幕間 魔の者の追憶

第1話 冬の孤児院

 つめたい、さむい、いきがくるしい。


 真っ白な闇の中を、もがくように突き進む。終わりも始まりもない、方角という概念すらない虚の中で、悶え苦しむことしかできない。


「ちちうえ……ははうえ……! おばあさま……!」


 声の限りで叫びながら、ぺたぺたと影の中をさまよう。あたりは氷の中に閉じ込められたかのように冷え込んで、恐ろしいほどの静寂を保っていた。


「リナおばさま、ヴァンおじさま……アレク……どこ? どこにいったの?」


 僕らは山奥の屋敷に集まって、年一回の親族の集まりを楽しんでいたはずなのに。従弟のアレクと屋敷じゅうを走り回って、遊び疲れてぐっすり眠っていたはずなのに。


 ここは眠ることも休むこともできないほどに寒い。今にも凍えてしまいそうだ。がたがたと震える体を抱きしめるように、その場に屈みこむ。


 ああ、でもそうだ、ここで凍えてしまえばもう、これ以上苦しまずに済むだろうか。血の最後の一滴まで凍りついてしまえば、みんなと同じ場所へいけるのだろうか。


 そっと、自らの首に手を掛ける。ぐ、と力を込めて、指先を首筋に食い込ませた。雪が大きく崩れていくような耳鳴りがして、涙がこぼれる。


 はやく、いなくなりたい。このまま死んでしまいたい。

 

 でもこの暗闇がそれを叶えてくれないことを、僕はもう、頭のどこかで理解していた。


 ◇


 は、と息を切らして目を覚ます。染みとひびだらけの白い天井が、視界いっぱいに広がった。


 遠くでは、何やら礼拝堂の鐘の音と、僕より先に起きていた子どもたちの声が聞こえてくる。


 硬い寝台の上で上体を起こし、穴だらけのぼろ毛布を足の上で畳んだ。すでにカーテンの開けられた窓の外には、しんしんと雪が降りしきっている。


 ここはラーク子爵領――父上が治めていた領地の最北端にある孤児院だ。小さな町の礼拝堂に併設しており、十数名の子どもたちがここで貧しい暮らしをしている。礼拝堂に勤める女性神官たちはよくも悪くも厳格で、厳しい冬を迎えた外の気温以上に、どこか冷ややかな空気が孤児院には張り詰めていた。


 ……今日も、悪い夢を見た。


 うまく動かない足を無理やり寝台の縁へおろして、深く息をつく。家族を亡くしてこの孤児院に引き取られてからというもの、毎日のように悪夢に悩まされていた。


 ……ひと月前までの自分の暮らしが嘘みたいだ。


 王国北部に位置するラーク子爵領の領主の家に生まれ、九歳になるまで何不自由ない暮らしを送ってきた。優しい両親と、なんでも知っている祖母。年にいちど必ず顔を合わせる従弟の家族。誰のことも好きだったし、尊敬していた。


 だが、ひと月前、ラーク子爵領で起きた雪崩によって、平穏な生活は終わりを告げる。


 その日は運悪く、一族が屋敷に集合する年にいちどの顔合わせの日だった。会合自体は至って平穏に終わり、賑やかな夕食を楽しみ、皆眠るまでのひとときを各々好きに過ごしていた時間に、雪崩が襲ったのだ。


 僕は就寝前の挨拶をするべく母のもとを訪れた際に、雪崩に巻き込まれた。どれだけの間寒さと息苦しさに耐えていたかわからないが、まもなく僕は母と共に助け出されたらしい。


 父と祖母、他の親族たち、使用人たちが見つかったのは、雪崩から三日も経ってからだった。冷え切った彼らの体にすでに命の灯火はなく、せっかく助かった母も、彼らに付き添うように雪崩から三日目の夜に帰らぬひととなった。母は、僕を庇ったせいで背中に致命傷を負ったのだと、あとになって聞かされた。


 九歳にして僕は、天涯孤独の身となってしまった。雪崩に巻き込まれた影響で足もうまく動かせず、気づけば領地の北部にある孤児院で面倒を見てもらう運びとなっていた。


 孤児院での生活は、残念ながら幸福とは言いがたい日々だ。足がうまく動かないせいで他の子供たちと馴染めないのも一因だが、それ以上に――。


「――あ! 魔物が起きたぞ!」


 同年代の少年たちが、僕を見るなりけらけらと指を差して笑っていた。ひどく、悪意のある笑い方だ。


 雪の女神ネージュの加護を受けたこの王国では、女神の祝福の象徴たる雪で命を落とすのは、ひどく不名誉なことらしい。神殿の古い教えによれば「雪の事故で命を落とす者は罪人の生まれ変わりであり、女神の祝福にあやかれぬ魔の者である証」なのだそうだ。


 あの雪崩で命を落とした僕の家族や使用人はみんな、罪人の生まれ変わりで、魔の者で、生き残った僕もまた、祝福を受けられない魔物なのだそうだ。夜闇のように不吉な黒髪も手伝って、この孤児院で僕はすっかり化けもの扱いされていた。


 あれこれと面白おかしく罵りの言葉を発する子どもたちを、じっと眺める。目が合うなり、彼らはげらげらと笑いながら「魔物が怒った! 逃げろー!」と駆けていってしまった。


 ここにくるまで、化けもの扱いはおろか、悪意のある笑みをむけられたことなどいちどたりとももなかった。初めは涙が出るほどに悲しい思いをしたものだが、今はどうということはない。心が、麻痺し始めている証だった。


 子どもたちと入れ替わるように、白い神官服を纏った中年の女性が入室してくる。彼女は溜息混じりに、手短に朝の挨拶をした。


「ずいぶん遅いお目覚めだこと。……起きて早々、あの子たちを刺激しないでちょうだい。これ以上の不幸を避けたいのなら、人に優しくして、その罪深い身を悔い改めることです。いいですね」


「はい、神官さま」


 ……女神も神殿も、消えてなくなればいいのに。


 口で告げた返事とは裏腹に、心の中で呪いの言葉を吐く。何が悲しくて、大切な家族の命を奪った雪をありがたがって、雪の女神を崇めなければならないのだ。女神を呪いこそすれ、祈る気持ちなど毛頭なかった。


 ネージュ教が崩壊すれば、自分を庇護してくれているこの孤児院もなくなることはよくわかっていたが、それでもいいから誰か、この馬鹿げた宗教をぶち壊してほしい。


 ……早く、終わりたいな。


 事故で負傷した足を引きずって、今日の仕事に取り掛かる。孤児院とはいえ、神官に指示された役目をこなさなければ食事は与えられない。大抵は礼拝堂の掃除を命じられることがほとんどだ。


 足がうまく動かない僕は、他の子供たちよりも早くに仕事に取り掛かって、遅くまで努めなければ一日の役目を終えられない。だが、悪夢に悩まされているせいでどうしても朝早くに目覚めることができないのだ。


 務めを果たせず、食事を与えられない日なんてざらにあった。いっそ餓死するまで動かずにいれば、より早くこの生を終わらせられると思うが、母が自分の命と引き換えに助けたこの命を、自分からおしまいにすることはどうしてもできなかった。


 空腹に耐え、寒さに耐え、足の痛みに耐え、生きる意味もなく命を繋ぐことが贖罪になるのなら、淡々とこの日々をこなすだけだ。優しかった母がそれを望んで僕の命を助けたとも思えないが、今の僕にはその選択肢しかない。


 足を引き摺りながら冷たい水を汲んで、指定された区画まで行き、ぼろ布で礼拝堂の床と窓を磨く。今日は勝手口に近い場所を割り当てられてしまったから、ひどく寒そうだ。


 ぼろ布を水に浸して、絞る過程であかぎれだらけの指がずきずきと痛んだ。栄養不足で割れた爪の先は泥で黒ずんでいて、余計に惨めな気持ちになる。


 ひと月前までは、聖典の一節を書きつけて「アシェルは字がうまいな」と父に褒められていたものだっけ。一滴でもインクがつくたびに、侍女のジェーンが慌てて柔らかい布で拭おうとして、僕はそれをくすぐったがって彼女をよく困らせていたものだ。


「……っ」


 二度と戻らない他愛もない日々が、どうしようもなく恋しかった。今の僕には、それしか縋るものがない。けれど、思い出すたびに、己の現実との落差を見せつけられて、心がまた赤い血を噴き出す。追憶はもはや、一種の自傷行為でしかなかった。


 ……何も考えるな。


 心を殺して、過去も未来も見ないように目を閉じて、這いつくばって目の前の床を磨くのだ。動かない足をずるずると引き摺りながら、ひび割れたタイルにそって必死に布を擦り続けた。

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