第2話 白雪の少女
「なんだ、まだ終わってないのか。のろまなやつだな」
がさついた少年の声にはっと顔を上げる。孤児院最年長の十代半ばの少年の背後には、今朝僕を化けものだと笑っていた子どもたちの姿もあった。
必死に床を磨いていたせいで気にする余裕もなかったが、どうやらすっかり夕方になっていたらしい。僕はようやく仕事の半分を過ぎたところだが、他の子どもたちはとっくに仕事を終えているのだろう。一通り遊び尽くして、次は僕をおもちゃにしようと考えているのがまるわかりだった。
「陰気なやつめ、なんとか言えよ!」
脇腹に蹴りを入れられ、その拍子に舌を噛んでしまう。ぶわり、と口の中いっぱいに血の味が広がったが、吐き出したら床を汚してしまう。慌てて曲げた肘で口もとを抑え、咳き込みながら汚れた衣服に口腔内の血を吸わせた。
「面白くねえなあ。もっと派手に咳き込んでみろよ」
今度はお腹に蹴りを入れられ、その衝撃で壁まで吹き飛ばされた。幸い朝から何も食べていないので吐くものもない。血の匂いがする呼気を吐き出しながら、吹き飛ばされた拍子に床にぽたぽたとこぼれてしまった自分の血を見た。
ああ、与えられたぼろ布では、血を拭き取るのもひと苦労なのに。化け物の僕の血はひどく汚れているから、神官たちに布が使えなくなったと叱られてしまうのに。
彼らのお望み通り血を咳き込みながら、最年長の少年を眺める。目があっただけで彼は、不機嫌そうに眉を顰めた。
「なんだその目は、まだ足りねえみたいだな」
つかつかと少年が目の前に歩み寄ってきたかと思えば、薄いシャツの胸ぐらを掴まれ、思い切り頬を殴られた。
一瞬、世界が暗転する。殴られるのがこんなにもつらいことだなんて、ここにくるまで知らなかった。
「はは、せっかくのお綺麗な面も台無しだな。もうちょっと殴れば、魔物にふさわしい顔になるんじゃねえのか」
下卑た笑い声を上げながら、少年は僕を殴り続けた。口からも鼻からも血が出ているのか、うまく息ができない。
ひとしきり殴られた後に、壁に向かって放り投げられる。暴力は日常茶飯事だが、今日はいつもにも増して執拗だ。虫の居所が悪いのかもしれない。
歪む視界であたりに散った自分の血を眺めていると、仕上げと言わんばかりに頭から冷水を浴びせられた。先ほどまで、僕が床掃除に使っていた水だろう。ただでさえ凍えるほどに寒いのに、水を吸って肌に張り付いた衣服が、無理やり体の熱を引き剥がしていくかのようだった。
「どうだ? まだ半分あるぞ。反撃するならしてみろよ」
にやにやと僕を見下ろす少年たちを前に、抵抗する気など起きなかった。どうせ抗えば抗うぶんだけ、余計に痛めつけられるのだ。
……このまま死ねたら、自分で命を絶ったことにはならないだろうから都合がいいな。
濡れた衣服で眠れば、明日の朝には家族のもとへいけるかもしれない。ちょうど意識が遠のくように頭が痛んでいることだし、抵抗せずに眠ってしまおうか。
そう、まつ毛を伏せたその瞬間、僕と少年の間に、真っ白な生き物が飛び込んできた。
「なにをしているのですか? 血が、出てます。叩いちゃ、駄目です」
それは、銀の髪をした僕よりも幼い少女だった。毛皮のついた真っ白な外套は、この貧しい孤児院にはふさわしくない。礼拝に訪れた客の子どもだろうか。
少女は僕に背を向けるようにして、少年に立ちはだかっていた。目いっぱい両手を伸ばしているのは、僕を庇っているつもりなのだろうか。
「あ? なんだお前。どけろ。水かけるぞ」
少年の言葉に、少女はふるふると首を横に振った。白銀の髪が、さらさらと外套の上で揺れる。
「どけたら、このひとに水かけるんでしょ? なら、どけません」
たどたどしい言葉で、少女は少年に反抗した。馬鹿なことをする。
……早く、どこかいってくれ。
少女をこの場から避けようと手を伸ばすも、うまく腕が上がらない。
そうこうしているうちに、冷水が少女めがけてかけられた。少女の純白の外套が、みるみるうちに灰色に染まっていく。
「ざまあみろ、言うこと聞かないからだ」
少年たちが口々に嘲る。少女をこの場から排除するのが間に合わなかったことに若干の苦い気持ちを覚えながらも、なんとか彼女の肩に手をかけた。
「……親のもとへ戻れ。ここは君の来る場所じゃない」
腫れ上がった口でなんとか言葉を紡ぐも、少女の瞳を見て絶句した。
「……っ」
少女は、泣くでも恐れるでもなく、強いまなざしで少年たちを見上げていた。睨むともまた違う、相手に何かを言い聞かせるような、静かな怒りの込められた瞳だ。宝石のように繊細な藤色の瞳からは考えられないほど、鮮烈なまなざしだった。
綺麗だ、と思う。
同時に、この侵しがたい神聖な空気を纏った少女に、ひどく醜くふつふつとした黒い感情が湧き上がるのを感じた。
これは、ここにいてはいけないものだ。暗く翳った人間にとって、彼女は毒でしかない。跡形もなく壊して、瞳から光を消さなければ安心できないような、そんな衝動に駆られる。
僕と似たような感情を、彼らも感じたのだろう。何か妄執に取り憑かれたかのように、少年たちの瞳が翳るのがわかった。
「お前……こっちに来い」
「そしたら、このひとをもう叩きませんか?」
「ああ」
少女はふらり、と少年たちについて行こうとする。だがその後ろ姿を、気づけば腕を掴んで引き止めていた。
「……孤児院の子じゃない。手を出したら、罰を免れないぞ」
少女の肩越しに、少年たちを睨みつける。こうでも言わなければ、彼らは少女から手を引かないだろう。
「……ちっ。いくぞお前ら」
最年長の少年の言葉を機に、少年たちが遠ざかっていく。
その姿を見て初めて、ほっと息がつけた。このまま彼らに連れて行かれていたら、下手すれば少女の命はなかったかもしれない。
彼女にとっては僕だって奴らと似たような輩なのだろうが、この体では彼女をどうこうすることはできない。黒い感情を心の奥底に沈め込みながら、少女に語りかけた。
「親のもとへ戻って、すぐに体を拭いてもらうんだ。ここで見たことは忘れて――」
その瞬間、少女は僕にしがみついたかと思うと、わんわん泣き始めた。今になって水の冷たさが堪えたのだろうか。少女らしくない瞳で彼らを睨んでいたかと思えば、年相応に泣き始めるなんて、厄介な子だ。
「……寒いのか? 悪いけど、ここには何も――」
「血が……」
「え?」
「血が、いっぱい出てます。痛いでしょ……?」
少女は両目に涙をいっぱい溜めて、こちらを見上げてきた。大きな瞳から、藤色が溶け出してしまいそうだ。
「たくさん叩かれて……ひどいです。ひとはひとを叩いちゃだめなのに……」
どく、と久しぶりに心臓が跳ねるのを感じた。
……寒くて泣いてるわけじゃないのか?
まさか、僕の傷を見て、僕の痛みを思いやって泣いているのだろうか。子ども離れした慈愛の深さに、寒気にも似たものを覚える。
少女は傷だらけの僕の口もとに、そっと手を伸ばした。血や泥でぐちゃぐちゃに汚れているというのに、すこしも厭う様子を見せない。
「……女神ネージュさま、この方のいたみを、きよらかな雪の中に溶かしてください」
それは、親しい者の間でよく行われる、痛みをなくすおまじないだった。かつては母もよくやってくれたものだが、今となっては忌み嫌っている女神に、僕の傷が治るよう祈られるなんて思ってもみなかったことだ。
……なんで、こんな僕に。
白銀の髪を持つ彼女は、雪の妖精のように清らかだった。魔物と罵られる僕とは、まるで正反対の存在だ。触れられるだけで、その輝きに焼き溶かされてしまいそうな気がする。
「血で汚れるから……触ったら駄目だ」
そっと、少女の手を自分の顔から引き離す。久しぶりに触れる、温かくて柔らかなものだった。僕と違ってきれいで、細やかで、なんだかこのまま握り潰したくなる。
「傷つけられて流れた血は、汚くないです。あなたが、一生けんめい生きているあかしです」
まるで神官のようなことを言う少女だ。だがそれが妙に似合っている。神殿育ちとか、いっそ天使の子だとでも言われた方が納得がいく。
それくらい、彼女の神聖さは異質だった。不気味に思うほどに。
「エマ!」
少女の清廉な空気に圧倒されていると、息を切らした一組の男女がこちらへ駆け寄ってきた。身なりからして、貴族だろう。彼らは少女のもとへ駆け寄るなり、小さな体をきつく抱きしめた。
「どうしてこんなに濡れているの? かわいそうに、すぐに着替えましょうね」
母親らしき女性が、少女の濡れた髪を指で梳かす。男性は早速外套を脱いで、少女に巻き付けていた。
「男の子たちが……このひとを殴って水をかけていたんです。……許せない」
少女は、少年たちと対峙していたときのような静かな怒りを露わにした。
……なんて、気高い子なんだろう。
人のために正しく怒れる彼女が、どうしようもなく綺麗に見えて仕方がなかった。
それと同時に、どうあっても僕とは交わらないものだと思い知る。彼女のそばは清らかすぎて、息もできなさそうだ。
「……僕のせいです。僕を、庇おうとしてその子は水をかけられました」
足を引き摺りながら、なんとか膝をつく。この状況からして、少女の父親に殴り飛ばされてもおかしくないし、それを受け入れる覚悟はできているつもりだ。すくなくとも、あいつらの理不尽な暴力よりはよほど納得がいく。
「申し訳ありません。……罰は、いかようにでも」
「待って! 父さま、母さま。ちがうのです。男の子たちが、このひとのこと魔物だって悪口を言って……それで、たくさん叩いたり、水をかけたりしていたから、私が我慢できなくて飛び出しただけなんです。このひとは、何もわるくないの……」
しゅんとしたように、少女は肩を落としていた。両親を前にして、再び泣き出しそうだ。
少女の両親の視線が、僕に移る。貴族からしてみれば到底見られない姿になっていることだろう。
それなのに、少女の父親ははっとしたように僕の肩に手を伸ばした。
「君は……君が、もしかしてクリスの……ラーク子爵家のご子息か」
父と同じ髪と瞳の色を見てぴんときたのだろうか。貴族であれば知っていてもおかしくはない。
おずおずと頷けば、ふいに、男性は僕を抱きしめた。父を思い出す抱擁だ。
「よかった……! 生きていてくれたのだな。私たちは、君を探していたんだ。君の父上と私は兄弟同然の仲でね……何かあったときは君のことを頼むとクリスに言われていたんだ。見つかってよかった……」
そういえば、父から聞いたことがある。王都で立派に公爵家の当主を務めている親友の話を。父は王都に行くたびそのひとと必ず顔を合わせるほど仲が良く、僕にもそのうち会わせてくれると言っていた。
「こんなにぼろぼろになって……かわいそうに。しかも、魔物ですって? ひどい蔑称だわ」
夫人は眉を顰めて公爵を見た。僕が不快というよりは、この孤児院に対しての不信感を露わにしているような口ぶりだ。
「ああ……こんなところには置いておけない。おいで、アシェルくん。まずはいい医者にかかろう。話はそれからだ」
公爵に、ひょい、と抱き上げられる。公爵の瞳の色は、少女とよく似た藤色だった。
「……どうして、僕の名を」
「クリスが手紙で毎回君の話をしていたからな。そのせいか、初めて会った気がしない」
公爵は小さく笑って、僕を見た。瞬間、藤色の瞳が寂しげに揺れる。僕を通して、別の誰かを――父の面影を見たのかもしれない。
「クリスとよく似た目だ。……つらい思いをしただろう。もう大丈夫だ」
「……っ」
あの事故にあってから、そんなふうに大人に労られたのは初めてだった。なんだか、胸がつまる。
「母さま、このひとが、アシェルお兄さまなのですか?」
公爵の外套をずるずると引き摺りながら、少女が夫人に問う。
「そうよ。エマが見つけてくれたのね。ありがとう」
「お屋敷に帰ったら、いっしょにあそべますか?」
「それはもうすこししてからね。彼には治療が必要だから」
公爵夫人の口ぶりといい公爵が彼女を見るまなざしといい、少女がいかに愛されているかがわかる。あの不気味なほどの清廉さも、気高さも、ふたりの愛情の賜物なのだろうか。
……でもきっと、僕はこの子とは仲良くできない。
それは、ほとんど確信に近かった。公爵夫妻とはうまく関係を築けるかもしれないが、彼女は異質すぎる。人とは思えないほどの清廉さを前に、僕のような翳った人間が近寄れるはずもなかった。
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