離れてしまう。


「いや! どうして! どうして、ルカ神官! お兄さまを治させてください!」


「ご安心を。本来なら魔の者などここに捨ておきたいくらいですが……あなたとの交渉材料として、ちゃんと持ち帰りますよ。死なせない程度の手当もして差し上げます」


 背後から、口もとを布で覆われてしまう。声を上げようにも、くぐもった音が布に吸い込まれていくばかりで、まともな抗議などできるはずもなかった。


 ……いや……お兄さま、お兄さま――。


 アシェルさま。


 涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。


 お兄さまとの――最愛のひととの幸福な旅は、ルカ神官たちの襲撃によって、突如として幕を閉じた。

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