第5話 ひだまりの妖精

「きゃー! エマちゃん、かわいい! こっち向いて!」


「公爵令嬢の品格には相応しくないってわかっているけど、これも着るだけ着てみない?」


 パーセル商会の看板が下がった仕立て屋に着くなり、私はオーレリアお姉さまの着せ替え人形になっていた。初めは海辺へ来て行けそうな軽装のワンピースだったのだが、彼女の要求に応えるがままに街娘の服やネグリジェなどの試着も始まってしまった。今は、透ける布地がふんだんにあしらわれた踊り子の衣装を纏っているところだ。


 ……どう考えても、この衣装は私には似合わないわ!


 背も低く、豊満な体つきとは言い難い私には、踊り子の衣装はどう考えても似合わない。少し動くだけでもひらひらと靡くストールを必死に体に巻きつけていると、いつのまにか着替えていたらしいオーレリアさまが奥の部屋から飛び出してきた。


「見て見て! 私も着てみたわ! どうかな?」


 ひまわりのような黄色の布地の踊り子の衣装を纏ったオーレリアさまは、光り輝くようだった。彼女の白金の髪とよく似合っている。


「ま、眩しいです、オーレリアさま……」


 ……こんな美しい踊り子がいたら、殿方が殺到して劇団は仕事にならなそうね。


 オーレリアさまはくるくると回りながら私の前まで寄ってきた。露出度の高い衣装だが、彼女のすらりと長い手足がよく映える。


「まあ! エマちゃんもとっても可愛いわ。セオが好きそう!」


「そうですか……?」


 貧相な体を晒しているだけだと思うのだが、オーレリアさまが言うのならそうなのだろう。試着を手伝ってくれた女性店員たちも口々に褒めてくれる。


「夕方になったらセオとアシェルがこの店を視察に来るみたいなのだけれど、それまでその格好でいる?」


 とんでもない提案に、慌てて首を横に振る。とてもじゃないが、知り合いの男性に見てもらうには気恥ずかしい姿だ。


「そう? じゃあ最初に着た藤色のワンピースにする?」


「ええ……とてもすてきでしたから」


 海辺にふさわしい薄手のワンピースは私も気に入っていた。裾の部分に細やかな雪の結晶が刺繍されており、エルティアらしい意匠だとも言える。


「ね、そのまえにひとつだけお願いがあるの……」


「なんでしょうか?」


 オーレリアさまにしては珍しく、どこかもじもじとした様子だ。それほど言いづらいことなのだろうか。


「これ、舞台衣装を作るときに一緒に作った聖女の衣装なんだけれど……」


 オーレリアさまの言葉を察したように、女性店員が一着の純白の衣装を取り出してくる。それは、初代聖女の装束を模したドレスだった。


「どうしても、エマちゃんが聖女の装束を纏った姿を見てみたくて! お願い!」


 差し出された衣装にそっと触れてみる。柔らかな白い布地に銀糸で刺繍が施されたそれは、聖女候補の衣装にもよく似ていた。


「も、もし嫌なことを思い出してしまうようならいいの……! これは単に私のわがままだから」


 オーレリアさまはしゅんとしたように肩を落としながら付け加えた。聖女選定に敗れた私のことを、気遣ってくれているのだろう。


 聖女選定の儀直後の私なら断っていたかもしれないが、今は不思議とそこまで抵抗感がない。この服を着て外に出るわけにはいかないが、オーレリアさまに見せるくらいならいいだろう。


「わかりました。着替えて参りますね」


 オーレリアさまから衣装を受け取り、何人かの女性店員とともに部屋の奥へ移動する。柔らかな布地で仕立てられた純白のドレスを纏い、腰や胸もとに淡雪の大樹の葉を模した装飾品を身につければ大方完成だ。本物の衣装よりは簡易的に作られているようで、それほど時間をかけずに身に着けることができた。


 てっきり袖を通せば懐かしさを覚えるかと思っていたが、落ち着かないような気持ちがまさっていた。私にとって聖女という地位自体、ずいぶん遠いものになっているらしい。


 すっと裾を捌きながら、再びオーレリアさまの前に姿を現す。オーレリアさまは私を一目見るなり、祈るように指を組んで恍惚の表情を浮かべた。


「思った通り、なんてすてきなの……! まるであなたのために誂えられたみたい!」


「そんなに褒められると恥ずかしいです、オーレリアさま」


 頬にかかる銀髪を耳にかけながら、視線を彷徨わせた。彼女は遠慮なく私に近づくと、四方から私の姿を眺めた。


「私ね、実はエルティアの服飾職人として聖女さまの衣装を仕立てるお役目を仰せつかっているの。てっきり、あなたの衣装を作ることになるものだと思っていたのだけれど……女神さまも気まぐれよね」


 聖女の衣装を仕立てることができるなんて、一生ものの名誉だ。オーレリアさまは若くして国に認められた優秀な職人でもあるらしい。


「だからね、代わりと言ってはなんだけれど、私が作ったこの初代聖女の衣装をあなたに着てほしかったの。嬉しいわ……なんだか、あなたに着てもらったことでこの衣装が特別なものになったみたい」


 オーレリアさまはそっと私の肩を撫でた。長年顔を合わせていなくても、従妹である私のことをずっと気遣ってくれていたらしい。


「ありがとうございます、オーレリアさま。私も……オーレリアさまが作ってくださった衣装に袖を通すことができてよかったです。いい思い出になりました」


 お揃いの藤色の瞳がはたと合う。それを機に、どちらからともなくくすくすと笑い出した。


 ……正式な場ではなくても、彼女の想いが詰まった衣装を纏うことができてよかった。


 柔らかな布地を慈しむように撫でるだけで、胸がいっぱいになった。


「ちょっとこちらで休憩しましょうよ。バルコニーから海が見えるわ」


 オーレリアさまに手を引かれ、潮風が吹き込むバルコニーへ移動する。いつのまにかかなり日は傾いていた。白塗りの建物たちの奥に、碧い海が見える。傾き始めた日差しを受けて、水面が銀色に光っていた。


「きれい……」


「そうよね、私もこの景色が好き」


 風が、オーレリアさまの白金の髪と踊り子の衣装を揺らす。こうして陽光の下で見ると、彼女は妖精のようだった。


「……聖女の座には、もう何の未練もない?」


 オーレリアさまは、まるで独り言のようにぽつりとつぶやいた。


 難しい問いだ。迷うように静かに微笑む。


「そうですね……ほとんどないと言ってもいいのですが――」


 聖女になったらひとつだけ、やり遂げたかったことがあった。誰かに話すのは初めてだが、オーレリアさまにならいいだろう。


「――もし、私が聖女になれたら……『雪にまつわる事故で命を落とすのは、罪人の生まれ変わりの証』だなんて馬鹿げた古い教えを、なくしたかった。それだけは、悔やまれます」


 今思えば、その願いがあったからこそ、厳しい聖女教育に耐えていられたのかもしれない。聖女に選ばれなかった今、その教えを私がなくすことは難しいが、神殿に嘆願書を送り、イザベラさまが私に同調してくださればまだ望みはあるだろう。彼女が聖女として落ち着いたら、嘆願書を書いてみようと決めていた。


「アシェルのためね」


 オーレリアさまも、当然お兄さまが公爵家に来た経緯を知っている。今の話で、お兄さまが家族を亡くした事故に思い至るのは自然な流れだった。


 微笑んだまま、いちどだけこくりと頷く。賑やかな人の声の間に、遠くの波の音が入りまじっていた。


 オーレリアさまは大きく息をついたかと思うと、バルコニーの柵にもたれかかり頬杖をついて笑った。


「あなたたちは、私が思っている以上に強い絆で結ばれているみたいね」


 陽光がこぼれるように、オーレリアさまの白金の髪が流れる。流れる光の隙間から、彼女の藤色の瞳が私を捉えていた。


「実はね、私とアシェルの婚約はほとんど決定事項みたいなものなのよ。あなたが聖女候補に選ばれた段階で、公爵家にいちばん近い血縁の娘は私だけだったもの。両家にとっても、利益を生む縁談だしね」


「……っ」


 覚悟していたこととはいえ、冷たい氷で胸を貫かれたような気持ちだった。身体中の血が、すっと足もとへ落ちていく。


「アシェルも、たぶん納得してくれていたと思う。あなたが晴れて聖女に選ばれて、殿下との婚約が正式に決まったら、私たちも――という話になっていたのだけれど、あなたが聖女に選ばれなかったから、私たちの婚約も曖昧になってしまった」


 知らなかった。そんな話は、両親もお兄さまもいちどもしたことがなかったのに。


 先ほどから、心臓がばくばくとうるさい。耳の奥で鳴り響いて、頭が痛くなりそうだ。


「オーレリアさまは……お兄さまとの縁談を受け入れているのですか?」


 聞くまでもない問いだとわかっているのに、言わずにはいられなかった。オーレリアさまは、迷いもせずにいちどだけ頷いて見せた。


「ええ。アシェルのことは嫌いではないし、何より家のためになる縁談だもの。……私は、アシェルの妻になる覚悟はできているつもりよ」


 オーレリアさまはすっと私に向き合うと、私の両手をとった。踊り子の衣装から伸びる長く白い腕が綺麗だ。


「……あなたを傷つけるかもしれないとわかっていても、私からこの縁談を破棄することはないわ。それだけは、伝えておきたくて」


 言葉通り、彼女はとっくに覚悟を決めているようだった。凛と佇む彼女はやはり、美しい。公爵夫人となるにふさわしい、聡明で立派な淑女だ。


 彼女には、私がお兄さまに抱いている思いもお見通しなのだろう。それをわかった上で、私をなるべく傷つけないようにわざわざこんな話をしてくれたのだ。その憎らしいほどの気遣いに、先ほど受けた心の傷が、じくじくと膿むような気がした。


「私の言っている意味、伝わったかしら……?」


 彼女はまっすぐに私と向き合ってくれているというのに、なんだかうまく彼女の顔を見ることができなかった。視線を伏せたままに、こくりと頷く。海辺の爽やかな空気とは裏腹に、心は重く深く沈んでいくばかりだ。


「オーレリアさま、セオさまとアスター公爵家のアシェルさまがお越しです。お通ししてよろしいでしょうか」


 影のように控えていたオーレリアさまの侍女が、バルコニーにわずかに顔を出して問いかける。気づけば陽光はすっかり橙色を帯びていた。空の高いところでは昼と夜が溶け合うような紫色がにじんでいる。


「エマちゃん、ふたりが来たみたいよ!」


 場の空気を仕切り直すようにオーレリアさまは明るく笑って、私を室内へ誘導した。薄暗くなった客間には、いつのまにかティーカップが四つ用意されている。


 オーレリアさまは、踊るように軽やかな足取りで客間の扉までふたりを出迎えに行った。扉が開くなり、セオさまがぎょっとしたような顔をする。


「オーレリア、ずいぶん涼しげな格好だな……」


 思えば、オーレリアさまは踊り子の衣装のままだ。だが彼女は物怖じせずに、ひらひらとふたりの前で舞ってみせる。


「ふふ、なかなか似合うでしょう? さっきまではエマちゃんも着ていたのだけれど……」


「なに!?」


 セオさまが慌てたように室内に飛び込んでくる。ちょうどバルコニーから室内へ戻るところで、彼と目が合った。


「……っ」


 セオさまは私の姿を見て、はっとしたように息を呑むと、みるみるうちに頬を赤く染めた。聖女の装束を模したこの格好が、お気に召したのだろうか。


「女神がいる……」


 熱に浮かされたようにつぶやいたかと思うと、セオさまは私の前に跪いて手をとった。そのまま、紳士的に手の甲にくちづけを落とす。ふわり、と彼がつけている柑橘系の香水が香った。


「エマ、綺麗だ。なんて清廉なんだろう。まるで君のために用意された衣装みたいだ」


 相変わらず、直球にも程がある褒め言葉だ。こういうところはすこし、お兄さまとも似ている。


「オーレリアさまの衣装がすばらしいのですわ」


「本当に、エマちゃんを見ているだけでどんどん新作の構想が湧いてくるの。ねえ、ここに銀の刺繍を施して、布地をもう一段重ねたらいっそう華やかになると思わない?」


 オーレリアさまは私の肩に手を置きながら、セオさまにさっそく相談をもちかけていた。ふたりはこうしてお互いの事業を支えてきたのだろう。


「そうだな、淡雪の大樹の葉はこのあたりにつけてもよさそうなものだが……」


 ふたりが真剣に話し合いを始める後ろで、ふと、お兄さまと目があった。私たちとは距離をおいたところから、こちらを眺めている。


「……っ」


 お兄さまの新緑の瞳は、いつになく翳っていた。まるで、憎悪すら感じさせるような強いまなざしで私を見ている。私の何かが気に障ったのだろうか。


「そうだ、エマ。夕食はうちの屋敷でどうだ? 四人で海の見える部屋で食事しよう」


 セオさまに話しかけられ、はっと我に帰った。いつのまにか、お兄さまの瞳に囚われていたらしい。


「え、ええ、すてきですわ。ご招待いただき光栄です」


 すぐに微笑みを取り繕ったおかげで、セオさまには怪しまれずに済んだようだ。ちらりとお兄さまをもういちど見やれば、お兄さまも何事もなかったかのようにオーレリアさまと談笑している。


 ……やっぱり、お似合いのふたりだわ。


 オーレリアさまとお兄さまの婚約の話を聞いたせいか、昨日よりもふたりがなんだか親しげに見えてならなかった。急にお兄さまが遠く感じる。


 ……お兄さまも、オーレリアさまとの婚約を受け入れているということよね。


 だから、私は恋愛対象として見られなかったのだろうか。彼にとって私はやはり、義妹でしかないのだろうか。


 お兄さまに想いを伝えようと意気込んでいたのに、急に怖くなる。想いを伝えた結果、オーレリアさまに配慮してお兄さまが私と距離をとるようになったらどうしよう。


 それは婚約者のいる立場としては正しく誠実な対応だと思うのに、お兄さまが離れていくかもしれないと考えるだけでたまらなく恐ろしかった。


「その衣装をずっと着ていてほしいくらいだが、神殿関係者に見つかったらうるさそうだな。ちょうど君に似合いそうなドレスがあるんだ。着てくれるだろうか」


「……ええ、ありがとうございます」


 セオさまと手を取り合っている瞬間も、お兄さまに気を取られているというのに、セオさまは優しかった。やはり、このままこの親切を受け取り続けるわけにはいかないと思う。


 ……食事のあとにでも、ちゃんとお話ししなくちゃ。


 セオさまとは婚約できない、とお伝えしたら、セオさまも今の私と同じくらい苦しい気持ちになってしまうだろうか。私には、もったいないようなひとなのに、心がお兄さまに囚われているせいで、セオさまの恋人になるという想像すらできない自分がいっそ憎らしく思えた。

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