第6話 甘やかな不幸せ

 聖女候補として神殿に迎え入れられた彼女の評判は、目覚ましいものだった。


 毎日朝昼晩の祈りを欠かさず、聖典を諳んじ、貴賤の区別なく出会うすべての人を慈しむ彼女は、初代聖女ルナの再来とも謳われるほど、人々の期待を一身に背負った聖女候補に育った。


 彼女が鐘を鳴らしてから、一年が経って、二年が経っても新たな聖女候補は現れず、このままエマが聖女となるだろうとの読みのもと、近頃では妃教育も始まっているようだ。


 そんな彼女の活躍を、僕はただ見守ることしかできない。僕を置き去りにした、というどこか裏切られたような気持ちを抱いたまま、優しい「お兄さま」として彼女に接し続けた。日に日に美しく、聖女としてふさわしい気高さを身につけていく彼女が、いずれ王太子のものになるのをただ見ていることしかできないこの立場は、地獄としか言いようがない。


 エマが聖女候補になったことで、僕の婚約者候補もエマから義父上の姪に当たるオーレリア嬢に変わった。オーレリア嬢も美しく、華やかな令嬢だったが、エマでないなら誰でも同じことだ。


 僕の生きがいは、いつしか屋敷に戻ってきたエマの笑顔を眺めることだけになっていた。あるいは、疲れているような表情でもいい。どんな感情を露わにしていても、彼女は世界でいちばん可愛かった。


 それなのに、次第にエマは笑わなくなっていったのだ。教育係の神官が、彼女に何かを言い含めたらしい。当初から聖女になるべく励んできた彼女は神官の言うことを真に受けて、泣きも笑いもしない、「氷の聖女」へと変化していった。


 人形のような彼女も愛らしかったが、見ていて不安で仕方がなかった。彼女の好きな花を贈り、しつこいくらいに話しかけ、あの手この手で表情を引き出そうとしても、彼女は頑なに泣きも笑いもしない。僕にとっては、世界から熱が失われたかのような衝撃だった。


 ……寒い。


 寒いのは、嫌いだ。すべてを失ったあの夜を思い出すから。エマが、笑って泣いてくれないと、僕の世界に熱は生まれない。


 ……笑えないなら、せめて泣いてくれないかなあ。


 灰色の日々が続くにつれ、願いは徐々に歪んでいった。この際、彼女を傷つけてでもいい。再び凍りつきそうなこの心を、彼女の温かい涙で溶かしてほしいと願うようになった。


 だから、あるときついに僕は行動に出たのだ。彼女の目の前で、自分の腕を傷つけて、肉に食い込ませた鋏に彼女の手を重ねて引いた。優しい彼女なら、彼女自身が傷つくよりも、周りの人間が傷つく方が泣いてくれるはずだと考えて。


 鋏を食い込ませた腕は、痛かった、ような気がするが、それ以上にエマが泣き叫んでくれたのが嬉しくて、傷の痛みなどろくに覚えていない。長いこと吹雪の中を彷徨って、ようやく焚き火にありつけたような、そんな安堵を確かに感じた。


「お兄さま……私、悲しければ泣くし、楽しかったら笑いますから……もう二度とこんなことはなさらないで」


 泣きじゃくりながら懇願するエマは可愛かった。どうしようもなく、満ち足りることを知らずにもっと泣かせたいと思うほどに、愛おしかった。


 僕の血を拭うこともせずに、血まみれのまま泣き叫ぶ彼女を抱きしめ、何度も頬に口づけ、赦しを乞うように手のひらにくちづけたひとときの甘やかさといったらない。このまま彼女を僕で穢し続けて、恐ろしいほどのこの清廉さを奪い去りたいとさえ思った。

 

 同時に、ふっと気がついてしまう。聖女を穢して喜んでいる僕は、魔物でなくてなんだと言うのだろう。彼女とまるで正反対の存在であることを久しぶりに思い知らされ、ずくり、と胸が抉られるようだった。


 ……エマの願い通り「お兄さま」でいなくては。


 幸い、その件を機に彼女は公爵邸では徐々に笑ってくれるようになった。もともと感情豊かな子なのだ。公爵夫妻や僕の前で表情を取り戻すのに、そう時間はかからなかった。


 彼女が笑ってくれさえいれば、僕はまっとうな「お兄さま」でいられる。凍えなければ、魔物の本性を隠していられる。


 だから、彼女が笑ってくれる限り、僕もこの黒く醜い魔物の感情は隠しておこう。彼女が王太子に嫁ぐその日まで、彼女の望んだ、彼女だけの「お兄さま」のままでいるのだ。


 ◇


 ばたん、と扉を閉じて、自分に割り当てられた寝室へ閉じこもる。唇には、生々しい血の感触が残っていた。他でもない、エマの血だ。


 ……まさか「お兄さま」でいられなくなるとは思わなかった。


 ずるずると扉に背を預けながら、床に崩れ落ちる。エマとの旅を始めてふた月、最愛の彼女の愛らしい姿なんてこれまで毎日のように見てきたのに、ここにきて抑制できなくなるなんて。


 ここ、エルティアに来るまではよかった。祝砲の事故やエマの怪我あったものの、魔物の本性を隠してエマとふたりの穏やかな時間を守ることができていたのに。


 ……エマに言いよる男が現れたとたん、これか。


 頭では、わかっている。僕のような人間は、清らかなエマにふさわしくないのだと。だから、セオのような人望もある立派な紳士とエマが恋に落ちることは「お兄さま」としては歓迎すべきことだったのに。


 独占欲の証を刻むように、彼女のうなじにくちづけたり、チョーカーを贈ったりしたあたりから、「お兄さま」の像が揺らぎ始めていたのはわかっていた。それでも止められないほどに、このところのエマとセオの仲睦まじい姿には振り回されていたのだ。


 ……駄目だ、駄目だ駄目だ。僕のような者と一緒にいたら、絶対にエマは不幸になる。


 彼女が聖女候補に選ばれる前の僕は、ただ彼女を尊重して、無条件に愛を捧げられると思っていた。彼女に何も求めず、そばに置いてくれることだけを至上の喜びとして、彼女の妨げになることなどなにひとつせずに生きていけると思っていた。


 けれど、彼女が聖女候補として過ごしたあの数年間で、僕はずいぶん歪んでしまったらしい。彼女を愛するだけでなく、僕と同じくらいの愛を返してほしいと願うようになってしまった。日を追うごとに欲深く、独占欲が募っていくようで困る。


 ……今日もまたひとつ、覚えてしまった。


 エマに、何の配慮も遠慮もなく、噛み付くようにくちづける瞬間の幸福感といったらなかった。彼女に傷ひとつつけたくないはずなのに、彼女の血が舌先に触れるたび、もっと深く求めようとする浅ましい自分がいた。あのまま、最後の一滴まで食らいつきたいと思うほどに。


 ……エマは、怯えていたな。


 悲しげな、潤んだ藤色の瞳を思い出して、ぐ、と息を詰めた。かわいそうなことをしてしまった。


 ……やっぱり、僕のそばにいては不幸になる一方だ。


 既に取り返しのつかない事態とも言えるが、これ以上のことをしないと言いきれない自分が怖かった。未練がましく唇についた血を舐めとって、どこかぼんやりとした頭のまま寝台に向かう。


 彼女を、僕から引き離そう。それが僕にできる、最後の「お兄さま」らしい振る舞いだと信じて。

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