第三章 神殿直轄領エルティア

第1話 ふたりの求婚者

 白い大理石の床に、ステンドグラスの光が散っている。女神と初代聖女ルナの逸話を絵にした豪華なステンドグラスが大聖堂の壁に一定の間隔を保って埋め込まれていた。


 一参列者として神官の言葉に耳を傾けながら、指を組む。久しぶりの正式な礼拝だ。


 ここは、神殿直轄領エルティアの大聖堂だ。エルティアに来た際には、いちどは礼拝に訪れなければならないとされている神聖な場所だった。至る所に雪の結晶をかたどったような装飾が施され、その美しさから女神の箱庭とも呼ばれている。王都にある本神殿と同等の力を持つこともあり、ここでは多くの神官が女神に仕えていた。


 聖女教育の際にこの場所のことはずいぶん勉強したが、こうして実際に足を踏み入れるのは初めてだ。


 旧ラーク子爵領で摘み取った淡雪の大樹の葉は、この聖堂に収める手筈になっているらしい。ここには王国一の大商会――パーセル商会の本部もあるため、美しい糸や布が簡単に手に入り、聖女の装束を作るのに都合がいいそうだ。


 パーセル商会は、実はアスター公爵家と縁深い商会だ。アスター公爵領でも取引を行なっているため、次期当主のお兄さまはいちどその本部をみておきたかったらしい。視察の主な目的はそれだった。


 逆に言えば、それ以外にお仕事の予定はないため、本来この街の滞在期間はごくわずかなものだったのだが、私がこの旅に同行すると決定してから大幅に日程が増やされた。芸術と宗教が栄える神殿直轄領エルティアには、観光するべき名所が多々ある。この大聖堂もそのひとつであるし、数年前に建てられたオーレリア大劇場でお芝居を観るのも貴族の間で流行していた。


 早速、今夜お兄さまとともに劇場へ足を運び、女神とルナの建国神話を演じたお芝居を観に行くのだ。楽しみで仕方がなかった。


 ……目いっぱいおしゃれしなくちゃ。今夜こそ、お兄さまに女性として扱ってもらうのよ!


「ご機嫌だね。大聖堂に来られて嬉しい?」


 神官の祈りが終わったのを見計らって、隣に座ったお兄さまが耳打ちしてきた。ささやくような声がくすぐったい。


「ええ。……今夜のお芝居もとっても楽しみです」


 私も彼の耳もとに顔を寄せて呟けば、大きな手に頭を撫でられた。わずかな間見つめあって、どちらからともなく小さく笑いあう。席の間で触れ合った手を、そっと握り合った。


 礼拝が終わると、席に座っていた人々が散り散りに立ち去っていく。貴族らしき人々も多くまじっていたから、これから観光にでもいくのだろう。


「さて、夜まではまだ時間があるね。夕方には支度をするとして……それまで何をしようか? 食事でもする?」


 海が近いこの場所では、魚料理が有名らしい。エルティアの郷土料理を楽しむのもいいかもしれない。


「ええ、街を歩きながらどこかで食事をしましょう」


「決まりだ」


 お兄さまは私の手を握ったまま席を立つと、ゆっくりと私のことも立ち上がらせた。その丁寧な仕草に、またすこしときめいてしまう。好きなひとに大切にされて、だらしなく口もとがにやけてしまいそうだ。


「あれ? アシェル? アシェルじゃないか!」


 ふと、礼拝終わりの人混みの中から青年の声が響く。あたりを見渡してみれば、ひと組の男女がこちらへ駆け寄ってくるところだった。


 年は、ふたりともお兄さまと同じくらいだろうか。貴族ほど堅苦しくはないが、平民とは思えない質の良い服を纏っている。揃いの淡い金髪と藤色の瞳がやけに目を引いた。


 ……え、藤色の瞳?


 藤色の瞳は、アスター公爵家の血筋の者が持つ色だ。少なくとも王国ネージュでは藤色の瞳から連想されるのは我が家門だった。


 ……もしかして、このおふたりは――。


 思い当たる名をつぶやくより先に、お兄さまが口を開いた。


「セオ、オーレリア。久しぶりだね」


 お兄さまが人好きにする笑みを浮かべてふたりを迎えいれる。その名前には私も聞き覚えがあった。


「セオお従兄さまと、オーレリアお従姉さま……?」


 物心がつくか否かという頃に、いちどだけお会いしたことがある兄妹だ。


 ふたりは、大商会を運営するパーセル家に生まれた双子だった。


 そして彼らの母君であるソフィアさまは、私のお父さまの妹なのだ。ソフィアさまは生粋の公爵令嬢であったが、青年実業家であったパーセル氏に恋をして、駆け落ち同然に家を出たらしい。そうして生まれたのがセオさまとオーレリアさまだ。


 私のお祖父さまにあたる先代のアスター公爵は、ソフィアさまとパーセル氏の結婚をお許しにならなかったが、お祖父さまが亡くなり、お父さまが爵位を継ぐと、お父さまは時折パーセル家をアスター公爵家に招くようになったらしい。それをきっかけにパーセル商会はアスター公爵領で商売が許可されるようになり、今では神殿直轄領エルティアを本拠地にして王国の経済を支えているのだ。


 私は聖女候補となってからはふたりにお会いしたことはなかったが、お兄さまは違ったのだろう。次代のアスター公爵家当主として、パーセル商会の要となるふたりとは連絡を取り合っていたに違いない。


「会うのは明後日の予定だったのにな! 姿を見かけたものだからつい声をかけてしまった」


 快活な笑顔でセオさまはお兄さまの肩を叩いた。ずいぶんお兄さまに親しみを覚えているようだ。お兄さまも微笑みを崩さない。まるで友人同士のような柔らかな空気を感じた。


「アシェル!」


 お兄さまとセオさまの間に、突如として美女が飛び込んでくる。オーレリアさまだ。白金の髪をふわりと靡かせて、お兄さまに抱きついた。


「こんなに早くお会いできるなんて! 嬉しいわ!」


「オーレリア、今日も元気だね。僕も会えて嬉しいよ」


 オーレリアさまをさりげなく支えながら、お兄さまも微笑みで答えた。


「ねえ、アシェル、今度こそ私と婚約してちょうだい! あなたのためなら公爵家に入ってもいいから!」


 どくん、と心臓が跳ね上がる。オーレリアさまの美しい横顔が、眩しいほどに目に焼きついた。


 ……婚、約? お兄さまと?


 さあ、と血の気が引いていく。夏だというのに指先が冷たかった。


 そうだ。お兄さまが公爵家に引き取られた際に国王陛下から出された条件は「アスター公爵家と縁のある令嬢を妻に迎えること」。


 その立場にいちばんふわさしいのは私だと、高を括っていた。その条件に当てはまるのは、私だけではないのに。


 ……お父さまの姪にあたるオーレリアさまなら、お兄さまのお相手として十分だわ。


 しかもオーレリアさまは王国で一、二を争う大富豪、パーセル家の令嬢でもあるのだ。パーセル家からしてみれば、縁談を機にアスター公爵家と繋がりがより深まることを期待していてもおかしくなかった。


 聖女のなりそこないの私と婚約するよりも、多方面に利益を生む縁談であることは確かだ。


「オーレリア、その話はまた今度」


「そう言っていつもはぐらかすんだから、ひどいひとね。もう婚約指輪の目星はつけているのに!」


 オーレリアさまはお兄さまにしなだれかかりながら、不満げな顔をした。そんな表情でさえいちいち美しい。女性らしい体つきも宝石のような美貌も、私にはないものだった。


「ちょっと待て、アシェル、この子――」


 ふと、セオさまの視線が私に注がれる。青年らしく精悍な顔つきに成長しているが、幼い頃のセオさまの面影がある。


「――エマ? エマだね? なんて久しぶりなんだろう……!」


「ちょっと待って、エマちゃん? 見せて見せて!」


 お兄さまに引っ付いていたオーレリアさまが、目の色を変えて私の目の前に駆け寄ってきた。ふわり、と漂う花の香りはオーレリアさまの香水の香りだろうか。


「セオさま、オーレリアさま、お久しぶりです。エマ・エル・アスターですわ」


 檸檬色のドレスを摘んで礼をすると、オーレリアさまに抱きつかれた。少々人との距離が近い方らしい。


「エマちゃん! 私のこと覚えていて? オーレリアよ。いちどしか会ったことないけれど……私たちは聖女候補として頑張るエマちゃんの話をたくさん聞いてきたわ!」


「俺はセオだ、エマ。昔はお従兄さまって呼んでくれてたのに、すっかり大人になったな……」


 ふたりともお兄さまと同い年のはずなので私よりふたつ年上なだけだと思うのだが、ずいぶん年下扱いされているように思う。でも、ふたりの好意は純粋に嬉しかった。


 ……そうだわ、おふたりはこんなふうに温かい方だった。


 幼いころ、遊びにきたふたりと公爵邸の庭を駆け回った日々が懐かしい。まだお兄さまと打ち解けていなかったあのころの私にとって、同年代のふたりと遊んだ一日は本当に楽しかったのをよく覚えている。


「おふたりのご活躍は、私の父から聞いております。セオさまは劇場経営、オーレリアさまは服飾文化の発展に貢献なさっているとか……」


 芸術が発展するこのエルティアで、ふたりは文化を支える柱のようなひとたちだった。エルティアを語るときに、ふたりの存在を欠かすことはできないだろう。


「そんなにお堅くならないで。私のことは呼びすてにしていいのよ。お友だちのように話しましょ? アシェルなんてとっくのとうに呼び捨てにしてるわよ?」


 オーレリアさまはちらりとお兄さまを見て微笑んだ。ちょっとした微笑みも絵になるような、美しいひとだ。


「十年ぶりの再会だ、そんなにすぐには打ち解けられないだろう。……だからまずは食事でもしよう。魚料理が美味い店があるんだ」


 セオさまは楽しげに提案したかと思うと、すっと私に手を差し出した。どうやらエスコートしてくれるつもりらしい。


「あ……」


 お兄さま以外の男性からエスコートを受けるのは初めてだ。従兄とはいえ、なんだか緊張してしまう。


「ちょっと、セオ、まずは淑女にちゃんと挨拶しないと」


「そうだった、ごめんごめん」


 オーレリアさまに注意され、セオさまはうっかりしていたと言わんばかりに破顔した。そうして私の前に跪くと、騎士のように私の右手の甲にくちづけた。


「麗しいアスター公爵令嬢、神殿直轄領エルティアへようこそ。あなたを歓迎いたします。どうか私にあなたをエスコートする栄誉をお与えいただけませんか」


 正式な舞踏会でもないのに、少々大袈裟だ。だが、一見無骨に見えるセオさまが瞬く間に優雅な紳士に様変わりする瞬間には、思わず目を見張ってしまった。


 ここまで言われて、断ることはできない。こくりと頷いて、セオさまに微笑みかけた。


「ええ、喜んで、セオさま」


 淡い藤色の瞳と、はたと目があう。本当に私やお父さまとよく似た瞳の色をしていた。


 その瞬間、セオさまの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。私同様に赤面する癖も、アスター公爵家の血筋のせいなのだろうか。


「……なんて、美しいんだ」


「え?」


 セオさまはふらりと立ち上がると、夢でも見ているような目で私を見下ろした。エスコートするために繋いだ手に、もういちどくちづけられる。


「結婚してくれないか」


「…………え?」


「どうしよう、これが一目惚れってやつだな。前に会ったことがあるんだから一目惚れもおかしいかもしれないけれど……。エマ、君の名前をつけた城を建てるから、そこで一緒に暮らさないか?」


「お城……!?」


 やはり、王国一の大富豪は求婚の言葉も桁違いだ。真似できるひとはそうそういないだろう。


 ……いえ、ちょっと待って。それどころじゃないわ。


 聞き間違いでなければ、私は今、セオさまに求婚されたのだろうか。想像もしていない展開に、軽く目眩を覚える。


「ええっと……ちょっと待ってください、セオさま、それは――」


「――いいじゃない! セオはエマちゃんと、私はアシェルと結婚する! アスター公爵家もパーセル家も安泰だわ!」


 オーレリアさまはこれ以上の名案はないとばかりに顔を輝かせている。セオさまもそれに同調しているようだ。


 ……そんな、私、お兄さまが好きなのに……!


 慌てて求婚を断ろうとしたそのとき、ふっと、お兄さまが私とセオさまの手を引き離した。


「セオ、そういう話は父を通してしてくれないか。旅先でエマが婚約者を連れて帰ってきたと聞いたら、父上は卒倒してしまうからね」


 お兄さまはごく穏やかにセオさまを諌めた。お兄さまのおっしゃっていることはもっともだ。公爵家に関わる縁談なのだから、私たちだけで決められる話でもない。


「そうだな、正式な話はまた後日だ。でも、エマを口説き落とすのは自由だろ?」


 セオさまは行動力のある方だ。欲しいものを前に黙っているような方ではないように思う。その気性もまた、劇場経営者としての成功の一因なのかもしれないが。


 セオさまと婚約する気はない、とここできっぱり言ってしまおうと思ったが、言葉が出てこない。どうしても、お兄さまの返答が気になってしまった。


 ……私を女性として意識していたら、ここで止めてくださるかしら?


 嫉妬してくれるかもしれない、なんて期待するのは、ずるくて醜い考えだ。でも、お兄さまの言葉を待たずにはいられない。耳の奥で、心臓の音がうるさいほどに鳴り響いていた。


 だが、お兄さまはなんてことないように、答えを返した。


「そうだね。……それを止めるだけの権限は、僕にはないよ」


 がん、と重たいもので殴られたような衝撃を覚える。あたりの音が、一瞬にして遠くなった。


「じゃあ決まりだ。――エマ、覚悟しておけよ」


 セオさまはもういちど私の指先にくちづけて、挑戦的に笑った。瞬間周囲から、若い女性たちの悲鳴じみた声が上がる。


「ちょっと待って、セオさまが――!」


「あの女は誰!? 抜け駆けするなんて!」


 いつのまにか、私たちは周囲の注目を集めていたらしい。特にセオさまは若い女性たちの注目の的のようだった。この街で彼は相当な人気者のようだ。


 だが、それについて考える余裕はすでになかった。お兄さまの一言を聞いてから、うまく心が動かない。


 ……これはちょっと、堪えたわ。


 あれだけ私に優しくても、溺愛していても、私に対する独占欲や恋情は微塵もないらしい。


 お兄さまの言葉は、私の義兄としては正しいのかもしれない。けれど、お兄さまは私の好きなひとなのだ。冗談混じりでもいいから「口説くのも駄目だよ」と止めてほしかった。


「好き」とはっきり伝えたわけでもないのに、勝手に傷つくのは滑稽だとわかっている。わかっていてもなお、泣き出しそうになるのを抑えるので精一杯だった。


「……エマ?」


 ふいにお兄さまに顔を覗き込まれ、びくりと肩を震わせてしまう。いけない、涙目になっているのに気づかれただろうか。


「――セオさま、行きましょう」


 セオさまに声をかけて、お兄さまより先に歩き出す。セオさまの好意を利用して逃げ出す私は、きっと卑怯者以外の何者でもなかった。

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