第4話 くちづけの痕と碧い海

 翌朝。


 朝一番に私に届いた誘いは、予想外の人物からだった。


 ――セオとアシェルのお仕事の会談が今日に変更になったのですって。よければ私と海を見に行かない? すてきな砂浜があるのよ。


 癖のある文字でしたためられたその手紙の下には「オーレリア・パーセル」の署名があった。


 ……オーレリアさまとふたりでお出かけ!


 思えば、同年代の女性と一日どこかへ出掛けて楽しむ、という時間の過ごし方はしたことがなかった。端的に言えば、私には友人がいないのだ。恋敵とも言えるオーレリアさまからの誘いだが、それはそれとして胸が躍る。


 ……きっと、大人の女性らしいひとときを過ごすに違いないわ。


 すぐさま誘いを受ける旨の手紙を従者に託し、リリアに頼んで早速支度を始める。


「海に行かれるのでしたら、祝祭のときにように髪をひとつにまとめ上げましょうか」


 鏡台の前に座った私の髪を梳かしながら、リリアははりきっていた。彼女は私が聖女候補であったときよりも生き生きしている気がする。きっと、私を飾り立てるのが楽しいのだろう。


「ええ、そうね。あの髪型はとても動きやすかったから」


 大人の女性のオーレリアさまと行くのだから、子どものようにはしゃぐことはないだろうが、動きやすいに越したことはない。リリアはさっそく銀の髪を一つの束にすると、高さを調整するようにいろいろな角度で持ち上げ始めた。


「え……お嬢さま、これ……」


「え?」


 リリアは私のうなじを見て、かあっと頬を赤らめた。彼女にしては珍しい反応だ。


「ま、まさかセオさまといい感じになったのですか……? 首筋へのくちづけを許すほどに?」


「え? いいえ? セオさまにはエスコートしていただいただけよ」


「じゃあ、これは……」


 リリアは言葉に詰まるようにわずかな間黙り込んだ。


「うーん……なんとなくわかりました。あの方、ああ見えて結構独占欲強いんですね。どういう種類の独占欲かは知りませんけど……」


 リリアは小さく溜息をついたかと思うと、せっかくまとめ上げていた私の髪を背中に流した。気が変わったのだろうか。


「ひとつにまとめるのはやめたの?」


「……うなじにつけられたくちづけの痕を晒してもいいのなら、そうしますけれど」


「え⁉︎」


 思わず、うなじを手で押さえる。今まですこしも気がつかなかった。


 ……くちづけの痕、って、そんなの……。


 そんなの、心当たりはひとつしかない。昨日お兄さまと戯れあっているときにつけられたのだろう。


 鏡の中の私が、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。昨日に引き続き自分が赤面する様を鏡越しに見てしまうなんて最悪だ。


 ……でも、どういう意図で? セオさまには、私のこと口説いてもいいって言ったのに。


 お兄さまのことだ。常識に当てはめて考えるとまた痛い目に遭うことはわかりきっているが、恋する乙女としてはあれこれと考えずにはいられなかった。どんな感情であれ、私を誰かに「とられたくない」と思ってくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。


「……私が思うに、アシェルさまのお心もだいぶ変わってきているんじゃないでしょうか」


「お兄さまの?」


 リリアはこくりと頷いて、鏡台の上に置かれたお守りを見下ろした。


「公爵邸にいるときはエマさまのこと、義妹として猫可愛がりしているのかな……と正直思っていたのですが、旅に出て、ふたりきりの時間が長くなるにつれて、アシェルさまの表情もかなり変わってきたように思います。エマさまがただ可愛いというよりは……何かもっと複雑で、強い感情があるのかな……と」


 ふと、リリアは私の肩に手を置いた。鏡越しに、ぱっと笑いかけられる。


「これって、いい変化ではありませんか? すくなくともただの義妹の枠はとっくに越えていますよ! ただの妹と思っている相手に、こんなあからさまな独占欲の証は刻みませんから!」


 きらきらと目を輝かせるリリアは、ともすれば私よりも喜んでくれているように見える。私の長い恋煩いを知っている彼女だからこそ、こんなふうに応援してくれるのだろう。


「だと、いいな」


 リリアのまっすぐな応援をどこか気恥ずかしい気持ちで受け止めながら、視線を窓の外へ移す。海にはふさわしい、雲ひとつない快晴だ。


「リリア、私ね、次にセオさまにお会いしたら、婚約はできませんってちゃんと断ろうと思っているの。つい、彼に流されてしまうけれど……」


「それがよろしいかと思います。誠実な対応です」


「ええ、それで……セオさまとのことに決着がついたら、私、お兄さまにちゃんと想いを打ち明けてみようと思うわ。今回のことで実感したの。お兄さまに意識してもらうためには、まずは私の想いを知ってもらわなくちゃね」


 恋にまっすぐなセオさまとオーレリアさまの姿に、感化された部分はあるのかもしれない。だが、半ば膠着状態のようなこの関係から抜け出すには、私が勇気を出さなければならないだろう。


「すばらしい心がけです、お嬢さま! お嬢さまの愛で、アシェルさまを自覚させて差し上げてくださいませ」


「ふふ、なんだか大袈裟な言葉ね」


 応援してくれる味方がいることが、こんなにも心強いなんて。私の幸せを何より願ってくれている彼女のためにも、この恋が実ることを祈るばかりだ。


 ◇


「見て! エマちゃん! こんなところに貝殻が!」


「これは珊瑚ね! きれい……!」


「きゃー⁉︎ 転ぶ、転んじゃうわ……! 助けてエマちゃん!」


 波打ち際で派手に転倒していく美女を眺めながら、引き攣った笑みを浮かべる。


「オーレリアさまとふたりで優雅に波打ち際を散歩できる」なんて考えていた朝の私に、この光景を見せてあげたい。


 オーレリアさまに誘われて海へたどり着くや否や、彼女は薄手のワンピース姿のまま波打ち際へ駆け出し、瞬く間に頭から爪先までびしょ濡れになった。ついには靴を投げ捨てて砂浜を走り回っている始末だ。


 ……パーセル家のご当主が見たら卒倒するのではないかしら。


 明るく活力のある方だと思ってはいたが、ここまでとは。波打ち際に転がったまま目の前の貝殻に興味を示し始めた彼女のもとへ駆け寄り、そっと抱き起こす。


「お怪我はありませんか、オーレリアさま」


「平気よ! それよりエマちゃんも海へ入ったら? 今日みたいな日は最高よ! 海に来たら思いきり遊ばなければならないんだから!」


 どこまでも碧く透き通る海は、確かに美しかった。興味をそそられないかと言われれば嘘になる。けれど、海というもの自体初めて見たせいか、未知のものに対する恐怖がまさっていた。


「で、では、足だけでも……」


「そうね! まずはそこからね!」


 白金の髪から滴り落ちる海水を振り払いながら、オーレリアさまが手をとってくれた。彼女にならい、靴を脱いで砂浜に置く。素足に伝わる熱を蓄えた白い砂の感触が、なんだかくすぐったかった。


「貝殻で足を切らないようにね? ほら、この辺だと安全だわ」


 その辺りの見極めがきちんとできているのに、どうしてこのひとは何度も転ぶのだろう。半ば呆れ気味にオーレリアさまを見上げながら、押し寄せる波にそっと爪先をつけてみた。


「わ……っ」


 撫でるように爪先に絡んだ水面は、思ったよりもひんやりとしていた。今日のように暑い日には、確かに海へ潜ったら気持ちがよさそうだ。


「その調子その調子! ほら、次はもう一歩進んでみましょう?」


「ええ……」


 恐る恐る足を進め、濡れた砂の上に素足を沈める。ざあ、という波の音とともに、足首まで水に浸かった。足を沈めた周りの砂が崩れて、気を抜くと倒れてしまいそうだ。


「気をつけて、ほら、私に掴まっていいのよ」


 オーレリアさまの言葉に甘え、ぎゅう、と彼女の長い腕にしがみつく。いい安定感だ。


「ふふ、エマちゃんったらかわいい」


 空いている方の手でぽんぽんと頭を撫でられ、はっとする。綺麗な藤色の瞳をまっすぐに目があってしまい、なんだか気恥ずかしかった。


「オーレリアさま……! からかわないでください」


「からかってないわよ? 本当のこと言っているだけ」


 にいっと唇を歪めて笑う顔は、セオさまともよく似ている。さすがは双子と言ったところだろうか。


 ……お姉さまがいたら、こんな感じかしら。


 オーレリアさまのようなお姉さまがいたら、私の日常もがらりと変わるだろう。公爵邸で日々の衣装をああだこうだいいながら選びあったり、恋の話に花を咲かせたりするのだろうか。


 想像するだけで、頬が緩むような幸せな日常だ。彼女のことは、従姉として、そして友人としてとても好きだった。


 ……でも、オーレリアさまがお兄さまと婚約してお義姉さまになるというのは駄目。


 オーレリアさまは、お兄さまのことがどれほど好きなのだろう。積極的に言い寄っている姿を見ると、相当な想いが隠されていてもおかしくはない。


「あ、エマちゃん」


「どうしました?」


「あの波来たら転びそう」


「え……?」


 オーレリアさまの言葉にはっと顔を上げたときには既に遅かった。強い波に足もとをすくわれ、ふたりして手を繋いだまま波打ち際で派手に転んでしまう。


「あははは! 転ぶときのエマちゃんの顔、セオとアシェルにも見せてあげたいくらい面白い!」


「お、オーレリアさまこそ淑女らしからぬお口の開きかたでしたわ!」


 波打ち際でふたりして寝転んだまま、目が合う。服も髪もすっかりびしょ濡れだ。


 でも、それがなんだかおかしくて、どちらからともなくくすくすと笑い出した。


「ふふ、こんなにはしゃいだのはいつ以来でしょうか……」


 ごろん、と青空を見上げるように寝返りを打つ。空がこんなに広いことを、久しぶりに思い出した。


「そうよね、エマちゃんはずっと聖女候補として頑張っていたから……」


 オーレリアさまは気遣わしげに呟いたかと思うと、前触れもなくがばっと起き上がる。


「そうだわ! 服も濡れてしまったし、私が運営している仕立て屋で新しい服を用意しましょう?」


「オーレリアさまのお店に……?」


 私が砂浜に手をついて体を起こすころには、彼女は何ごともなかったように立ち上がって、私に手を差し出していた。


「ええ、そうと決まったら早速行きましょう? 私がとびっきり可愛くしてあげる!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る