第2話 君が子どもみたいに笑うから
「お嬢さま、いかがですか? とってもお美しく仕上がりましたよ」
鏡台を覗きこみながらリリアが語りかけてくる。鏡には、彼女の手によって完璧に仕上げられた私の姿が映り込んでいた。
銀の髪はゆったりと結い上げられ、首もとには瞳と同じ紫の宝石が埋め込まれた首飾りがつけられている。ドレスは夜にふさわしい紺碧だ。
「お化粧も、いつもより大人っぽくしてみました。赤い口紅が素敵です」
「ありがとう……リリア」
これから楽しみにしていたお芝居を見に行くというのに、気分はどうにも沈んだままだった。それもこれも、エスコートの相手がお兄さまからセオさまに変更になったからだ。
街で食事を終えた後、パーセル兄妹の提案により、今夜の観劇は四人で行くことになった。席は私とセオさま、オーレリアさまとお兄さまに分かれて座ることになっている。
……お兄さまは、オーレリアさまをエスコートするのよね。
食事へ向かう際、お兄さまとオーレリアさまが並び立つ姿は、とても美しかった。誰が見ても、恋人同士と思うだろう。
流行の最先端を行くオーレリアさまは、私には予想もつかないほど美しい装いをしてくるに違いない。そんなオーレリアさまがお兄さまに楽しげに語りかける姿を想像するだけで、ずん、と心が重たくなってしまう。
……沈んでいては、セオさまに失礼だとわかっているけれど。
ふう、と気づかれないように小さく溜息をつく。鏡台の上には、このところ肌身離さず身につけていたお兄さまからもらったお守りが置かれていた。今までは軽装で行動していたが、劇場にはそれなりの格好をしていく必要がある。リリアに説得され、今夜はつけることを諦めたのだ。
このお守りをもらったときは「普通は恋人に渡すものだ」と女の子たちに教えてもらい、ひとりで舞い上がっていたものだ。だが、お兄さまを普通に当てはめようとした私が愚かだったのだ。
「お嬢さま……セオさまがあまり強引なときは、アシェルさまに助けを求めてもよろしいかと存じます。セオさまは、この街ではよく若い女性を何人も連れていらしているとか……。リリアは心配です」
聖堂での女性たちの反応を見て、なんとなく察していた。王国一の大富豪であり、快活で整った見目のセオさまはさぞ人気があるだろう。オーレリアさまもまた、同じく男性たちの注目を集める存在のようだった。
「ええ、でも、セオさまは私のお従兄さまでもあるのよ。強引なことはきっとなさらないわ。せっかくの観劇ですもの、楽しんでくるわ」
鏡台の前に置かれた椅子から立ち上がり、リリアに微笑みかける。客室の窓から見える空はすっかり夕焼けに染まっていた。そろそろセオさまが迎えにいらっしゃる時刻だ。
「……綺麗に支度してくれてありがとう。私は大丈夫だから、あなたも護衛を連れて街を見物してくるといいわ」
「いえ、ここでお待ちしております。お帰りになったらすぐに湯浴みができるよう、支度しておきますね。せっかくですから、ドロシアさんから頂いた香油を試してみましょう」
「……それ、大丈夫な香油かしら」
別れ際に冗談めかして告げられたドロシアさんの言葉が蘇る。リリアにもその話は知っているので、心得たように視線を伏せた。
「ご心配なく。すっきりとしたお花の香りでした。いかがわしいものではありませんよ」
「ならよかった」
くすくすとふたりで笑い合う。おかげで、すこしだけ気分が晴れたような気がした。
……そうよね、せっかくの観劇だもの、楽しまなくちゃ。
セオさまを異性として意識しなければならない、というわけでもないのだ。久しぶりに再会したお従兄さまとして接すればいいだけのこと。お兄さまとオーレリアさまのことは、私が今悩んだところで答えは出ないのだから、いったん気分を切り替えよう。
リリアに別れを告げ、部屋を出る。私たちが宿泊しているのは主に貴族が泊まる品格の高い宿で、その最上階を借りていた。海を眺めることができるバルコニーのある客間と、そこにつながるように部屋がふたつあり、それぞれを私とお兄さまで使っているのだ。
客間には、既にお兄さまの姿があった。久しぶりに見るお兄さまの礼装姿に、どく、と心臓が跳ね上がる。黒い礼服に身をつつんだお兄さまの姿は、いつもの優しげな雰囲気とは違い、夜を纏ったような近寄りがたい空気感があった。
お兄さまはソファーに座って、何か考えこんでいるようだった。どこか憂いを帯びた横顔に、目を奪われてしまう。
……何を、考えていらっしゃるのかしら。
しばらく見惚れていると、はっとしたようにお兄さまは顔を上げた。新緑の瞳がすぐに私を捉える。
「エマ、支度ができたんだね」
目が合うなり、先ほどまでの翳りすら思わせる冷たい気配をがらりと変えて、優しく微笑まれた。いつもどおりのお兄さまだ。
「ええ……リリアが綺麗にしてくれました。こんなにしっかりとドレスを着込んだのは初めてだから、なんだか緊張します」
今までは聖女候補の白い装束ばかり纏っていたから、慣れない気持ちが大きい。リリアは褒めてくれたが、果たして私に似合っているだろうか。
「夢のように綺麗だ、エマ」
言葉通り、どこか恍惚とした声音でお兄さまは褒めてくださった。こんな状況だが、お兄さまの褒め言葉は本当に嬉しい。たちまち頬が熱くなってしまう。
「お、お兄さまもすてきですわ……。近寄りがたく思うほどに綺麗ですもの」
「近寄りがたく? それは困るな。どれだけ上等な装いをしても、エマが離れていっては元も子もない」
なんてことないように笑って、お兄さまは私の前に歩み寄った、その手には小箱がふたつ抱えられている。
「既に完璧な装いだけれど、僕から贈り物だよ」
「贈り物、ですか?」
お兄さまは小箱のひとつを私に手渡した。そっとリボンを解いて箱を開けてみると、中には黒いレースの手袋が収められている。よく見ると雪の結晶をかたどったようなレースの意匠で、非常に私好みだった。
「すてき……! ありがとうございます、お兄さま」
さっそくするりと手袋に手を通してみる。肘のあたりまで絹の布地とレースで覆われる形になった。より格式高い装いになっただろう。ドレスの色ともよく合っている。
「それからもうひとつは装飾品だったんだけど……そうか、もう首飾りをしていたんだね。ちょっと遅かったかな」
お兄さまはもうひとつの小箱を開けると、中身を私に見せてくれた。そこに仕舞われていたのは、黒いベルベットの生地の中央に新緑の宝石がぶら下がったチョーカーだ。布地の周りにはやはり雪の結晶を意識したような黒いレースが縫いつけられており、手袋とそろいの品であることはすぐにわかった。
「まあ、とっても細やかですてき……! お兄さま、私、こちらを付けていきたいですわ」
「本当? 嬉しいな」
「ええ! 今、リリアを呼んで付け替えて参りますね!」
お兄さまからの贈り物が嬉しくて、ついはしゃいでしまう。だが、彼女を呼びに行こうとする私を、お兄さまが手を引いて引き留めた。
「僕がつけてあげるよ。おいで」
お兄さまに導かれて向かった先は、彼が使用している寝室だ。私の部屋と対になるように調度品が並んでいる。
お兄さまはぱたりと扉を閉めると、私を姿見の前まで連れていった。そこで、鏡越しにお兄さまと目が合う。
「君の瞳の色によく似合っているけれど、これは外すね」
背後から、お兄さまの指が薄紫の宝石が連なった首飾りをなぞる。旅に出る前にお母さまから頂いたものだが、こちらはまたつける機会があるだろう。
「ええ……お願いします」
うなじに、お兄さまの指先が掠めるように触れる。そこに留金があるのだから仕方がないのだが、くすぐったくてならなかった。
「ふふ……」
「じっとして、外せないよ」
優しく注意されるも、どうしても身を捩ってしまう。
「ふふ、ごめんなさい、だってくすぐったくて」
リリアはやはり手先が器用なのだと思い直す。彼女はほとんど私の肌に触れずに留め金を外すことができるのだから。
「そんなこと言われると、もっと笑わせたくなるな」
お兄さまの腕が、お腹の前に回され、逃げ道を塞ぐように抱きしめられてしまう。そのまま軽く身を屈めたかと思うと、音を立ててうなじにくちづけられた。
「ふふ……駄目です、お兄さま。もっとくすぐったいですわ」
私の抵抗を嘲笑うように、それはゆっくりと、何度も繰り返された。あまりのくすぐったさに余計に身をよじるが、抱きしめられているせいでうまく逃れられない。
「お兄さま、降参ですわ……!」
涙目になりながら白旗をあげれば、ようやくお兄さまは手を離して下さった。呼吸を整えながら、鏡越しにお兄さまを見つめる。
「もう、あんまり意地悪なさらないでください」
目尻に溜まった涙を指先で救いながら、彼を振り返る。お兄さまはふっと目を細めて私を見ていた。
優しい微笑みのはずなのに、どこか怪しく光る新緑の瞳を見た瞬間、身動きが取れなくなった。まるで、追い詰められた獲物のような心地だ。
それに、と思わずドレスを握りしめる。先ほどまではくすぐったくて余裕がなかったが、今のは相当大胆なふれあいだったのではないだろうか。頬や額にくちづけられることは数えきれないほどあったが、首まわりには初めてだ。
……駄目だわ、意識し始めると途端に恥ずかしくなってきた。
彼にくちづけられた箇所が、甘く疼くような気がする。視線を泳がせていると、お兄さまがそっと私の肩を抱き、もういちど姿見に向かい合うように誘導された。
鏡に映る私の顔は、すっかり赤く染まっていた。それを見せつけられるようで、思わず視線を伏せてしまう。
「あれ、ちょっとからかいすぎたかな? 君が子どもみたいに笑うから、つい楽しくて」
憎らしいほどにいつもの声だ。視線を伏せたまま、私もどうにかいつも通りの笑みを取り繕うとする。だが、羞恥がまさってうまく頬が動かない。こういうときに数年間無表情でいた弊害を思い知らされる。
「わ、私も楽しかった、です……。でも、すごくくすぐったかったから、これからは、あんまり――」
「そうだね。僕以外とは――セオとはこういうことしちゃ駄目だよ。わかった? エマ」
するりと背後から手が伸びてきたかと思うと、鏡を直視するように顎を上向かされた。いつの間にか、首もとには見事な新緑の宝石がついたチョーカーがつけられている。いつの間に留め金を止めたのだろう。すこしも気配を感じなかった。
……肌に触れないようにチョーカーをつけられるのに、さっきのはわざとだったの?
ぶわり、と顔から火が出そうなほどに熱くなった。お兄さまには、敵わない。
「……そばでちゃんと見ていてあげるから、僕以外のエスコートでも不安に思うことはないよ。ね?」
甘やかすように、彼は耳もとで囁いた。もう、鏡を見ていられない。思わずぎゅうと瞼を閉じた。言葉を返す余裕もなく、何度か頷くことしかできない。
その瞬間、扉を叩く音が響く。
「アシェルさま? お嬢さま? まだこちらにいらっしゃいますか? パーセル家のセオさまとオーレリアさまが玄関広間でお待ちです」
どうやら、リリアが私たちを探しにきたようだ。今だけは、彼女の声に救われたと思った。
これ以上お兄さまとふたりきりで過ごしていたら、身体中が熱を帯びて、溶けてなくなってしまいそうだ。
「――ええ、いるわ。ちょっと衣装を直してもらっていたの」
なかなか答えないお兄さまの代わりに返事をして、するりと彼の腕から抜け出す。部屋を出るまで、お兄さまの顔をまともに見ることはついにできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます