第5話 雨上がりの風

 三日三晩降り注いだ慈雨が、ようやく止んだ。


 みずみずしい朝日を受けながら、思い切り伸びをする。雨が止んでまだ間もないせいか、雨粒を蓄えた木々がきらきらと煌めいていて綺麗だ。


「エマ」


 支度を整えたところで、私の客間にお兄さまが訪れた。すっきりとしたお顔をなさっている。


「足が大丈夫そうであれば、大樹の様子を見に行ってみよう」


「はい、お兄さま」


 あの夕暮れに挫いた足首はまだ鈍く痛んでいるが、歩けないほどではない。あのあとドロシアさんにも診てもらい、薬を調合してもらったので治りは早そうだ。


 お兄さまの手を借りて、礼拝堂を出る。雨上がりのぬかるんだ道を、呼吸を合わせてゆっくりと歩いた。夏の始まりを思わせる爽やかな風が心地よい。青空の似合う風だ。


 淡雪の大樹に近づくにつれ、次第にしゃらしゃらと葉が擦れ合う音が聞こえてきた。遠くから聞いていても、雪解け水のように清廉な音色だった。


「お兄さま……見て!」


 大樹の姿が見えてくるなり、思わず彼の手を離れ軽く駆け出した。足首の痛みよりも、朝日を受けて煌めく大樹の葉の様子のほうが気にかかる。


「これは……」


 つい三日前まで認めていたひびは綺麗に塞がっており、枝葉は傷ひとつない澄んだ硝子のように変化していた。朝日を浴びると、きらきらと虹色の光を反射している。


「すてき、淡雪の大樹ってとっても美しいものなのですね、お兄さま」


 ほう、と溜息をついて大樹を見上げる。この輝きを取り戻す助けを自分の「ルナの祈り」がしたのだと思えば、誇らしかった。


「僕が見たものの中で、今年がいちばん美しいよ。君の祈りが込められた慈雨を浴びたせいだろう」


 お兄さまは大樹の葉が反射する光に目を眇めながら、小さく息をついた。


「憎らしいな。……君がこれ以上『ルナの祈り』を使わなければいいと思うのに、この美しさには惹かれてしまっている」


 感嘆と悔しさが入りまじったような横顔に目を奪われる。まるで届かないものへの憧れを秘めたようなまなざしが、見ていて切ない。思わず、彼の手を取ってともに大樹を見上げた。


「……これからは、お兄さまの許可なしでは『ルナの祈り』も使いません。ご安心ください」


「そんなことを言って、僕がずっと許可しなかったらどうするの? 目の前で人が死にかけていたら君は力を使うだろう?」


「お兄さまは、死の淵にあるひとを見捨てるような真似はなさらないはずです。あの祝砲の事故のときのように……私の背中を押してくださると信じています」

 

 ぎゅ、と彼の指先を握り込めば、彼は気が抜けたように笑った。


「敵わないな。そんな信頼を寄せられてしまっては、許可を出さないわけにもいかないね」


 お兄さまはくすくすと笑うと、不意にその場にかがみ込み、私の膝を抱くようにして私を抱き上げた。ぐん、と視界が高くなる。手を伸ばせば淡雪の大樹の葉に簡単に触れられそうだ。


「じゃあ、エマ。その中からとりわけ美しい葉を数枚摘み取ってほしい」


「ええ、お兄さま」


 そっと手を伸ばして、一枚一枚の葉を吟味する。虹色に光る葉は、どれもが貴重な宝石のような輝きを放っていた。


「大きさはどのくらいがよろしいのでしょう?」


「できれば小ぶりなもので、大きさが揃っているほうがいいかな」


 確かに、聖女の装束に用いられていたこの葉は、裾や胸もとに連なるようにして縫い付けられていた。大きさが揃っているほうが見栄えが良さそうだ。


 小指ほどの長径の葉が揃っているところに当たりをつけ、ひとつひとつ摘み取っていく。葉はやはり硝子のように硬質なのに、不思議と簡単に摘み取ることができた。


「そのくらいでいいだろう。ありがとう、エマ」


 お兄さまにそっと地面に下ろされ、摘み取った葉を布袋にしまい込む。大樹の葉は、袋の中でしゃらしゃらと涼しげな音を立てていた。神殿に収めるまでは、綿でも詰めておいたほうがいいかもしれない。


「十分な量だ。当代の聖女の装束は歴代最高の出来になるだろうね。……君のおかげだ、ありがとう、エマ」


「ふふ、無事に揃ってよかった――」


 袋を覗き込んだ状態から顔を上げたそのとき、こつん、とお互いの額がぶつかってしまった。痛くはないが、鼻先が触れ合うような距離で目が合ってしまい、心臓が跳ね上がる。鮮やかな新緑の瞳が、じっと私を捉えていた。


 ……そんな目で見ないで。


 お兄さまとひとつの寝台の上で抱きしめ合うように眠ってからというもの、なんだか心がそわそわとしているのだ。眠る前は疲労感と昂った感情のままに大胆なことをしてしまったが、後になって思い出すとどうしようもない恥ずかしさに襲われ、微熱を出したほどだ。


 ……当のお兄さまがどう思っていらっしゃるかはわからないけれど。


 目覚めたとき、隣に既にお兄さまの姿はなかった。それでも寝台にほんのりと残るぬくもりは、私が目を覚ます直前まで彼がそこにいたことを物語っていた。お兄さまは、どんな気持ちで眠る私を見ていただろう。


「……かわいい」


 お兄さまは甘く微笑んで、そっと私の頬に手を添えた。羞恥のあまり顔を熱くしていることがすぐにわかってしまう。それが余計に恥ずかしかった。


 頭上でしゃらしゃらと大樹の葉が涼やかな音色を奏でる。葉に反射した陽光が、あたりに散ってゆらめいていた。まるでふたりきりで、女神さまの神域に迷い込んだかのようだ。


 彼は私の頬に触れていた手をゆっくりと滑らせると、肩に流していた髪に指を絡めた。その様を見せつけるかのように軽く掲げたかと思うと、髪に口づけを落とす。白銀にくちづけるその姿は、まるで雪にくちづけて洗礼を受ける信徒のように敬虔だった。


 私を何か尊いもののように扱うその姿は、意識している女性に対するものではないように思う。けれど、ルカ神官のような押し付けがましい盲信でもなかった。


 ……妹扱い、というのもまた違う気がするけれど。


 お兄さまが私に抱いている感情は、想像するよりもずっとずっと複雑なものなのかもしれない。中には矛盾した感情も、層のように積み重なっているのだろう。


 それを、ひとつひとつ知っていけたらいい。その度にきっと私はまたひとつ、お兄さまのことを好きになる気がした。


「見事に元気になったもんだね」


 ふと、背後から投げかけられた声に私もお兄さまもはっと顔を上げる。そこには、エプロン姿のドロシアさんがいた。


「ドロシアさん、おはようございます。一昨日は足首の薬をありがとうございました」


 薄水色のワンピースを摘んで礼をする。ドロシアさんは、にやりと笑ってお兄さまを見た。


「まあ、この世の終わりかというような顔で公爵家の後継さんに駆け込まれちゃ、薬を調合しないわけにはいかないね」


 今にも泣き出しそうな表情でドロシアさんの元へ駆け込むお兄さまの姿が目に浮かぶようだ。普段の過保護っぷりから考えるとすこしも意外ではない。


「感謝してるよ、ドロシアさん。おかげでエマは歩けるようになったんだから。――抱きかかえて歩く口実がなくなってしまったのは残念だけどね」


 いつもの調子でお兄さまは私の体を引き寄せる。ドロシアさんの前で密着するのは気恥ずかしかったが、元気なお兄さまを見ているのは気分がよかった。


「こんな厄介な兄がいては、お嬢さんも苦労するね。何をするにもくっついてきて鬱陶しいだろう」


「ひどい言いようだな、ドロシアさん」


 ふたりの親しげなやりとりに、思わずくすくすと笑ってしまう。軽口を叩き合えるほどの間柄のひとなんて、私にはいないから羨ましいくらいだ。


「……よかったね、幸せそうで。あの頃とはまるで別人だ。あたしが心配することは何もないね」


 ドロシアさんはふっと目を細め、お兄さまを見ていた。雪崩の事故にあった直後のお兄さまを、知っているのだろう。


 お兄さまはゆっくりと頷くと、私を引き寄せた腕に力を込めた。


「そうだね……エマがいる限りは、生きていてもいいと思える」


 しゃら、と淡雪の大樹が揺れる。お兄さまは虹色に光る葉を見上げ、一瞬だけ何かを懐かしむように目を細めた。


「……それは大変だ。お嬢さんには長生きしてもらわないと。おいで、出発前に健康にいい薬草を分けてやろう」


「まあ、ありがとうございます」


「ついでに美容にいいハーブティーもつけてやる」


「美容に!? それはとっても嬉しいですわ」


「ドロシアさん、エマをこれ以上可愛くしてどうするんだ……」


「お兄さま……お願いだからお外でそういうことはおっしゃらないで!」


 顔を赤くしながら、ドロシアさんのもとへ歩み寄る。彼女は悪戯っぽく目を輝かせたかと思うと、そっと私に耳打ちをした。


「――惚れ薬はないけれど、寝所で使える香水を作ろうか?」


「なっ……」


 予想外のからかいに、眩暈がしそうだった。さすがは魔女と呼ばれる薬師なだけある。大胆だ。


「まあ、お嬢さんにはまだ早いか」


 けらけらと笑いながら、ドロシアさんは薬草とハーブティーの入った袋を手渡してくれた。甘く爽やかな香りが立ち上り、抱きかかえているだけでもいい気分だ。


「次はどこへいくんだい? まだ王都へは戻らないんだろう?」


 ドロシアさんの問いに、お兄さまはいちどだけ頷いて南の方角を見据えた。


「次は、神殿直轄領エルティアへ行くつもりだよ。仕事というより、観光が主な目的だけれどね」


「ついにエルティアへ……! 楽しみですわ!」


 薬草の袋を抱きしめたままぱっと表情を明るくすれば、いつの間にか再び隣を陣取っていたお兄さまに頭を撫でられた。今回の旅でエルティアへの訪問を私が楽しみにしていたことを、お兄さまもご存じなのだ。


 ……次はお兄さまとどんな思い出を重ねられるかしら。


 彼が隣にいる光景を想像するだけで、心の奥がじわりと温かくなる。旅を進めるにつれ、彼への恋心は甘く膨らんでいく一方だ。


 ……旅が終わるころには、お兄さまへの「大好き」で息もできなくなってしまいそう。


 隣に立ったお兄さまの手を、そっと握り込む。この手を握ってさえいれば、たとえどんな悪夢の中でも突き進めるような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 かしゃん、と硝子の割れる音が神殿の中にこだまする。今日も、あの女が癇癪を起こして神殿の備品を壊しているのだろう。


「うるさい、うるさいわ! 何をするにもしきたりしきたりって……これじゃあ、囚人と変わらないじゃない!」


 ついに聖女のベールを纏うこともやめたイザベラが、うねりのある黒髪を振り乱して叫ぶ。聖女に就任してまもなくふた月になるというのに、巡礼の旅に出るどころか日々の祈りさえ放棄している始末だ。


 神殿にいる誰もがもう、彼女には期待していない。けれども女神さまのご意志が反映された聖女の儀で選ばれてしまった少女である以上、無下にも扱えない。


 聖女付きの神官の地位を競って手に入れた者たちも、近頃は地方の神殿や別の役職を希望してひとり、またひとりと辞めていくのが日常茶飯事になっていた。残念ながら大神官の地位を賜り、聖女の教育係という役目を追っている僕は、そう簡単にやめるわけにもいかない。


 けれど、このまま黙ってあの女の横暴に耐えるつもりはなかった。聖典を鞄にしまい込み、純白の外套を羽織る。


「君は聞いたか、旧ラーク子爵領の淡雪の大樹の話」


「はい、雨季でもないのに三日三晩続けて雨が降って、弱っていた大樹の葉が虹色に輝くようになったとか。女神さまのお恵みですね」


 神官たちは、このところ旧ラーク子爵領の礼拝堂から上がってきた報告を口々に噂していた。聖女の装束や、神官の神具にも用いられる淡雪の大樹の葉の話題ともなれば、彼らの関心を惹きつけるのは当然だった。


「いや……きっと、エマさまが降らせてくださったのだろう。雨が降った時期に、エマさまは兄君と淡雪の大樹のそばの礼拝堂に滞在なさっていたと聞く。エマさまが、『ルナの祈り』を使って、慈雨を降らせてくださったんじゃないだろうか」


「エマさまが……。なんと、なんと尊いお方でしょう。聖女に選ばれずとも、民や動植物を慈しみ、祈り続けていらっしゃるなんて……」


「ああ……俺たちは、得難いひとを失ってしまったな」


 ……そうだ、エマさまは神殿の光のようなひとだったのに。


 純白の外套のフードを深く被り、黙々と廊下を突き進む。イザベラが支配する神殿の中は、どこかどんよりと澱んでいるような気がして体が重かった。


「ルカ大神官殿、お出かけですか」


 声をかけてきた門番を一瞥する。以前、聖女選定の儀について噂していたものたちだ。


「はい。……ある尊いお方に、会いに行って参ります」


 にこりと微笑みを浮かべれば、門番たちは敬礼してみせた。


「お気をつけて! お帰りをお待ちしております」


 彼らの声を背中で受け止めながら、用意された馬車に乗り込む。外から扉を閉める御者に、ぽつりとつぶやいた。


「――では、予定通り、神殿直轄領エルティアへ」

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