第3話 聖女ではないあなたなど
遠くで、水の滴り落ちる音が響いている。きっと、祭壇の周囲に張り巡らされた水路から聞こえているのだろう。凍えるほどに静まり返った神殿の中では、同室にいる神官の息遣いまでも聞こえてくるようだった。まるで見えない糸がぴんと張り詰められ、わずかでも身動きをすれば神官に心の動きも何もかもが伝わってしまうかのような緊張感だ。
さらさらと、ペンを持つ手を滑らせる。力の弱い私は、分厚い聖典から祈りの言葉を書き出し、効率的に「ルナの祈り」が使えるよう訓練しなければならない。
「今、文字が乱れましたね」
背後に座っている純白の神官が、氷のように冷ややかな声で告げた。びくりと肩を震わせて背後を振り返れば、彼は髪と同様に真っ白なまつ毛をゆっくりと押し上げて、獣のような金の瞳をあらわにするところだった。
私の書き付けなど、とうてい見える距離ではない。ましてや瞼を閉じた状態で文字の乱れを指摘する彼は、只者ではなかった。若くして神官長直属の大神官に選ばれるだけのことはある。
「怯えているのですか。感情はあらわになさらないよう繰り返しお伝えしているはずですが」
「……申し訳ありません」
「心が乱れると『ルナの祈り』も乱れる」というルカ神官の教えのもと、笑いも泣きもしないように気をつけている。けれど、彼に叱責されるときだけは、いまだにどうしても肩が震えてしまうのだ。それくらい、私にとってルカ神官は恐ろしいひとだった。
「あなたは強い『ルナの祈り』に恵まれなかった。けれどもあなたは聖女になるべきひとです。限られた力の中でより多くの人を救うために、努力を惜しまないでください。感情などという俗世のものは、あなたにはふさわしくない」
ルカ神官は、時折こうして私を神聖なものか何かのように思っているような発言をした。それだけ私に期待してくれていたのかもしれないが、人間扱いされていないようなこの崇拝じみたまなざしが胸を苦しくさせているのは確かだった。
これ以上ルカ神官に叱られぬよう、細心の注意を払って聖典の書き付けを再開する。黙々と、呼吸すらも一糸乱れぬように気を張り詰めて取り組んだ。神殿に差し込んでいたやわらかな日差しが、床を赤く染め上げるようになるまでずっと。
「ルカ大神官」
ペンを持つ私の手の影が長く伸びるようになったころ、ルカ神官の部下らしき神官が部屋の外から声をかけた。
「エマさまのお迎えに、アスター公爵令息がいらしております」
その言葉に、ぴくりと反応を見せてしまった。時間が許す限り、お兄さまはこうして私を迎えに来てくださる。永遠に続くかのように思われたルカ神官との聖女教育から救い出してくれるのは、いつだってお兄さまだった。
「……今、喜びましたね」
ルカ神官の声に、はっとする。頬の筋肉はとっくのとうに固まってしまって、微笑むことすらできなくなっているのに、彼は私の些細な心の揺らぎも見逃してはくれない。
ルカ神官は、長い純白の三つ編みを揺らして溜息をついた。金の瞳は、窓の外を見据えている。
「アスター公爵令息は、あなたの心を惑わせてばかりいるようです。聖女を堕落させようとするなんて……まるで魔の者ですね」
……お兄さまが、魔の者ですって?
ルカ神官の言葉などなんでも受け流せるつもりでいたが、これには心がざわついた。血が、沸き立つような怒りを覚える。
表情は決して崩さずに、静かにルカ神官の瞳を射抜く。いくら聖女の教育係でも言っていいことと悪いことがある。
「……怒っているのですか。表情は消えても、あなたの心の動きは面白いくらいによくわかります」
ルカ神官は椅子から立ち上がり、ゆっくりと私との距離を詰めた。彫像のように冷たく整った顔立ちに、氷の微笑みが浮かぶ。
「しかし、いけませんね。ひとりの人間を特別視するなんて。あなたは未来の聖女、すべての民を平等に慈しんでいただかなくては」
彼の言いたいことは、わかる。聖女はひとりを特別視してはならない。伴侶となる王太子殿下のことでさえ、敬虔な民のひとりとして扱わなければならないのだと。
けれど、心を完全に殺すことは無理だ。すくなくとも私には。
お兄さまを、他の人と同じように扱うことができる日なんて、きっと一生来ない。
「……不満ですか? 聖女らしからぬ鋭いまなざしをなさっていますね」
ルカ神官の指が、私の目もとに伸びた。雪のように冷たい指先が、目の縁をなぞるように薄い皮膚の上を滑る。
「……あなたには感謝しています、ルカ神官。けれど、私が生きている限り、あのひとを切り捨てることはない。それだけは覚えておいてください」
ルカ神官に対して、ここまではっきりと反抗することは初めてだった。普段得体の知れぬ微笑みばかり浮かべている彼が、初めて表情を乱す。
お兄さまを侮辱された怒りはいまだ収まらず、これ以上じっとしていられなかった。聖典と書付を乱雑にまとめ、白い椅子から立ち上がる。
「……ごきげんよう、ルカ神官。女神ネージュの祝福がありますよう」
苛立ちを滲ませた声で祈りの言葉を紡いで、廊下へつながる扉を目指す。だが、背後からルカ神官に腕を掴まれ、そのまま壁に押し付けるように行く手を阻まれてしまった。
いつもよりも近い距離で見上げる彼の瞳は、怒りとも悲しみとも取れる熱で歪んでいた。普段は、こんな強引な手段をとるひとではないのに。
「……僕の前で、二度とそのようなことはおっしゃらないでください。あなたは、聖女になるべきひとだ。ひとりの人間に、惑わされてはならない」
「お兄さまを切り捨てなければ聖女になれないというのなら……私はただの人間でいい。それくらい、彼は大切なひとです」
睨むようにルカ神官を見上げれば、月夜に雲が流れるように、金の瞳がすうっと翳っていく。あからさまに不穏な空気感に、肌が粟立った。
「聖女ではない、あなたなど――」
ルカ神官はぽつりと呟きながら、聖女の装束からあらわになった私の首筋に手を伸ばした。恐ろしいほど冷ややかな手に触れられ、氷の首輪でもつけられたかのように息ができなくなる。翳る金色の瞳に囚われて、ただ捕食されるのを待つ獲物のよう身動きが取れなくなった。
「何をしている?」
不思議で不気味な沈黙を破ったのは、お兄さまの声だった。私もルカ神官もはっと我に帰り、突如現れたそのひとを見上げる。お兄さまは警戒するようにルカ神官を睨みつけると、私を後ろ手に隠した。
「ルカ大神官、これはなんの真似かな? 大切な聖女候補に――エマに気安く触れないでいただきたい。このことは、神官長に報告させてもらいますよ」
あからさまな敵意をにじませて、お兄さまは私の手を取り部屋を出た。お兄さまの手に触れて、凍りついていた血が緩やかに溶けていくような心地がする。
……お兄さまが助けてくださらなかったら、ルカ神官は――。
そっと、先ほどまで彼が触れていた首筋に指先を這わせる。氷のような体温の名残がまだ、皮膚の上にうっすらと残っているような気がした。
◇
ぱらぱらと雨が降りしきっている。生成り色の外套に身を包み、私は淡雪の大樹を訪れていた。フードを深く被っているので、髪が濡れることもない。
私が降らせた雨は、徐々に弱くなっているようだった。やはり、この辺りでもういちど「ルナの祈り」を使うべきだろう。幸い、先ほどまで休んでいたおかげで体力はずいぶん回復していた。
そう、休んでいたせいであのような悪夢を見てしまったのだ。思い出したくもない、不気味な記憶だった。今でも、神官を見かけるたびに首筋にひやりとした感覚が蘇る。
……あのとき、ルカ神官は、聖女でない私ならば「生きていても仕方がない」と言おうとしたのよね。
彼にとって私の価値は「ルナの祈り」が使えるというただ一点に限るのだろう。聖女に選ばれなかった私のことなど、すでに意識の外に追いやられているはずだった。私の心の傷は、まだ癒えないのに。
暗い気持ちになりながら、大樹の前で指を組む。外套からはみ出た両手に、雨粒が滴り落ちた。
「女神さま、雨をお恵みください――『祝福を待ち望む憐れな命に、女神の慈雨が降り注ぎ、輝きを取り戻すだろう』」
ぐらり、と視界が傾くような感覚のあとに、雨脚が強まった。組んだ指の周りには、青白い光の名残が舞っている。どうやらうまくいったようだ。疲労感も増したが、倒れるほどではない。
……これで、淡雪の大樹も治りそうだわ。
無事に、お兄さまは使命を果たすことができるだろう。陰ながらその手助けをすることができて嬉しかった。
ほう、と息をつき気を緩めたその瞬間、濡れた大樹の根に足を取られ、派手に転んでしまう。右の足首が、妙な方向へ曲がった気がした。
「……っ」
泥の中でうずくまりながら、右足首を見る。折れてはいないようだが、捻ったのは間違いないようだ。せっかく気を失わないように気をつけていたというのに、怪我をしてしまっては元も子もない。お兄さまに心配をかけたくないのに。
……やっぱり、うまくいかないな。
悪い夢のあとだからか、余計に気分が沈み込む。雨音は、私を世界から隔てる檻のようだった。自分で降らせた雨なのに、笑える話だ。
涙なのか雨粒なのかわからない液体を隠すように、膝を抱えて顔を埋めた。リリアには、お兄さまの目を欺くために客間で待機してもらっている。ここにはしばらく誰もこないだろう。夜になる前に戻らなければならないが、すこしだけ休みたかった。
雨音にまじって、淡雪の大樹の葉がしゃらしゃらと音を立てている。まるで、現世ではない神聖な世界に迷い込んだかのようだった。清廉な音を聞いていると、ぐるぐると渦巻く心の中がすこしずつ穏やかになっていくような気がする。
油断すると、眠くなってしまいそうだ。慌てて膝に埋めていた顔を上げたそのとき、ばしゃばしゃと雨の中をかける足音が聞こえた。
「エマ!」
叫ぶように悲痛な声に、びくりと肩を震わせる。その人影は私の名を呼びながらあたりを見渡しているようだった。
「エマ‼︎」
……お兄さま?
私が礼拝堂を抜け出したことが、知られてしまったのだろうか。それにしたって礼拝堂を離れてから半刻も経っていない。こんな雨の中、わざわざ探しに出てくるなんて思いもしなかった。
「お兄さま……!」
申し訳ない気持ちで慌てて立ちあがろうとするも、右足首が思ったよりも痛んでしまい、うまく立ち上がれなかった。だが、雨音の中でも私の声は届いたようで、遠くに見えていた人影が、今度は迷わずこちらへ向かってくる。
「エマ!」
お兄さまは、外套も纏わずに雨の中をかけていた。柔らかな黒髪も衣服もすっかり濡れてしまっている。泥はねも気にせずに駆け回っていたのか、革靴は元の色がわからないほど灰色に染まっていた。
お兄さまは私の目の前まで駆け寄ると、こちらが何か言うよりも先に滑り込むように私を抱きしめた。背中に回った腕にぎゅう、と力がこもる。息苦しさを覚える強さだった。
お兄さまは、しばらく何も言わずに私を抱きしめていた。縋り付くように抱きしめる力を強める姿に、ますます言葉を見失ってしまう。
……悪いことをしてしまったわ。すこしの間なら平気と思ったのがいけなかった。
心配性なお兄さまに、これ以上心労をおかけしたくないのに。ますます自分がだめなように思えて、気分が沈んだ。
「お兄さま……私……」
謝罪の言葉を探るように口を開いた瞬間、彼は沈黙を貫いたまま私を抱き上げた。なすすべもなく、半ば連行されるようなかたちで淡雪の大樹から離れる。向かう先はもちろん、滞在中の礼拝堂だった。
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