第3話 厄介な義妹

 公爵の計らいでアスター公爵領にある療養施設に入ること、二年。


 事故で負った傷のせいで引きずるようにしか動かなかった僕の足は、よい治療のおかげでずいぶん自由に動くようになっていた。事情を知らない者が見れば、かつて不自由があったことなど悟られないくらいには、滑らかに動かせているだろう。


 国王陛下と公爵との取り決めで、僕はアスター公爵家に養子として引き取られることが決まったらしい。足がかなり動くようになり始めてからは、一流の家庭教師を送られるようになり、後継者としての教育が始まっていた。


 僕を息子として扱うほどに、公爵は父と強い絆で結ばれていたようだ。僕の祖母が公爵の教育係だったというから、兄弟同然に育ったという話も大袈裟に言ったものではないのだろう。厳密にいえば父はアスター公爵家の遠縁にあたるらしく、その縁も手伝ってこの養子縁組が成立したらしい。


 ただし、養子縁組には条件がつけられてしまった。それは、アスター公爵家に縁のある令嬢といずれ婚姻を結ぶことだ。


 ――君さえ嫌でなければ、いずれ君には、エマと婚約してもらおうと考えている。それまでは、義兄という立場で接してほしい。


 定期的に届く公爵からの手紙には、そう記されていた。僕と年齢の合う令嬢は他にもいるらしいが、公爵令嬢である彼女がいちばんの候補に上がるのは自然な流れだった。


 それに逆らえる立場にないことはわかっているが、あの天使のように清廉な少女を思い浮かべると、気乗りしないのは確かだった。


 彼女はきっとすばらしい淑女になるのだろうし、僕にも親切にしてくれるに違いないが、僕と彼女はあまりに違いすぎる。いまだに女神を呪う気持ちを消せない忌まわしい僕と、歌うように祈りの言葉を唱える純真な彼女では、どう考えても世界が交わらない。


 公爵の手紙とともに届いた、もう一通の便箋を手に取る。公爵が手紙を送るたび、彼女も欠かさず僕に手紙を書いてくれていた。もともと綺麗な字を書く子だったが、時を経るにつれどんどんと流麗な文字を書くようになり、九歳になった今では公爵夫人の字と遜色ないほどの美麗な文字と文句を書くようになっていた。


 ――お兄さまが公爵邸にいらしたら、ご案内したい場所がたくさんあります。特に、お花の咲き乱れるお庭はすばらしく美しいので、お兄さまとご一緒にお茶を飲めたらどんなにすてきだろうと考えています。お兄さまは、どんなお花がお好きでしょうか。お兄さまのお好きなものを、もっと知りたいです。


 事故に遭ってからというもの、好きなものも嫌いなものもできていない。


 強いていえば、女神と君が嫌いだ、と返信用の便箋に思わず書き綴りそうになって、ペンを置いた。


 あの孤児院から救い出されてからというもの、衣食住に不自由することもなく、治療以外に理不尽な痛みを与えられることもない。接する大人はすべて親切でよいひとたちだというのに、僕はろくに笑いも泣きもできないまま過ごしていた。


 あのひと月に負った傷は、自分で考えているよりもずっと深いものであるらしい。あるいは、いまだに毎晩のように見るあの悪夢のせいで、感情が凍りついているのだろうか。


 ……心配だな。こんな調子で、公爵家でうまくやっていけるんだろうか。


 自分を救い出してくれた公爵夫妻に恩を感じていることは確かだ。だから、彼らの期待には応えたいと思うのに、肝心の令嬢とはやっぱり打ち解けられないかもしれない。


 ……そもそも、向こうが僕のような婚約者は願い下げだろう。


 幼いながらに、すっきりと目鼻立ちの整った愛らしい子だった。年頃になって社交界に出れば、きっと縁談が殺到するだろう。その中には公爵のお眼鏡に叶う紳士もいるに違いない。美しく成長した彼女が、彼女にふさわしい清廉な人間を結ばれることを義兄として見守るくらいが、僕にできる最大限の恩返しのような気がしていた。


 ◇


 療養を終え、ついに公爵邸に招かれたのは、十一歳の初冬のこと。王都では、ちらちらと雪の降る日が増える季節だった。


 公爵夫妻は、これ以上ないくらいに僕を温かく迎え入れてくれた。まるで、本当の息子が療養生活から戻ってきたかのように。使用人たちも、僕を蔑視することなく、夫妻の本当の子どものように尊重してくれた。


 彼女は、やはり想像通り純真なまま、美しさだけを増して成長していた。祝福の象徴である雪を連想させるような艶のある銀髪は、令嬢らしく腰の辺りまで伸び、淡い藤色の瞳には愛らしさだけでなく神秘的な光を宿すようになっていた。九歳にしてはどこか大人びた印象があるが、それも顔立ちが整いすぎているせいだろう。


 彼女には、まだ僕との婚約の話は伝えていないようだった。公爵も、娘の意志を尊重するつもりなのだろう。


「お兄さま、私、お兄さまがいらっしゃる日をずっと楽しみしておりましたわ」


 初めて出会ったときよりも、ずいぶんと滑らかに少女らしく話すようになった彼女は、にこにことしながらことあるごとに僕の前に姿を現した。無下に扱う気はないが、正直対応に困る上に、長く話していたい相手でもない。


「ありがとう。……でも、無理して親しくしようとしなくていい」


 ひょっとすると公爵夫妻に、僕には優しくするよう言われているのかもしれない。その可能性を考えての発言だったが、彼女はあからさまにしゅんと肩を落とした。


「私は……お兄さまともっと仲良くなりたいです。私のこと……お嫌いですか?」


 好きか嫌いかでいわれたら間違いなく嫌いなのだが、それをまっすぐに伝えるのも憚られた。まさか「君の清廉さは僕にとっては毒のようだから近づかないでほしい」とも言えない。わずかな間悩んだのち、溜息混じりに返事をする。


「……どう思ってもらっていても構わない」


 ずるい逃げ方だが、さっさと会話を切り上げたくて仕方がなかった。


 彼女は困ったように微笑んで、僕を見ていた。


「じゃあ……お兄さまに好かれていると思っていたほうが幸せだから、お兄さまは私が好きって‥…そう思い込むことにします」


 幼さに似合わぬ寂しげな表情を見せたかと思うと、彼女はスカートをちょこんとつまんで、礼をした。それを機に、ぱたぱたとかけるように立ち去っていく。


 立ち去り際に彼女が見せた寂しげな表情が、どうしてか目に焼き付いていた。


 ……あの表情は、僕のせいか。


 僕のせいで生まれた憂いかと思うと、心の奥がぎゅう、と絞られるような痛みを覚えた。


 ……義兄になったとはいえ、なぜここまで僕に構うんだ。


 僕に何が気に入ったのか、逆に聞いてみたいくらいだ。それとも、天使のように清廉で慈愛に満ちた彼女は、誰のことも無条件にこうして慈しんでしまうのだろうか。


「……厄介な義妹だ」


 彼女がいなくなったのを見計らって、椅子の背もたれに体重を預けながらもう何度目かわからない溜息をつく。


 義兄妹という立場でこれなのだ。婚約者なんていう誰よりも近い距離で、彼女と生きていけるわけがなかった。

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