第5話 わるい予感

 それからというもの、エマとの距離はぐっと近くなった。朝いちばんに挨拶することから始まり、互いの勉強の合間を縫ってお茶を楽しんだり、時には礼拝にでかけたりする。


 女神のこともネージュ教のこともやはり好きではなかったが、エマにふさわしい「お兄さま」として、敬虔な信者のふりをすることは容易かった。


 もはや、女神などどうでもいい。僕にとってはエマが赦しであり、祈りを捧げるべき対象であり、祝福そのものなのだから。


「エマとアシェルは、すっかり仲良くなったのね」


 エマの「お兄さま」として振る舞うようになって以来、失いかけていた表情が徐々に戻ってきた。エマが笑えば嬉しいし、彼女が悲しんでいれば僕も憂う。そんな単純な心の動きばかりだったが、公爵夫妻の目にはよい変化として映ったようだった。


「お兄さま、大好き!」


 エマはよくそう言って僕に抱きついた。何をしていても可愛いひとだ。


 彼女の笑顔を見ているうちに、悪夢を見る頻度もぐっと減った。彼女は、僕の心を溶かしただけでなく、夜の安寧も与えてくれたのだ。彼女は救世主と言っても過言ではない。僕は、自分より二歳年下のこの少女に生かされていた。


「僕も、エマが大好きだよ」


 僕も決まってそう返したが、本当のところ、エマのことを「好き」なのかはよくわからなかった。


 一夜にして僕の世界を染め上げた彼女は、あまりに絶対的存在すぎて、年下の子供に向けるような慈しむ気持ちは湧いてこない。かと言って婚約者候補として熱っぽい感情があるかと言われたら、それもない。愛しているか愛していないかで問われれば、それはもちろん愛しているほうへ分類されると思うのだが、彼女に向ける好意を表すふさわしい言葉は見つけられずにいた。


 それでも、いずれ彼女と婚約し、ふたりで人生を歩んでいけると思えば気持ちが軽くなるのだから、恋慕にも似た情は持ち合わせているのだと思う。配偶者という立場はいい。赦しであり祈りであり祝福である彼女が、僕だけのものであると世間に知らしめることができるのだから。


「お兄さま、何を考えていらっしゃるの?」


 あの決定的な夜から半年、エマはさらに令嬢らしく華やかに喋るようになっていた。すっかり僕に懐いた彼女は、眠る前に僕の膝の上で本を読むことを好んだ。


「エマのことを考えていたよ」


 さらさらの銀の髪の生え際にくちづけて、彼女が開いた本を覗き込む。相変わらず信仰心の篤い彼女は、このところ建国神話に凝っているようだった。僕からしてみれば微塵も興味はないが、彼女と話を合わせるためだけに受け入れている。


「お兄さまは、ちょっと優しすぎます。私は、何も返せていないのに」


 エマは、気恥ずかしさとすこしの不満を露わにして唇を尖らせた。なんとも愛らしい表情だ。頭を撫でずにはいられない。


「何も返せていないだなんて……君は、僕の世界をまるごと変えてしまったのに、おかしなことを言うね」


「お兄さまの世界を?」


 あの夜のできごとは、エマにとってはとりとめもないこととして処理されてしまったらしい。きっと、成長するにつれて薄れていく記憶なのだろう。それでも、あの夜に彼女が僕を赦してくれたから、今の僕があるのは確かなのだ。


「何か返したいと思っているなら……そうだな、僕が君に何かいいことをしたら、ご褒美として君の手にくちづけさせてくれる?」


「私の手に、ですか? そんなことでいいんですか?」


「うん……僕には過ぎた栄誉だよ」


 そっとエマの小さな手を取って、縋り付くように指先にくちづける。あの夜のようにこうして彼女の手にくちづければ、僕は赦されているのだと実感できる気がした。これは、僕なりの祈りで、彼女のそばにこれからも置いてほしいという懇願だった。


「なんだか、王子さまみたい。お兄さまって、すてきです」


 ほんのりと頬を染めて、エマは建国神話が記された本に視線を落とした。開いている頁では、ちょうど初代聖女が初代国王と出会いを果たすところだった。


「エマは、王子さまに憧れるの?」


 年相応の少女らしい面もあるようだ。くすりと笑いながら彼女の顔を覗き込めば、ますます赤面してしまった。それが答えなのだろう。


「そっか。でも、この国では、王子さまは聖女さまと結婚するっていう決まりが――」


 そこまで言いかけて、はたと気づく。


 思えば、この国のすべての少女に義務付けられている儀式――「ルナの祈り」を持つ聖女候補を見つけ出すため、神殿の鐘のある広間へ礼拝する義務が、エマにも課せられている。そしてその儀式は、数日後に迫っていた。


 ……エマは、大丈夫だよな?


 もし彼女が聖女候補に選ばれてしまったら。そんな嫌な未来が、一瞬脳裏をよぎった。けれど、聖女候補と言われて人々が思い描く像があるとすれば、それはまさにエマのような娘なのではないだろうか。


 心臓が、警鐘を鳴らすようにどくどくと脈を早めた。


 もし、彼女が神殿の鐘を鳴らしたら、彼女は聖女候補に選ばれて、今よりずっと遠い存在になってしまう。ようやく見つけた赦しである彼女を、神殿に取り上げられてしまう。


 ……エマと生きていくことだって、叶わなくなる。


 聖女は王太子と結婚するのがこの国の掟だ。例外はない。エマが聖女となれば、彼女を娶るのは彼女が憧れる「王子さま」だ。


「っ……」


「……お兄さま?」


 エマは聡い子だ。僕の些細な変化にも、すぐに気がついてしまう。僕の膝の上に座ったまま、胸に寄りかかるようにしてこちらを見上げてきた。


「エマ……どこにも行かないでくれ」


 君だけは、僕の目の前からいなくならないで。


 エマを失うということは、許しも祈りも祝福も手放すということだ。僕はまた、ひとりぼっちの魔物に逆戻りする。


 いいや、それがおそろしいわけじゃない。彼女の笑顔をいちばんそばで見守る立場を、取り上げられるのが何より怖いのだ。彼女がいないと、僕には平穏も幸福もありえないのに。


「どこにも参りませんわ、お兄さま。私は、お兄さまとずっと一緒です」


 エマは小さな腕を目一杯広げて僕を抱きしめてくれた。縋り付くように、僕も彼女の背に腕を回す。どれだけ固く抱きしめあっていても、一度芽生えてしまった嫌な予感は、なかなか消え去ってくれなかった。


 ◇


 最悪な予感は、やっぱり最悪なかたちで的中することになる。


 あれから数日、エマを待っていたかのように、数十年ぶりに神殿の鐘が鳴った。彼女が「ルナの祈り」――聖女の力に恵まれている証だった。


 王太子が誕生して十二年、一向に聖女候補が現れないことに痺れを切らしていた神殿は、この報せに歓喜した。しかも鐘を鳴らしたのは幼いながらに聡明で敬虔な信者である公爵家の令嬢。この上ない好条件だった。


「お兄さま……私、『聖女候補』になるのですって。私が、もしかしたら聖女さまになるかもしれないそうです」


 鐘を鳴らしてから三日、エマは神殿であれこれと儀式を受けていたようだが、ようやく帰ってくるとどこか不安げにそうこぼした。


 義兄としては「君なら大丈夫だ」と励ますべきだとわかっている。


 それなのに、胸のうちを閉めるのは、途方もない絶望と、なぜか裏切られたように思う黒い感情ばかりだった。


「……すばらしいね、とても、名誉なことだ」


 ぽつぽつと心にもないことを取り繕う僕の声は、聞けたものではなかった。


 本当ならば、肩を揺さぶって問い詰めたい。君は聖女になりたいの? 聖女になって僕からはなれていくの? 一緒にいると言ったのは嘘だったの? 君は王子さまのものになるの? 


 君は僕だけの赦しであるはずなのに、どうして。


「ええ……。私、聖女教育に励んで、立派な聖女さまを目指します。……どうしても、成し遂げたいことがありますから」


 そう言って遠くを見据える彼女の瞳に、僕は映っていなかった。


 彼女は既に、与えられた使命を果たすべく、未来へ突き進もうとしている。僕を置き去りにして。


「――っ」


 吐き気にも似た黒い感情が込み上げて、思わずエマの前から立ち去った。逃げ込むように私室に閉じこもり、月明かりだけが照らす室内で息を整える。


 初夏の風が、庭に咲く花々の甘い香りを運んできた。それだけで、花を愛でるエマの笑顔が蘇る。


 何かを壊さずにはいられないような衝動に駆られて、空の花瓶を床に投げつけた。透き通る碧い硝子が、あたりに散らばっていく。気づけば肩で息をしていた。


「あ……あああ!」


 思わず床に膝をつき、両目を掌で覆った。


 やっぱり、女神なんて大嫌いだ。僕の家族を貶めただけでなく、エマまでも奪おうとするのか。嘲笑うかのように、僕の手もとから攫っていくのか。


 エマは僕だけの、僕だけの赦しで、祈りで、祝福で――何にも代えがたい、最愛のひとなのに。


 そこまで考えて、ふと、自嘲気味な笑みがこぼれた。同時に、頬に涙が伝っていく。


 僕も、相当な愚か者だ。彼女が僕のものにならないと気づいて初めて、自分の本当の想いに気づくなんて。


「エマ……」


 彼女は、文字通り僕の世界のすべて。女神よりも尊いひと。


 そんな彼女に、僕はどうやら、とっくのとうに恋に落ちていたらしい。

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