第四章 女神ネージュの泉

第1話 エマの「特別」

 パーセル邸での晩餐会の翌日。日がゆっくりと暮れ始めたころ、私とお兄さまはオーレリアさまとセオさまとともに、海とは正反対の森の中を突き進んでいた。


 それほど大きな森ではなく、徒歩でも十分森を抜けることができる。この森の先に、女神ネージュの泉があるのだという。見頃は夜だと言うパーセル兄妹の誘いに乗ってこうして外出しているわけなのだが、私とお兄さまの間には、どうにも気まずい空気が流れていた。


 昨夜、お兄さまにくちづけられてからというもの、何だかまともに彼の顔を見られない。挨拶をすれば何ごともなかったかのように返事が返ってきたし、パーセル兄妹からの誘いだってなんてことないように伝えてくれたが、新緑の瞳の翳りは昨晩からほとんど変わっていないように見える。それが、すこし恐ろしくもあり、同時に心配でもあった。


 そっと、お兄さまにくちづけられた唇に触れてみる。噛まれたところは昼過ぎくらいまでずきずきと痛んでいたが、今は平気だ。口紅を塗っているから、傷も目立たないだろう。オーレリアさまにもセオさまにも指摘されることはなかった。


「この道を抜けるとね、まもなく泉があるのよ。夕暮れが終わる瞬間の、星が映る水面がとってもきれいなの」


「オーレリアの気に入りなんだ。付き合ってやってくれ」


 ふたりは、私とお兄さまの微妙な空気感に気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしてくれているのか。


 セオさまもまた、求婚を断った私に対して、昨日までと変わらない接し方をしてくれた。むしろ、私を口説こうとしていないぶん、より自然で、まるで友人同士のような気安い空気感を醸し出している。


「女神ネージュの泉といえば、聖女さまが訪れると星の光が走る、と聞いたことがあります」


 女神の名のついた泉なだけあって、神聖な場所であることは間違いなかった。建国神話では、この場所で初代聖女ルナは初代国王となる青年と出会いを果たすのだ。初代聖女ルナが泉に足を踏み入れると、水面に銀の瞬きが浮かび上がり、その幻想的な光景に吸い寄せられるようにして、初代国王がやってくる。有名な一場面だ。


「さすがはエマちゃん、聖女候補だっただけあるわね。神聖な場所であるだけに、このところは恋人たちの逢瀬の場として使われていることが多いそうよ」


「恋人たちの……」


「そうそう、初代聖女さまと初代国王陛下の出逢いにあやかって、ここで愛の告白をすると永遠に幸せになれる、なんて話もあるの」


 だからセオさまは、私がお兄さまに思いを打ち明ける場所として、ここをすすめてくれたのだろうか。改めて彼の人の良さを実感する。


 ……でも、今の私には何だか、心臓に悪いわ。

 

 そんなに素敵な場所なら、お兄さまに想いを打ち明けたい気持ちはあるが、どうしても昨夜のことが尾を引いていた。


 ……はっきりした言葉はなかったけれど、お兄さまは私がお兄さまの婚約者になることを、あまりよく思っていらっしゃらないのよね。


 ――だから……早く、僕から逃げて、エマ。君とセオを無理矢理引き離そうとする前に。君に……取り返しのつかないことをする前に。


 そう告げたときのお兄さまの寂しげな表情は忘れられない。言葉とは裏腹に、私と離れることを拒絶するような、矛盾した表情のようにも見えた。


 ……すこし、昔のお兄さまに似ているかも。


 何もかもを拒絶して、私のことをおそらく嫌っていた、あのころのお兄さまに。


 ……お兄さまが私に向ける感情は、親愛や恋なんて言葉では表せないのかもしれないわ。


 女性として意識されたい、と頑張ってきたが、それはひょっとすると見当違いな目標だったのかもしれない。私が向きあうべきは、何層にも重なったような彼の複雑な愛情そのものな気がしてならなかった。


 日が、どんどんと傾いていく。夜の帷が今にも降りようとしていた。


「森を抜けたわ! 見て、エマちゃん、アシェル!」


 駆け出したオーレリアさまの後を追うようにして、私たちも森から抜けた。


 ぱっと視界がひらける。目の前には大きな泉が広がっていた。泉というよりは、湖というべき規模かもしれない。


「ほら見て、お星さまが映ってる!」


 オーレリアさまは湖のすぐそばまで駆け寄って、水面に映る星を指差した。ひとつだけではない。点々と銀の瞬きが浮かんでいる。日が沈み、空がだんだんと暗くなるにつれて、その輝きは増していた。


 なんて、幻想的な場所なのだろう。私たち以外に人の気配はなく、まるで建国神話の一場面に迷い込んでしまったかのようだった。白い装束を着た聖女が泉の真ん中に立っていても、なにも不自然ではない。


「本当に、すてきな場所……」


 初めて来るはずなのに、不思議な懐かしさのある場所だった。胸いっぱいに空気を吸い込んで、深く息を吐く。


「本当ならここに聖女を招く儀式があるんだが……まあ、あの聖女がこんなとこまで来るはずないよな。……泉に星の光が走る光景、あれでもオーレリアは結構楽しみにしてたんだけどな」


 セオさまは苦笑を浮かべながら、オーレリアさまの後ろ姿を見ていた。


「……そうですわね。私ではどうにもできないのが、心苦しいです」


 女神ネージュの泉に星の光が走る条件は、聖女選定の儀を終え、女神に選ばれた聖女が泉に触れること、だ。「ルナの祈り」を持っているだけではいけない。聖女候補の段階で泉に触れても、何も起こらないのだ。


 逆にいえば聖女が「自分は正統に選ばれた聖女である」と証明できる機会でもあるため、歴代の聖女は巡礼の旅で必ずこの泉に立ち寄っていた。


 だが、イザベラさまはこのご様子だと来ないだろう。冬には聖女の任命式があるため、秋ごろから神殿であれこれと儀式や支度をしなければならない。夏になってしまった今から王都を発って巡礼の旅に出るとは考えにくかった。聖女任命後に巡礼の旅に出るかどうかも怪しいところだ。


 つまりこのままであれば、オーレリアさまがご自分の目でこの泉が光る様子を見られるとしたら、殿下とイザベラさまの間に王子が生まれ、新たな聖女が見つかったとき、ということになる。二十年以上あとの話になるだろう。


「巡礼の旅には出ないくせに、聖女さまの生家からは『イザベラが女神ネージュの泉を光らせた』という絵だけは描けって注文受けていて……うちの画家も困ってるんだ。……どんなふうに、光るんだろうな」


 今までも泉が光る様子を描き留めようとした画家はいたようだが、そのあまりの美しさゆえに絵にも描くことができず、残っているのは「星の光が走る」という抽象的な言葉のみだ。その注文は、確かにどれだけ腕のいい画家でも困ってしまうだろう。


 ……ウィロウ男爵家は、よほどイザベラさまの権威を示したいようね。


 聖女を輩出した家門となれば、それだけで素晴らしい栄誉だ。王室からも多額の支度金が支払われる上に、任命式の後は王太子妃の生家として発言力を有することもできる。女神ネージュの泉を光らせた光景を描くことで、聖女を生み出した家門、という権威を周囲に知らしめたいのかもしれない。


「まあ、こっちの話はこの辺にして……エマ、アシェルと泉を一周してくるといい。なかなかいい場所だろう? 応援しているとは言いづらいが……君の幸せを願っている」


 セオさまはにやりと笑って、はしゃぐオーレリアさまのほうへ行ってしまった。後に残されたのは私とお兄さまだけだ。


 ……やっぱり、何だか気まずいわ。


 視線を泳がせていると、お兄さまは優しげな声音で問いかけてきた。


「エマ、セオと散歩してこなくていいの? 僕はここで眺めているから、気にしなくていいよ」


 優しい「お兄さま」の言葉だ。けれど、昨晩の彼の姿を見た後では、それがうわべだけの言葉だということはすぐにわかってしまった。


 彼の本心は、こんな生やさしいものではない。私のすべてを絡め取り、呑み込むような、激しく溺れるほど深い、歪んだ愛のはずだった。


「……私、お兄さまとお散歩がしたいです」


「君も懲りないね。……また昨日と同じことされたい?」


 ぐっと距離を詰めたお兄さまが、わずかに唇を歪める。ぶわり、と凄絶な色気が溢れ出すようなその表情は、とても直視できなかった。頷けば、奪われるのは唇だけでは済まないような気がして。


 がちがちに固まっていると、掠めるように彼の指が私の頬に触れた。その甘いくすぐったさに、思わず腰が抜けそうなほど脱力してしまう。そのままゆっくりと、エスコートするように手を取られた。


「嘘だよ。……暗いから足もとには気をつけて」


 優しい言葉とともに、彼は私の手を引いて歩き始めた。それは、いつも通りの――私が望んだ「お兄さま」の姿だ。


 ……私だけのお兄さまになって、なんて昔言ったものだっけ。


 あのころよりもずっと広く、力強くなった彼の背中を見て、何だか妙に懐かしい気持ちになってしまった。あの夜を境に、お兄さまとぐっと近づけたように思っているが、彼は覚えているだろうか。


 お兄さまと初めて会ってからずっと、お兄さまのことが気になって仕方がなかった。


 ……ひょっとすると、冬の孤児院で出会ったあの日に、私は彼に心を奪われていたのかしら。


 すべてを恨み壊そうとするかのように光る、新緑の瞳。幼いながらに深い夜の気配を纏った独特の翳り。


 彼はなにか他の人とは違う、と、瞬時に悟った。恐ろしいと思うのに、どうしても目が離せなかった。


 ……だからあんなふうに、無謀な真似をしてでも助けたのね。


 聖典の教え通り、皆に等しく配っていた愛情に、初めて「特別」が生まれた瞬間だった。


 ……そう、お兄さまは、ずっと私の特別なの。


 私の手を引く後ろ姿を見上げる。私も、お兄さまのことを言えない。私がお兄さまに向ける感情もまた、恋とか親愛で片付くような、単純な想いではないのだろう。


 ただ引き寄せられるように、彼のそばにいて、生きていたいと思う。祈るように溶けあって、終わりのときまで手を握りあっていたい。それが、私がお兄さまに向ける「好き」なのかもしれなかった。


 黙々と歩き続け、気づけば私たちは泉の半周を歩ききっていた。いっそう夜が深くなって、泉に映り込む星の数も増えている。静寂の中に、星の輝きがりんと響き渡っていた。


「静かな場所だね」


 お兄さまはふと足を止めて、泉を眺めた。私もそっと、彼の隣に並び立つ。


「神殿に収められる聖水は、この泉から汲んでいるんだっけ」


「ええ、そうですわ。この泉や、雪解け水が使われています」


 お兄さまは、とても遠くを眺めていらっしゃるようだった。ここではない、遠くの日を。


「……きれいな水を見るたび、君には悪いことをしたと思い出すよ」


 あまりに唐突な言葉で、一瞬なんのことを言われているのかわからなかった。


 ……昔、お熱を出したお兄さまに、清めた水をお勧めしたときのことをおっしゃっているのかしら?


 あんな、とりとめもない些細なことを、今も覚えておられるなんて。


 ……あの夜のことを、お兄さまは忘れていなかった。


「あの夜は……私にとっては特別な思い出です。お兄さまと、心が通いあったように思いましたから」


「それを言うなら僕のほうがずっと、特別に思っているよ。……あの夜、君は僕の世界を染め変えたんだ」


 静かな微笑みを浮かべた彼と、ぴたりと目が合う。


 やっぱり、不穏なほど美しい瞳だ。彼の目は、夜の闇のなかでこそ、本当の輝きを放つ気がする。私はこの目が好きだ。


「きれい……」


 思わず、お兄さまの目もとに指先を這わせる。


 彼はしばらくの間、まつ毛を伏せて大人しく撫でられていたが、ふと私の手首を掴んだ。そのまま、いつものように許可を得ることもなく、手のひらにくちづけられる。


「……っ」


 くちづけは何度も繰り返され、次第に手首のほうまで移動していった。ぴくりと指先を震わせれば、それすら許さないと言わんばかりに指先を握り込まれる。


「お兄さま……」


「名前を呼んで、エマ。……これで、最後にするから。ちゃんと、君だけの『お兄さま』に戻るから――」


 ぐ、と腰を引き寄せられ、ぴたりと体が重なる。熱を帯びた瞳で縋るように懇願され、息もできない。


 ……私だけの「お兄さま」に戻る、なんて。


 彼は、私が考えているよりも忠実に、私の願いを叶えようとしてくれているのだろうか。「私だけのお兄さまがほしい」という、幼い日の願いを、まるで天命のように思い込んで、守ろうとしているのだろうか。


 けれど、今の私は「お兄さま」では満足できない。もっと、もっと彼が欲しかった。


 ……これが最後なんて、いや。


 ひとつだけしか選べないのなら、「お兄さま」じゃなくていい。


 私だけの「アシェルさま」になってほしい。


 すう、と息を吸い込んで、唇を開く。


 溶けあうように見つめあったまま、彼の名を口にしようとした、そのとき――。


「――聖女さまから離れてください、アスター公爵令息殿」


 星の輝きが響き渡る静寂を打ち砕くように、冷たい声が聞こえる。その声の主を悟るよりも先に、心臓がどくん、と跳ね上がった。

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