第3話 深まる恋心
「女神ネージュさま、あなたの祝福の力をどうかおかしください。この者の命の灯火を、再び燃え上がらせる術を、私にお与えください」
舞台上で白い装束を纏った女性が、白い光に向かって訴えている。彼女は初代聖女ルナ役の役者だ。彼女の前には、血を模した赤い塗料を浴びた青年が倒れている。
女神の愛し子である初代聖女が、ある青年に恋をするところから王国ネージュの建国神話は始まる。あるとき聖女を庇って瀕死の傷を負った青年のために聖女が女神の祝福の力――今では「ルナの祈り」と呼ばれる特別な力を使って青年の命を救うのだ。その青年こそが、初代国王ルーフェンだった。
うんざりするほど繰り返し読んだ話だが、美しい歌に合わせて演じられると、今までとは違った高揚感がある。エルティアの技術をふんだんに使用した豪華な衣装も見ているだけで楽しい。
「楽しんでるか? エマ」
舞台を見下ろす形の貴賓席には、私とセオさま、お兄さまとオーレリアさまで分かれて座っていた。同じ空間にはいるものの、座席が違うだけでお兄さまとオーレリアさまの様子はほとんどわからない。
「ええ、歌も衣装もとってもすばらしいですわ」
小声で賛辞を送れば、セオさまはどこか誇らしそうに頬を緩めた。
「そうだろう。一流の役者を揃えた上に、歌声がよく響くような構造にしてあるんだ。衣装はオーレリアが監修しているんだから、すばらしいのはわざわざ言うまでもないな」
自分の仕事に誇りを持っているのがよく伝わってくる。それに、オーレリアさまのこともとても信頼しているらしい。
「おふたりは仲がよろしいのですね。この劇場も、オーレリアさまのお名前がついていますもの」
「まあな。自慢の妹だ」
……すてきなご兄妹だわ。双子だから、余計に絆が強いのかしら。
ふたりが強気に次々と行動を起こせるのは、お互いの存在が大きいのかもしれない。兄妹であり、信頼できる相方のような存在なのだろう。
「君もアシェルと仲がいいだろう? 妬けてしまうくらいだ」
私の顔を覗き込みながら、セオさまは意味ありげに笑った。劇場の薄暗さは、彼の色気を引き立たせるようだ。昼間の太陽のような快活な印象とはまるで違う。
……これは、女性たちに大人気なのも納得ね。
「お兄さまは、私に過保護なんです。昔からずっと」
曖昧に微笑んで当たり障りのない返事を返せば、セオさまくつくつと苦笑した。
「まあ、こんなに可愛い妹がいたら仕方がないな。大目に見てやれ」
舞台上では、初代国王役の青年が、血の海から目を覚ますところだった。初代聖女によって命を救われたのだ。舞台もそろそろ終幕だろう。
「セオさまはお兄さまともずいぶん親しくされてますね」
言葉の節々から感じるのは、まるでお兄さまを友人のように思っているかのような親しみだった。今日の昼間だって、人混みの中からお兄さまの姿を見つけ出したくらいなのだから。
「そうだな。初めて会ったときは笑いも泣きもしない、ろくに喋りもしないから、こんな奴が公爵家の後継で大丈夫かと思ったが……あるときから物腰が柔らかくなって、付き合いやすくなったな。愛想笑いは相変わらずだけど」
「愛想笑い? お兄さまは、常に微笑んでおられますけれど」
「それはエマの前に限るんだろうな。……だから、今日は驚いた。彼が、あんなふうに優しく笑う姿を見たことがなかったから。君が、あいつを変えたんだろう」
「そんな、ことは……」
言葉ではそう言ったが、思い当たることならばある。公爵邸に引き取られてきたばかりのお兄さまは、今とは別人だった。すべてを敵と思うようなまなざしをしていて、私のことは殊更に嫌っていただろう。
……その気持ちはひょっとすると、わずかながらに今も残っているのかもしれないわ。
時折、お兄さまが私に対して矛盾した感情を抱いているように思うことがある。彼に大切にされているのは間違いないと思うのに、新緑の瞳が翳るとき、その深い闇の奥に私を壊そうとするような、強い感情が見え隠れする。
――僕は君と真逆の存在だ。近寄らないでくれ。君を、どうしたって疎ましく思う。
過去のお兄さまの言葉だというのに、思い出すだけでつきりと胸が痛むようだった。今のお兄さまに同じことを言われたら、立ち直れなくなるだろう。
舞台上では、初代聖女役の女性と初代国王役の青年が手を取り合って王座につくところだった。民衆役の役者たちが、ふたりを讃える歌を高らかに歌っている。
「……聖女選定のことは、残念だったな。俺は君が聖女になると思っていた」
「ご期待に添えず、心苦しく思います」
もうだいぶ、この手の話題も受け流せるようになってきた。それくらい、私にとって聖女候補であった日々は、とっくに過去のものになっている証だ。
「……王太子殿下と離れるのは、つらかっただろう」
言いづらそうに、セオさまはわずかに視線を彷徨わせている。意外な指摘に、思わず目を丸くしてしまった。
「お気遣い痛み入りますが……殿下に対して個人的な感情は特に持ちあわせておりませんでした」
「ええ……? なんだか夢がないな。初代聖女と初代国王はあんなに愛し合っていたのに」
セオさまは舞台上でくちづけを交わす初代聖女役の女性と初代国王役の青年を見下ろして、溜息をついた。毎年欠かさず建国神話を上演しているくらいなのだ。聖女と王族が愛し合うことを、当然のように夢見ていたのだろう。
「ふふ、夢を壊してしまったのなら申し訳ありません。ですが、女神さまに選ばれたイザベラさまは殿下と相思相愛のはずですわ。ちょうど、この建国神話のように」
ふたりは、仲睦まじく過ごしているだろうか。イザベラさまはおそらく、ルカ神官にたきつけられてそろそろ巡礼の旅へ出るころだろうから、すこしの間離れ離れになってしまうかもしれない。
だが、セオさまの表情はどこか浮かないものだった。
「どうだかな……。殿下がどう思っているかは知らないが、聖女が仕事をしなすぎて、民の評判は最悪だ。祈らない聖女なんて前代未聞だぞ。……やっぱり君が聖女にふさわしかったんだという声を聞かない日はない」
「それは……」
それは、あまり良くない事態だ。聖女選定の儀で敗れた私のほうが聖女にふさわしいだなんて、神殿への不信感を露わにしているとも捉えられかねない。それだけで、罪人とされてしまうかもしれない危険な噂だった。
……ルカ神官は、この事態にどう対応しているの?
厳格な彼が、放っておくはずがない。それなのに、噂を野放しにしているところがなんだか不気味だった。
「まあ、俺としては君が聖女になってしまったら君を妻にできなくなるから、聖女にはなってほしくないけどな」
冗談めかした調子で、セオさまは笑う。直球すぎる言葉だが、さっぱりとしていて不快感はなかった。
「ふふ、セオさまのおっしゃることはいつも大胆で驚かされます」
「うまくはぐらかしたな……?」
くすくすと笑って誤魔化せば、ふと、セオさまの視線が私の首もとにとまった。
「あ、エマ、チョーカーが取れかけてるぞ」
「え?」
見ると、確かにチョーカーが鎖骨のあたりまでずり落ちていた。留金が外れてしまったらしい。
……ふふ、お兄さまったら慣れないことをするから。
やはり、毎日私の支度を整えてくれるリリアには手先の器用さは敵わないらしい。けれどこれを私に贈って自らつけてくれたことが嬉しくて、チョーカーが取れてしまったことにも愛おしさを感じた。
「俺が付け直してやる。ちょっと横を向いて」
「ええ……ありがとうございます」
セオさまに背を向けるように体を傾ければ、お兄さまとオーレリアさまの姿がよく見えた。ふたりとも小声で楽しげに談笑しているようだ。
オーレリアさまが何かを囁いたかと思うと、お兄さまの腕に抱きつく。積極的な触れ合いを前に、思わず視線を伏せてしまった。
「……エマは、恋人はいないんだよな」
ふと、チョーカーを付け直そうとしてくれていたセオさまが、背後でぽつりと呟く。唐突な話題に、思わず体を捻ってセオさまを見上げた。
「え? ええ……おりませんわ。ついふた月ほど前まで、聖女候補だった身ですもの」
恋人になりたい相手はいるけれど、とは言わないでおいた。セオさまとお兄さまが友人関係であることを思うと、私がお兄さまを慕っているとは言いづらい。
「へえ……なるほど、やってくれるじゃないか」
その言葉は、私ではない誰かに向けられているようだった。セオさまは私の肩越しに誰かと視線を合わせているようだ。引き攣ったような笑みを浮かべるセオさまは初めて見た。
不思議に思い彼の視線を追うように頭を動かしたとき、ふと、目の前に影がかかった。
「エマ、チョーカーが取れてしまったんだね。僕の付け方が悪かったかな……。おいで、付け直してあげるよ。セオにつけてもらうのは気恥ずかしいだろう?」
いつの間にか目前に迫っていたお兄さまに手を差し出され、ほとんど反射的に自らの手を重ねる。そのままぐい、と引き寄せられるがままに立ち上がった。
「それじゃあ、僕らはこの辺で。すばらしい舞台だったよ。劇場も品があって、役者たちの衣装もとても美しかった」
「もう行っちゃうの? アシェル。私たちの屋敷に招いてお酒でも……と思ってたのに」
オーレリアさまはひどく残念そうに眉を下げた。お兄さまは人好きのする笑みを浮かべながら、ぐ、と私の肩を抱く。
「魅力的なお誘いだけど、うちのエマはもう眠くなってしまう時間でね」
「じゃあ、アシェルだけでもどう? ……ふたりきりで話しましょうよ」
オーレリアさまは妖艶に微笑んだ。彼女もまたセオさまと同様に、昼間のひだまりのような雰囲気とはがらりと空気感を変える。同性の私でも思わず息を呑むほどの色気があるのだから、オーレリアさまの誘いを断れる男性はまずいないだろう。
「残念だけど、エマは僕が一緒じゃないと寝ないんだ」
お兄さまは吐息混じりに笑うと、私の頭にくちづけた。いつもの仕草だが、事実無根のことをさも当然のように告げたのは気に掛かる。
……オーレリアさまのお誘いを、断りたいのかしら?
ここで否定するべきか迷っていると、ふと、セオさまが小さく声を上げて笑い出した。私と同じ藤色の瞳には、どこか挑戦的な光が宿っている。
「なるほどなあ……言ってくれる。過保護にも程がある『お兄さま』もいたもんだな」
セオさまはお兄さまを見上げてから、ふっと私に視線を移した。そうして黒いレースの手袋に包まれた私の手を取ると、昼間のように手の甲へくちづけた。
「エマ、また誘いに行く。今度は海を見に行こう」
ほとんど有無を言わせない誘い方だった。セオさまはそれだけを告げて、オーレリアさまの手を取る。
「アシェル! 約束よ! 明日はふたりきりで話しましょうね!」
オーレリアさまの言葉に、お兄さまは人好きのする笑みを浮かべるばかりだった。ふたりに礼をして貴賓席を出てから、ようやくお兄さまと向き合う。
「……お兄さま、私、ひとりで眠っているではありませんか」
「ごめんごめん、今夜はちょっと疲れてしまって。断る口実に使わせてもらったんだ」
確かに昨日まで移動に続く移動を重ねてきて、疲労はまだ取れていないだろう。今夜は私も早めに休んだ方が良さそうだ。
「それはいいですが、嘘をつくのはあんまり良くないですわ」
それも、お兄さまに好意を寄せているオーレリアさまが相手なのだ。私としては複雑な気持ちがあるが、誠実に対応するべきだろう。
「なら、本当のことにしようか?」
お兄さまが、ぐい、と腰を引き寄せて意味ありげに微笑む。終演直後の劇場のざわめきの中で、お兄さまの存在だけが淡く浮かび上がるように目に焼き付いた。
「せっかく広い寝台があるんだから、ね?」
「な……」
たちまち顔が熱くなる。どうしてお兄さまはこういうことをさらっと言えてしまうのだ。
……私を意識していないからこそ、なの?
「せ、せっかくですが、ひとりで休めます。お兄さまも疲れが溜まっているはずですから、ゆっくりおやすみください」
お兄さまと一緒に眠るなんて、到底できるはずがない。淡雪の大樹のそばの礼拝堂で一緒に眠ったのは、ほとんど事故のようなものなのだから。
「それから……そ、そういうことは、オーレリアさまには気軽に言ってはいけませんからね! よろしいですか!」
お兄さまが恐ろしく無自覚である可能性を考えた注意のように見せかけて、これは単なる嫉妬だとわかっていた。お兄さまがオーレリアさまを抱きしめて眠るなんて、想像しただけで身が捩れそうなほどに嫌だ。
そんな私の心境を知ってか知らずか、お兄さまはなんてことないように微笑む。
「言わないよ、エマ以外に」
「……っ」
……このひとには、敵わない。
でもそういうところも、好きなのだ。無自覚でも、私が期待しているような意図で言っているわけではなくても、お兄さまの言葉だと思うだけで嬉しい。
……私って、相当お兄さまが好きなのね。
このような気持ちで、他の男性になど嫁げるはずがない。心の動揺を押さえつけるように深呼吸をして、セオさまとオーレリアさまが立ち去った方角を見つめた。
……ちゃんと、話さなくちゃ。
お兄さまに悟られぬように、ぐ、と胸を押さえる。心の奥底である決意を、密かに固めた。
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