第4話 赦しと天啓

 公爵邸に引き取られてひと月、王都には本格的な冬がやってきた。与えられた私室の窓から見る街並みは、すっかり白銀に染まっている。


 雪は女神の祝福の象徴だから、この国の多くの人々は雪の日を喜ぶ。子どもたちは積極的に雪で遊ぶものだし、大人たちもわざわざ降り積もる雪を静かに眺める時間を設けるくらいだ。


 それは彼女も例外ではないらしく、真っ白な外套をまとって侍女とともに庭を駆けていた。白銀の髪がさらさらと揺れて、目を離せば雪の中に溶け込んでしまいそうに見えた。


「私たちもすこし庭に出てみようと思うけれど、アシェルもどうかしら?」


 義母上がわざわざ僕の部屋を訪ねて散歩に誘ってくれたが、丁重に断った。雪にあまりいい思い出がないことをわかってくれているのか、それ以上食い下がることはせず、義母上は義父上と庭に出ていった。


 言うまでもなく、僕は雪が嫌いだ。公爵家の人々が雪を喜んでいるのを否定するつもりはないが、それにまざることはどうしてもできない。


 中庭では、義理の両親たちが駆け回る義妹と合流していた。彼女は義父上に軽々と抱き上げられ、満面の笑みではしゃいでいる。寒さのせいで、いつもより赤く色づいた頬が愛らしかった。義母上がふたりに近づいて、何やら楽しげに談笑していた。


 幸せな三人の姿を、窓越しになぞる。優しい彼らの輪に入れてもらえた僕もまた、この上ない幸せ者なのだろう。笑顔のひとつくらい返すべきと思うのに、いまだに泣きも笑いもできない自分が嫌だった。


 ……それに、僕だけ幸せになるわけにはいかない。


 公爵邸に来てからと言うもの、罪悪感にも似たその思いが日に日に膨らんでいくのを感じていた。


 僕の本当の家族は、友人のように思っていた従弟は、親切だった使用人たちは、みんなあの日冷たい雪の下で二度と覚めない眠りについたのに。ひとりだけ助かったからと言って、呑気に僕だけが幸せになっていいはずがなかった。


 そういう意味では、恵まれた環境に迎えられた今も、心はじわじわと血を流し続けているような気がした。むしろ、孤児院で虐げられていた日々の方が、これが贖罪になるかもしれないと逃げることができて、気が楽だったかもしれない。


 ぼんやりと三人の姿を眺めていると、ふと、義父上に抱き上げられた彼女がこちらに気づいたようで、小さな手を目いっぱい振ってきた。気づかないふりをして無視しようかとも思ったが、彼女の視線を追うようにして義父上も義母上も手を振ってきたから、振り返さないわけにはいかない。


 ゆっくりと手をあげて左右に振れば、彼女は嬉しそうに腕をめいっぱいあげて両手を振ってきた。体を乗り出すように腕を振るから、慌てて義父上が彼女の体を支えている。


 無条件にまっすぐに向けられるその好意は、僕にはやっぱり眩しすぎた。


 身内を失う不幸にも見舞われず、傷ひとつつかぬよう大切に育てられてきた彼女を、妬ましく思う気持ちもどこかにはあるのかもしれない。いずれにせよそれ以上彼女を直視できず、すっと窓辺から離れた。


 その拍子に、ずきりと頭が痛んだ。思わず両手で頭を抱えると、額が熱いことに気づく。


 ……今年もか。


 昨年、家族を失ってちょうど一年が経とうかという時期に、僕はひどい高熱に襲われた。療養施設にいたからすぐに適切な治療を受けることができたが、もし孤児院にいたままであれば命が危なかっただろう。


 もともと、冬にはいちどは風邪を引く体質で、どちらかといえば体は強くないほうだった。療養施設の医師は、その体質に加え、家族を失ったことにまつわる負荷が影響して、ひどい熱を出すのだろうと話していた。


 今年も、家族を失った時期が近づいて、同じように熱が出たのだろう。具合が悪いと自覚した途端に、吐き気ととてつもない倦怠感に見舞われ、思わず倒れ込むように寝台に横たわった。


 ◇


 僕はどうやら、そのまま意識を失っていたらしい。次に目覚めたときには寝台の上で重いくらいの毛布を重ねられて横たわっていた。すぐそばには義父母と医師らしき初老の男性が控えており、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。


「アシェル! 目が覚めたか」


「アシェル、私たちのことわかる?」


 義父母は焦ったように口々に問いかけてくる。迷惑はかけたくなかったのに、この優しい人たちをずいぶん心配させてしまったようだ。


「あなた、ひどい熱を出してここで眠っていたのよ。大丈夫、お医者さまに診ていただいているから、このまま安静にして薬を飲めばじきに熱は引くそうよ」


 義母上が、冷たい布で額を拭ってくれた。そんなこと、侍女にでも頼めばいいのに、公爵夫人みずから僕の汗を拭うなんて。


「ご迷惑をおかけして……申し訳ありません」


 後継者教育の授業が、たくさん詰まっていたのに。家庭教師たちにも無駄足を運ばせてしまっただろうか。


「慣れない環境で、無理がたたったんだろう。しばらく休みなさい。何か欲しいものはあるか?」


 義父上の言葉にゆっくりと首を横に振る。医者にかけて、薬まで準備してくれたのだから十分だ。


「エマもお見舞いに来たがっていたけれど……子どもにはうつるかもしれないと先生に言われたから控えているわ。あの子、あなたのことひどく心配していて……」


 藤色の瞳を潤ませて僕を案ずる顔が、目に浮かぶようだ。


 ……こんなときまで、煩わされるなんて。


 舌打ちしたいような衝動に駆られるが、歯を食いしばって耐えた。大人たちは、それを吐き気を堪えているように捉えたらしい。すぐに義母上が背中をさすってくれた。


 母親となった女性の手は、どうしてこんなに温かく包み込むようにやさしいのだろう。目を瞑ると亡くなった母に背中を撫でられているような気がして、胸が詰まった。


 熱が高かったのか、せっかく目覚めたというのに再び意識が朦朧としてきた。眠いわけでもないのに、眠らされるような感覚だ。病的な睡魔に抗えぬまま、僕は再び目を閉じた。


 ◇


 透き通る歌声が響いている。馴染みのあるこの旋律は、この国の人間なら誰もが知っている聖歌だ。女神を讃え、雪を喜ぶ、信者のための歌。


 雪崩に巻き込まれる前はよく歌っていたものだが、この二年いちども口ずさんだことがない。それなのに、憎らしいほどその旋律はこの身に染み付いていた。

 

 小さな手が、額に触れる。歌いながらかざされたその手に、不思議と熱が吸い取られていくような気がした。


 この小さな手を、よく覚えている。二年前も、ぼろぼろになった僕の傷口に躊躇わずに触れたあの手だ。思えばあのときも、痛みを遠ざけるおまじないで、不思議なくらい痛くなくなったのだっけ。


 すっと熱が引いたような気配に、おそるおそる瞼をあける。寝室はすっかり薄暗くなり、燭台がひとつ灯っているだけだった。どうやら今は真夜中のようだ。


 当然この部屋にいるのは僕ひとりであるべきなのに、薄闇の中に淡く浮かび上がるように彼女はいた。義父母が腰掛けていた寝台横の椅子にちょこんと座って、聖歌を歌い続けている。


 よく見れば、こんな時間だというのに真っ白な外套を羽織り、頬を赤く染めている。まるで外から帰ってきたかのようだ。


 彼女は目を瞑って、祈るように聖歌を歌い続けていた。どこか物悲しい旋律も、女神を讃える歌詞も聴いていられない。無性に苛立ってしまってならなかった。


「……耳障りな歌を歌わないでくれ」


 止めなければいつまでも歌い続けそうな気配を感じて、ついにこちらから話しかけてしまう。熱があるせいか、言葉選びに失敗したように思ったが、彼女は気にしていないようだった。


「お兄さま、お目覚めになったのですね!」


 彼女はぱっと顔を輝かせて僕を見つめた。目覚めて早々汚れのない瞳に見つめられ、消えたくなるほどの息苦しさを覚える。


「……どうしてそんな格好をしているんだ。今は夜だろう」


 上体を起こそうとすると、彼女は寝台によじ登るようにして僕を支えた。そうしてそばにある小さな机から何やら取り出すと、僕の視界に入り込むように寝台の上を移動する。


「神殿へ行って、清めたお水をもらってきたんです。お兄さまのお熱に、きっと効きます」


 は、と思わず自嘲気味な笑みがこぼれる。この義妹は、どこまでも敬虔な信者で本当に意見が合わない。こんなものに頼らずとも、医者から処方された薬があるというのに。


「いらない。そんなにありがたいものなら、君が使えばいいじゃないか」


「お熱に苦しんでいるのはお兄さまですもの。ね? 飲んでください」


「いらないと言っている!」


 差し出された小瓶を、思わずおしのけるように拒否してしまった。硝子の小瓶は小さな手から離れ、床に落ちてぱりん、と割れてしまう。柔らかな絨毯の上に、液体が広がった。


「……っ」


 先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた彼女が、物悲しげに表情をかげらせる。


 いくら嫌っているとはいえ、自分より幼い少女相手に、ここまでするつもりはなかった。力加減ができていないのも熱のせいだろうか。思い通りにならない体がもどかしくてならない。


 喉まで出かかった謝罪の言葉を口にするより先に、彼女は取り繕うように笑った。


「……だいじょうぶです。神殿に行けば、またもらえます。飲みたくないときに、無理強いしてごめんなさい」


 嫌になる。何も悪くない彼女を拒絶する自分も、不気味なほどに清廉な彼女も。


 頭を抱え、俯きながら深い息を吐いた。ぼんやりとした燭台に照らされた、彼女の小さな影が揺れる。


「悪いことをした。でも……これでわかっただろう? 僕に関わるとろくな目にあわない。僕は女神を恨んでいる。だからこれ以上、僕に近づくな。君も、女神から見限られるぞ」


「女神さまを……? どうしてです?」


 気遣わしげに、彼女は問うた。普段なら話していたくないと思うのに、堰を切ったように言葉が溢れ出す。


「僕の本当の家族は雪の事故で亡くなった。……君が信じている女神の教えによれば、雪の事故で命を落とす者は罪人の生まれ変わりというじゃないか。生き残った僕も、魔の者だと蔑まれた。……僕自身はともかく、亡くなった家族を貶める教えのあるネージュ教なんて、僕は信じない」


 そう思うほどに、優しいひとたちだった。誰からも悪く言われていいひとたちではないのに。


「たしかに、聖典にはそう書いてありますね。……すべての民を救うはずの教えが、お兄さまを苦しめているなんて、おかしなおはなしです」


 女神を盲信している様子の彼女にはてっきり蔑まれるかと思っていたのに、意外な反応に戸惑ってしまった。はっと顔を上げたところで、藤色の瞳と目が合う。


「すくなくともお兄さまは、魔の者なんかじゃありません。二年前、私を庇ってくださったもの」


「庇ったのは君のほうだ。記憶違いをしている」


 二年も前のことだ。九歳になったばかりの彼女にとっては、ずいぶん遠いできごとだろう。


「いいえ、お兄さまは……自分勝手にお兄さまとあのひとたちの間に割り込んだ私のことを、見捨てなかった。あのまま、あのひとたちのもとに私を行かせることもできたのに。それって……お兄さまがすごく優しいひとだというあかしですよね? そんなお兄さまを育てたお兄さまの本当のご家族が、罪人の生まれ変わりのはず、ないとおもいます」


 至って真剣に、彼女は語った。たったあれだけのできごとで、そこまで考えていたなんて、思いもよらなかった。


「だから私、お兄さまが好きです。好きだから、元気になって、もっと笑ってほしいとおもいます。お兄さまの笑顔をみることが、とうぶんの私の目標です」


 可憐な笑顔から、思わず目を逸らす。視線の先に、先ほど僕が振り払ってしまった割れた小瓶が転がっていた。


「笑えるはずがない……僕ひとりだけが、幸せになっていいはずがないんだ」


 心に枷をつけるのは、僕なりの償いだった。ひとりだけ浅ましく生き延び、恵まれすぎた環境を与えられていることの、代償なのだ。


 だから、心優しい義妹の願いを叶えてやることはできそうになかった。


「お兄さまは……ご自分を、赦しておられないのですね」


 そうだ。その通りだ。この先もとうてい赦せるはずがない。


「女神さまの赦しはきっと、そもそもお望みではないのでしょうね」


 ふと、伏せた視界に小さな手が入り込む。温かく柔らかなその手は、降り積もる雪のようにやさしく、僕の手に重ねられた。


「もし……もし、お兄さまが、誰かの赦しをお望みなら――」


 珍しく彼女の言葉が揺れる。藤色の瞳はひどく切なげに僕を見ていた。


「――私が、お兄さまを赦します。お兄さまが幸せになることを赦して、笑うことを赦して、心にかけられた枷を、解いて差し上げます」


 それは、ただの人間が告げるにはあまりに傲慢な言葉なのかもしれない。

 

 けれど、雪のように清らかで、天使のような慈愛を持ち合わせた彼女が言うと、聖典のどの言葉よりも、どんな祈りよりもすとん、と心の奥に入り込んできた。


 それはまさに、僕にとっての天啓だった。


 かちり、と心にかけられていた枷が外れる音がする。同時に、右目からつうっと生温かいものが流れ出した。


 それが涙だと気づくのに、たっぷり数十秒はかかった。透明な粒は、後から後から流れ出してくる。


「あ……ああ……」


 ふっと、燭台のあかりが消える。そうして初めて、窓から差し込む月の明るさに気がついた。


「あああああ……!」


 気づけば幼い子どものように声を上げ、寝台に伏せ、彼女の膝に縋り付いて泣いていた。彼女はそれを静かに受け入れるように、ゆっくりと僕の頭を撫でる。


 凍りついていた心が、彼女の手でゆっくりと溶けていくような気がした。長い冬が、ようやく終わる。


 まるで聖母に縋り付く罪人のように、僕は彼女の膝の上で泣き続けた。


 ……そうか、僕は、赦されたかったんだな。


 そんな簡単なことに、今の今まで気づけなかった。彼女だけがそれを見抜いて、僕を許してくれたのだ。


 どれくらい、そうしていただろう。止めどなく溢れていた涙が収まったころ、彼女の膝に頭を載せたまま、絶えず僕の頭を撫でていた小さな手に、そっと唇を寄せた。


「……僕は君のためなら何者にでもなるよ、エマ」


 僕を赦してくれた彼女が――エマが望むなら、義兄にでも婚約者にでも聖職者にでも魔物にでもなろう。


 大嫌いだったはずの彼女は、一夜にして、僕の世界でもっとも尊重すべき存在となった。女神よりも聖女よりも、彼女がいちばん尊いひとだ。


「うれしい。それなら……私だけのお兄さまになってください。アシェルお兄さま」


 エマは僕の顔を覗き込んで、愛らしい笑顔で強請ってきた。


 白銀の髪が、一筋流れ落ちてくる。それは、僕にもようやくもたらされた祝福の象徴だった。


「――うん。僕は、君だけのものだ、エマ」

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