第4話 僕と同じところまで堕とすには

 礼拝堂の玄関広間では、落ち着かない様子のリリアが待ち構えていた。彼女は私の姿を一目見るなり、心得たように浴室へ案内してくれる。


「お嬢さまの湯浴みは私が手伝いますから、アシェルさまもご自分のお召し物を取り替えてきてくださいませ」


 リリアにそう言われ、浴室の扉が閉まる直前まで、お兄さまの暗い瞳がこちらを見据えていた。扉がしっかりと閉じたと同時に、リリアが濡れた外套を引き剥がし、ワンピースを脱がせてくれる。


「こんなにびしょ濡れになるまでお出かけるになるなんて聞いておりません! お出かけする前も、どこかご様子がおかしかった……。お止めするべきでした」


 リリアは私の体についた泥を洗い流すと、香油を溶かし込んだ湯船に私を誘導した。


「ごめんなさい……悪い夢を見たせいで、なんだか気分が落ち込んでしまって。そのせいで、注意が散漫になっていたの」


「アシェルさまはおそらく相当怒っておいでです。……お嬢さまが出かけていることを隠し通せなかったのは私に非がありますが、お叱りを覚悟なさってください。アシェルさまがあれほど取り乱すお姿は初めて拝見しました」


「……ちゃんと、叱られてくるわ。私が悪かったもの」


 私だって、お兄さまの動揺がどれだけのものかわかっているつもりだ。お兄さまに黙って「ルナの祈り」を使おうとしたのが間違いだった。


 リリアの手を借りて髪も体も石鹸で清めた後、柔らかなネグリジェに着替えさせられた。髪はまだ湿っているが、十分にお湯で温まったおかげで寒くない。


 浴室を出て私にあてがわれた客間へ戻れば、当然のようにお兄さまが待ち構えていた。リリアの手を借りて、寝台の縁に腰掛ける。


「リリア」


 お兄さまの呼びかけに、リリアは心得たように視線を伏せて礼をした。


「……ご入用のものがあれば、すぐにお持ちいたします」


 ぱたん、と扉が閉じられ、客間には私とお兄さまのふたりだけが残される。いつもならばお兄さまとの沈黙はすこしも気まずくないのに、今は罪悪感のせいで落ち着かない気持ちになった。


 ……何を、言えばいいかしら。「心配かけてごめんなさい」? 「二度とこんなことはしない」?


 間違ってはいない言葉なのだろうが、沈みきったような様子のお兄さまには届かない気がしてならなかった。

  

 お兄さまはサイドテーブルの上から何やら小瓶を取り出すと、寝台の縁に腰掛けた私の前に跪いた。この体制には驚いてしまう。


「お兄さま……?」


 彼は私のネグリジェの裾をわずかに捲り上げると、右足首を観察した。先ほどはわからなかったが、捻った影響なのかすこし腫れ上がっている。


 彼は何も言わずに小瓶の蓋をあけると、中にあった塗り薬を足首に塗ってくれた。ハーブのような香りと共に、すっとする感覚が通り抜けていく。熱を持っていたような足首が、ずいぶんと楽になった。


「お兄さま……ありがとう」


 そっと、足首に触れてみる。お兄さまの塗って下さった塗り薬が、優しく染み渡るようだった。


 足首に触れる私の手に、ふと、お兄さまの手が重なる。お兄さまの手は大きいから、すっかり包み込まれてしまった。


「……僕にも、『ルナの祈り』が使えればよかった。君は、人のために力を使うばかりであまりに自分を顧みないから」


 まるで独り言のようにつぶやかれた言葉は、ひどく静かだった。


「ルナの祈り」は、使い手が己の傷を癒すことはできない。聖女の祈りはあくまで人のために捧げられなければならないのだ。だからこそのお兄さまの言葉なのだろう。


「お兄さま……ごめんなさい。『ルナの祈り』で雨を降らせるために、ほんのすこし外に出るだけのつもりだったんです。倒れないように気をつければ、力を内緒で使っても大丈夫だろうと思って……」


 何を言っても、言い訳になってしまう。結果的にお兄さまに迷惑をかけたことに変わりはないのに。


「わかっているよ。淡雪の大樹の葉にひびが入ったままでは僕が困るだろうと思って、雨を降らせてくれたんだよね」


 お兄さまは口もとを緩めて受け応えた。だが、鮮やかな新緑の瞳は依然として暗く、すこしも笑っていない。むしろその瞳に宿る感情は、微笑みとは正反対の、憎悪や苛立ちのようにも思えた。


「君は優しい子だ。誰のことも慈しんで、誰かのために力を尽くそうとして……そんな君を誇らしいと思っていることに嘘はないよ。君は、すばらしいひとだ」


 ゆらり、とお兄さまが跪いた姿勢から立ち上がる。寝台に座り込む私を、深い影が包み込んだ。


「でも、こうして君が傷つくたびに……君が誰のことも嫌いになればいいのにと願っているのも本当だ。君に好かれていたいけれど、君が僕を大切にすることで君が傷つくのなら、僕のことも大嫌いになってほしい」


 いつも頭を撫でてくれる優しい手が、ゆっくりと銀の髪を梳く。指先から、白銀がこぼれ落ちていく。


「君が自分以外の誰のことも大切にしなくなれば、君は傷付かずに済むのかな。君に祈りを忘れさせて、僕と同じところまで堕とすにはどうすればいいか……ずっと考えている。君が、聖女候補に選ばれたあの日からずっと」


 ふっとお兄さまに肩を押され、体が後ろに傾いていく。そのまま、なすすべもなく柔らかな毛布の上に倒れ込んでしまった。ぎし、と寝台が軋む音とともに、覆い被さるように黒い影が落ちてくる。


 雨が降り頻る薄闇の中で、彼の新緑の瞳だけが浮かび上がるように私を見ていた。この暗がりの中でもわかるほどに翳った新緑を前に、吸い込まれるように身動きが取れなくなる。


 ……私、この瞳を以前にも見たことがあるわ。


 遠い昔、冬の孤児院で初めてお兄さまにお会いした日のこと。


 この世のすべてを恨んでいるかのような彼の瞳の暗さに、私はひどく衝撃を受けたのだ。


 ――僕に近づくな。君も、女神から見限られるぞ。


 この国では、雪は女神ネージュの祝福の象徴だ。雪の事故で命を落とす者は、女神の祝福を受けられない罪人の生まれ変わりだという古い教えがあった。


 雪崩に巻き込まれ家族を失ったお兄さまは、その古びた教えのせいでどれだけ苦しんだだろう。愛する家族がひとり残らずいなくなっただけでなく、まるで家族を罪人のように言われるなんて。どれだけ理不尽な思いを味わっただろう。


 ……僕と同じところまで堕とすには、なんて。


 お兄さまはきっと今も苦しんでいる。時が経って、優しく人好きのする笑みを浮かべるようになったけれど、幼いころに受けた心の傷が完全に癒えるはずがない。


 そっと、こちらを見下ろすお兄さまの顔に両手を伸ばす。顔の輪郭を包み込むように指先を添わせ、ゆっくりと近づけた。そのまま、祈るように睫毛を伏せ、額に口づけをおとす。


「この世のすべてが憎らしくなっても、慈愛も祈りも忘れてしまっても……あなたを嫌いになる日は永遠に来ません、お兄さま。あなたを嫌いになるくらいなら、私は祈りを手放します」


 ささやくように告げて、彼のまぶたにくちづける。石鹸と彼の優しい香りが入りまじって、心の奥が解きほぐれていくようだ。


「……っ」


 お兄さまは息を呑んだかと思うと、私に体重を預けるようにして首筋に顔を埋めた。息がしづらかったが、今はこの息苦しさも愛おしい。洗いたての黒髪が頬に擦れてくすぐったかった。


「僕はやっぱり罪人なのかもしれない。君のような清らかなひとを、女神から奪おうとしている」


 吐息混じりの笑い声は、どこか自嘲気味にも聞こえた。かつてのお兄さまはよく、そういう笑い方をしていたものだ。


「……いなくならないで、エマ」


 その声には、決して叶わない願いを口にするような切なさが秘められていた。今だけは、私に縋り付くお兄さまが自分よりも年下の少年のように思えてならない。初めて出会った日の姿が重なっているせいもあるだろう。


「はい……私はずっとおそばにおります、お兄さま」


 首筋に埋められた彼の頭を抱くように、そっと腕を回す。体が冷えていたせいだろうか。絡み合うように抱きしめあうと、不思議と恋愛的なときめきよりも安心感がまさった。


 ……私をただのエマとしてこんなにも必要としてくださるのは、お兄さまだけだわ。


 いなくならないで、は私の台詞だった。お兄さまがそばにいないと、私はきっともうまともに息もできない。鈍いお兄さまはきっと、私のそんな気持ちには気づいていないのだろうけれど。


 彼の後頭部に添えていた手を、そっと背中へ回す。軽く寝返りを打って、お互いに向かい合うように体を横にした。体の上に乗せられたお兄さまの腕の重みが心地よい。


 そのまま擦りよるように、お兄さまの胸に顔を埋めた。じんわりと温かな幸福感で、心が満ちていく。それから大きく深呼吸をして、ゆっくりと瞼を閉じた。


 心地よい微睡に囚われる。ただでさえ「ルナの祈り」を使って疲れているのだ。お兄さまの優しい温もりに包まれて、眠るなというほうが無理な話だった。


 それは、お兄さまも同じだったのかもしれない。私たちはぴたりと抱きしめあったまま、深く安らかな夢の中へ誘われていった。

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