第7話 夜を纏う魔の者

 かたかたと揺れる馬車の中から、橙色のあかりが灯る街並みを眺める。かなり夜も更けたせいか、出歩くひとの姿はほとんど見かけなかった。


 オーレリアさまとセオさまは「このまま泊まっていけばいい」と誘ってくれたが、お兄さまがやんわりと断り、こうして馬車に乗り込んだ次第だった。幸い、パーセル邸から宿までそれほど遠くない。あのままパーセル家のお世話になるよりは、宿に帰ったほうが私としても気持ちが楽だ。


「お魚料理、とてもおいしかったですわね、お兄さま」


 いつものように、他愛もない話を始める。向かい側に座ったお兄さまは窓の外をご覧になっていたようで、どこかぼんやりとした返事をした。


「ああ……そうだね」


 ふたりきりになってからというもの、なんだかお兄さまがそっけない。オーレリアさまと一緒にいる時には楽しげに談笑なさっていたのに、どうしたのだろう。


 ……お疲れになっているのかしら。


 思えばお兄さまは、朝からセオさまとお仕事のお話をされていたのだ。その後に婚約者候補であるオーレリアさまを交えた四人で食事をするとなれば、疲労も溜まっているだろう。


 ……私の隣に座ってくださらないのも、そのせい?


 いつもであれば当然のように私の隣を陣取るのに、今日は向かいに座ってしまった。義兄妹としてはむしろこのくらいの距離が適切とも言えるだろうが、普段の距離の近さに慣れてしまっているせいか、寂しく思えてならない。


 あるいはもうすでに、オーレリアさまに配慮して私と距離を取るような局面に入っているのだろうか。


 セオさまとともに中庭をお散歩してから屋敷の中へ戻る際、最上階のバルコニーで仲良く寄り添いあっていたお兄さまとオーレリアさまの姿が蘇る。ふたりきりで話をして、何か進展があったのかもしれない。


 ふたりが決定的な約束をする前に、どうにかこの想いを伝えなければ。どうしても、そんな焦る気持ちが沸き起こる。同時に、自分のためでしかないその行動が、お兄さまやオーレリアさまにどれだけ迷惑をかけるかと思うと身がすくむのも確かだった。今朝までは、どうにかお兄さまに告白しようと意気込んでいたはずなのに。


 前にも後ろにも進めないような閉塞感に押し潰されそうだ。軽く俯いて気持ちの整理をしようとしたそのとき、はらり、と髪からひとひらの薔薇の花びらが落ちてきた。気づいていなかったが、まだついていたらしい。


 落ちてきた薔薇の花びらは、オーレリアさまやセオさまの髪色を思わせる淡い黄色の花びらだった。先ほどセオさまが花びらをとってくれたときのことを思い出して、思わず、ふ、と口もとが緩む。


 ……私に想いを伝えて、まっすぐにお返事を聞いてくれたセオさまを、見習わないとね。


 お守りのように、きゅ、と花びらを握りしめる。同時に、馬車が宿の前で泊まった。


「着きましたわね。お兄さまもお疲れのご様子ですから、今夜は早めに休んで――」


 表情だけはいつも通りを演じようと微笑みを浮かべるも、すぐに打ち砕かれた。それもこれも、お兄さまが睨むような鋭いまなざしで私を見ていたからだ。そういえば、夕方合流したときもそんな目で私を見ていた。


 ……お兄さま?


 やはり何か、お兄さまを怒らせるようなことをしてしまっただろうか。緊張感すら覚えるような張り詰めた空気に息を呑んだ。


 御者が、馬車の外から扉を開ける。それを機に、お兄さまははっとしたように私から視線を逸らすと、先に降りていつものように私に手を差し出した。


「ほら……おいで、エマ」


「……ありがとう、お兄さま」


 ぎこちなく微笑んで、お兄さまの手を取る。いつもであればそのまま絡め取られてしまう手は、私が降りるのを確認するなりあっさりと離れてしまった。


 お兄さまの影を追うように、最上階までの階段を上る。普段は心地よくすら思う沈黙が、重苦しくて仕方がない。ただでさえお兄さまとオーレリアさまのことを考えて焦燥感と罪悪感に駆られていた心の中が、余計にぐちゃぐちゃに乱されていくようだった。


 部屋に着くなり、リリアが礼をして私たちを出迎えてくれた。だが、彼女に挨拶をする余裕もなく、お兄さまの後ろ姿に話しかけてしまう。


「お兄さま……私、何かお気に障ることをしてしまいましたか」


 ぴりついた空気感を感じ取ったのか、リリアは不安げに私を一瞥したのちに、心得たように私の私室へ下がっていった。お兄さまとふたりで話をさせてくれるつもりなのだろう。

 

「いや……ごめん、すこし疲れているだけなんだ。気遣わせてしまったかな」


 人好きのする笑みを浮かべながら、柔らかな言葉を紡ぐ。一見すれば優しいお兄さまの姿だが、ぞわり、と肌が粟立った。


 違う、お兄さまはふたりきりのときにそんなふうに笑わない。彼は明らかに、私との間に壁を作ろうとしていた。


 ……駄目、まだ駄目なの。伝えなくちゃいけないことがあるから。


「お兄さま、私――」


 焦りを露わにしてお兄さまのもとへ駆け寄ろうとしたそのとき、居室に敷き詰められた柔らかな絨毯に足をとられ、一気に体が傾いた。


「っ――!」


 右足の靴が脱げると同時に、すかさずお兄さまに抱きとめられた。背中に流した銀の髪がふわりと舞う。


「ごめんなさい、お兄さま……」


 抱きとめられた腕の中で、なんとか姿勢を正そうとするも、踵の高い靴が片方脱げてしまったせいで上手く立つことすらできなかった。彼に体重を預けるようにして、寄りかかることしかできない。


「嫌な匂いだ……」


「え……?」


 暗く翳りきった声で、彼はぽつりと呟いた。聞き間違いかと思ったが、次の瞬間には肩に流れた銀の髪を乱雑に握り締められた。


「薔薇と……あいつの香水の匂いがする。どれだけ近づくことを許したの、エマ。さっきだって、髪にくちづけさせて、あんな暗がりでふたりきりになるなんて。……靴だって、君は足を怪我したばかりだから踵の低いものを選ぶべきなのに、あいつは何もわかっていない」


 いつもとはまるで違う、ぞっとするほど抑揚のない声に驚きを隠せない。それは、公爵邸にきたころのお兄さまを彷彿とさせた。


 女神も雪も、幸福に生きるなにもかもを恨み呪っていた、あのころのお兄さまを。


「お兄さま……?」


 私の声に、お兄さまははっとしたように腕の中の私を見つめた。そうして、ぎこちなく優しげな笑みを取り繕う。


「ああ……ごめん、何を言っているんだろうね。ちょっと、気が立ってたみたいだ」


 いつも見ているお兄さまの微笑みに限りなく近いはずなのに、その笑みには明確な揺らぎがあった。「優しいお兄さま」の像がだんだんと曖昧になっていく。


「お兄さま……不注意ばかりでごめんなさい。でも、セオさまは何も悪くありません。靴とドレスを用意してくれたのも好意からですし……そもそも海辺で服を濡らしてしまった私が悪いのですもの。公爵家の令嬢として自覚が足りませんでしたわ」


「あいつを庇うんだね」


 間髪入れずに返ってきた言葉に、心臓を握られたような寒気を覚えた。大好きなお兄さまを相手にしているのにどうしてだろう。どことなく不安定な雰囲気を帯びているせいか、今だけは彼が怖くて仕方がなかった。


 お兄さまもご自分の変化に戸惑われているような様子を見せていたが、ふと、諦めたように小さく声をあげて笑った。自嘲気味な、決して快い感情からではないとわかる笑い方だ。


「あーあ……駄目だなあ。ちゃんと、優しい『お兄さま』でいようって決めてたのに。君の幸福のためならば、身を引けるつもりでいたのに……いざ君とあいつがふたりきりでいるところを見ると、あっという間にかき乱されて……」


 お兄さまは私の肩にもたれるように頭を預けた。片足だけ靴を履いたままの不安定な体勢のせいで、すこし重みがかかるだけでもふらりと体が揺れる。


「君の義兄として、セオのようないいやつが君を幸せにしてくれたらいいと思ったのは本当なんだけどな……。だから君を口説くのも止めなかったし、君のエスコートも譲った。実際、似合いのふたりだと思ったよ。ふたりとも眩しいくらいに祝福の中を生きるひとだから」


 私が他の人の手に渡ってもいいと思っているその発言には、やはりずきりと胸が痛んだ。義兄としてはふさわしい言葉なのかもしれないが、その言葉がお兄さまの口から紡がれているという事実に嫌気がさす。


「その言葉は……なんだか突き放されているようで、あまり好きではありません」


 お兄さまにそう言われるたび、私がどれだけ傷ついているか考えたこともないのだろう。想いを伝えていない以上それは仕方ないとわかっているのに、もどかしくてならなかった。


「どうして? 僕から離れたほうが絶対に君は幸せになれるよ」


 くすくすと笑いながら、言葉とは裏腹に彼は私の体を引き寄せた。その矛盾した行動に、鼓動ばかりが早まっていく。怖いのか、お兄さまに触れられてときめいているのか、それすらわからない。


「それこそ、なぜそんなことを仰るのです? 私は……お兄さまといる時間がいちばん幸せです」


 愛の告白めいた言葉を、彼は一笑に付した。


「ありがとう、エマ。でもこれ以上一緒にいたら、おそらく僕は今のままでは我慢できなくなるよ」


 お兄さまは怖いくらい端正な笑みを浮かべながら、私をソファーに押し倒した。開け放たれた窓から差し込む月影が、彼の夜闇のような黒髪を銀に染める。


「君はそこにいるだけで人の心を惹きつけて、崇拝されたり愛されたりしてしまうから、本当なら、誰の目にも触れない場所にしまいこみたい。女神からも祈りからも切り離して、君の心を占めるものが僕だけになればいいのにと思う」


 堰を切ったように、私の知らないお兄さまの言葉が溢れ出す。


「君のことは大好きだけど、そうだなあ……いちどこれ以上はないというくらいまでの不幸を味わって、心を壊して、僕だけが君を赦して、僕だけが、君の生きる意味になれたらいいのにね。僕にとっての君のような唯一無二絶対の存在に、僕もなりたいな。君の発する言葉が僕の名前だけになって、ぐちゃぐちゃに壊れてほしい。そんな君も絶対にかわいいだろうなあ……」


 慈しむように、彼の手が私の頬を撫でる。ひやりとした感触に、この手からはもう二度と逃れられないような錯覚を覚えた。


「壊れて、僕以外のすべてを恨んで憎んで、そうして僕と同じ場所まで堕ちてくれたら……ようやく君は、僕が君に向ける気持ちと同じくらいの愛を、返してくれるようになるはずだよね?」

 

 それは、もはや恋情とも親愛とも呼べない、とてつもなく歪んだ愛だった。いっそ憎悪や殺意に至るほどの強く攻撃的な感情なのに、根底に確かに愛があるせいで、黒く翳る激情に甘い熱を生み出している。


 彼に向けられた想いに圧倒されて、言葉が見つからなかった。震えるようにただ彼を見上げる私の頬を、冷たい指が掠める。


「怯えているエマもかわいいなあ……。笑っているエマはもちろん好きだけど、悲しんだり、怖がったりしている君を見るとすごく安心するんだ。君が翳ったぶんだけ、僕との距離が近くなるようで」


 恍惚を覚えたように、彼は甘やかに微笑んで、指を絡めながら私の手を握った。いつもは胸が締め付けられるようなときめきが生まれるふれあいなのに、今は冷たい鎖が巻き付けられているように錯覚してしまってならない。いつしか肩が震え出していた。


 お兄さまは一瞬だけその震えを冷めた目で見下ろすと、張り付いたような笑みを浮かべた。


「……ね、僕とこれ以上一緒にいると幸せになれそうにないだろう? だから……逃げるなら今のうちだ。セオはたぶん、君にとっての救世主だよ。君を真っ当な愛情で幸せにしてくれるのは彼のようなひとだ。……僕だって、できれば君を傷つけたくない」


 口もとに微笑みは浮かべたまま、痛みを堪えるように眉を潜めて、彼は私から離れようとした。


 するりと、絡まった指が解かれていく。それが寂しくて、咄嗟に手を握り直してしまった。このまま離れると、二度と彼と触れあえなくなるように思えてならない。


「それでも……私はお兄さまのおそばにいたい。傷つけられたとしても……ずっと一緒がいいんです」


 涙声で縋り付けば、昏い新緑の瞳に歪んだ熱が宿った。


 その瞳の鋭さに圧倒されるや否や、ふっと顔に影がかかる。


「……っ!」


 気づけば私は、お兄さまにくちづけられていた。それも御伽噺で読んだような可愛らしいくちづけではない。このまま喰らい尽くされるのではないかと怖くなるほどに深く、激しいくちづけだ。


「……ん」


 上手く息ができない。呼吸ができない苦しさと、遠慮なく触れあう舌の艶かしさに眩暈を覚えたころ、一瞬だけ唇が離された。だが、必死に空気を求めて息を吸い込んだ私を嘲笑うように、唇に噛みつかれる。鋭い痛みと熱を覚えたが、あふれ出す血をなだめるように舐め取られ、後に残るのは苦痛よりも甘い寒気ばかりだった。


 どれほど、そうしていただろう。意識を失う寸前まで息が絶え絶えになったころ、ようやく彼は私から離れた。新鮮な空気を好きなだけ吸えるようになっても、深呼吸する余力もない。


 彼は唇についた私の血を舐めとりながら、満ち足りたように、甘く優しく笑った。


「さっきの言葉は、今のくちづけでなかったことにしてあげるから、もうそんなこと言っちゃ駄目だよ、エマ。……二度目があったら、次は離さない」


 月影を背に微笑む彼は、ぞっとするほど不吉で美しい、夜を纏う魔物のようだった。いつかルカ神官が言っていた「魔の者」という表現もあながち外れていないと思ってしまうくらいには、非現実じみている。


「だから……早く、僕から逃げて、エマ。君とセオを無理矢理引き離そうとする前に。君に……取り返しのつかないことをする前に」


 お兄さまは寂しげに微笑んで、そっと私の頭を撫でた。あまりに激しい感情と、不気味なほどの揺らぎを見せつけられ、返す言葉もない。


 そのまま音もなく、彼は私室へ立ち去っていった。


 それからしばらくの間、ソファーに押し倒された体勢のまま、彼の髪を染めていた月影を、呆然と眺めることしかできなかった。

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