第7話 神殿の噂

「ちょっと、いつまで待たせるつもり? 晴れて婚約者になったのに、毎回こんな堅苦しい手続きを踏まないといけないわけ?」


 純白の装束を纏い、薄いベールで素顔を隠した少女が悪態をつく。彼女の周りに控えている女性神官たちは、びくりと肩を震わせて怯えていた。それももう、悲しいことに見慣れた光景だ。


 ……やっぱり、こんなことになるだろうと思っていた。


「……イザベラさま、何度も申し上げている通り、あなたには殿下にお会いするより先にやるべきことが山ほどあります」


「うるさいわ。神官の分際で、聖女の私に口を出さないでちょうだい」


 黒髪の少女は、金切り声を上げて癇癪を起こした。背後に控える神官たちは、身を縮こまらせている。


 頭が痛い。神官として、この女を主人と崇め仕えなければいけない現状にも、あの方がここにいない現実にももううんざりだ。この女が聖女に選ばれてからというもの、神官を辞す者が後を絶たないし、僕自身、何度神官をやめようと考えたことだろう。


 ……でも、辞めるわけにはいかない。


 ――ルカ神官、あなたのような清廉なひとが神官で、女神さまもさぞお喜びになっているでしょうね。


 まだ幼かったあの方が、静かに言い放った言葉が蘇る。代々神官を務める家に生まれ、仕方なく祈りを捧げていただけの僕に、あの方が生きる意味を与えてくれた。あの方がそう言ってくださった以上、僕は一生神官なのだ。


 ……本当ならば、あの方にお仕えするはずだったのに。


 まさかこの女が「聖女」となるなんて、考えてもみなかった。確かに「ルナの祈り」の力はあの方よりも強いのかもしれないが、聖女にふさわしい器はどう考えてもあの方のほうだったのに。


 聖女選定の儀で聖女に選ばれたイザベラは、王太子殿下の婚約者としての権力は存分に振るうものの、聖女の仕事をろくにしない。本来ならば各地に新たな聖女の誕生を知らしめるべく巡礼の旅に出るころなのに、体調が悪いだの「ルナの祈り」の調子が悪いだのと言い訳をつけて一向に出発の気配を見せないのだ。聖女の最低限の義務と言える毎日の祈りすらも、面倒だと訴えて真面目に取り組もうとしない。


「……王太子殿下に早くお目通りが叶うよう、調整してください」


 控えていた王城側の従者に耳打ちをして、部屋を出る。イザベラの金切り声を聞いているだけで吐き気がしそうだ。


「なあ、聞いたか、旧ラーク子爵領に現れた聖女の話」


「ああ。銀髪に藤色の瞳の少女って……」


「まあ、十中八九エマさまだろうな。兄君の旅に同行しているらしいし」


 こそこそと噂話をしているのは、神殿を守る護衛たちのようだ。本来なら元聖女候補にまつわる噂話など許されるべきではないが、咎める気力が起きなかった。僕自身、同じような気持ちだからだ。


 ……エマさま、あなたは聖女候補でなくなっても、人々のために力を尽くしていらっしゃるのですね。


 あの方が、旧子爵領で怪我人の命を救った話は、ルーア神官を通してとっくに知っていた。ご自身が倒れるまで「ルナの祈り」を使い、見事五人もの命を救ったのだという。


 その噂は神官たちだけでなく、民の間にも広がっているらしかった。


 ……巡礼の旅にも出ない聖女と、人々を助け続ける元聖女候補の令嬢か。


 溜息が尽きない。我々は手放してはいけないひとを手放してしまったのだと、もうとっくに誰もが気がついていた。


 もっとも、選んだのは女神なのだから文句をつけようにもつけられないのが心苦しいところだった。


 聖女選定の儀は、聖女候補を見極める鐘のある小さな礼拝室で行われる。王太子が二十歳を迎える夜に、聖女候補の少女たちの髪を一房、それぞれ別々の小箱に入れておく。翌朝小箱を開けると聖女となるべき少女の髪が入った小箱には、白銀に輝く雪が降りつもり、中には氷でできた花が咲いているのだ。女神ネージュの成せる奇跡の業だった。


 礼拝室は聖女選定の儀の一週間前から厳重に閉ざされ、何人たりとも儀式の朝まで足を踏み入れることはできない。そうして儀式の朝になってようやく、神官長をはじめとした十二人の神官で、どの聖女候補の小箱に氷の花が咲いているかを確認するのだ。


 透き通る氷の花がイザベラの小箱に咲いている様子は、十二人の神官の一人として、僕もこの目で確認した。小箱をそっと開ければ、イザベラの黒々と輝く髪のそばに、美しい氷の花が咲いていたのだ。あのときの絶望は、きっと一生忘れられない。


「女神さまのお考えはよくわからないな。どう考えてもエマさまの方が聖女にふさわしいだろうに」


「……滅多なことを言うな。聖女さまや殿下のお耳に入れば、首を飛ばされるかもしれないぞ」


「でも疑いたくなるのも無理はない。案外、神官たちの見間違えだったりしてな」


「銀髪と黒髪をか? 神官長と大神官十二人で確認してるんだぞ」


「まあ、見間違えようがない色だよな」


 そうだ。あの方の美しい銀髪を、見間違えるはずがない。何度も何度も確認したのだ。黒髪の入った小箱に、氷の花が咲いている様を。見る度に味わった絶望も、まざまざと思い出せる。


 それなのに、妙に胸がざわつくのは何故だろう。先ほどから、全身の血が震えるような心地がしてならなかった。


 ……何を、不安になっているんだ。


 馬鹿馬鹿しい、と自嘲気味な笑みを浮かべたが、何かが引っかかる。あの朝に見かけた小箱の中身を必死に思い出した。だが、何度思い返してみても、目に浮かぶのはうねりのある銀髪とくせのない黒髪が小箱に収められ、黒髪の方に花が咲いている光景ばかりだ。


 ……あれ、あの方の御髪は、癖のないまっすぐな髪ではなかったか。


 引っ掛かっていたのは、そこだろうか。色ばかり気にして、あのときは髪質のことなど微塵も気にしていなかった。だいたい、個人を同定するにはあまりに不確定な情報だ。


 ……そうだ、馬鹿げている。天気や洗い方によって、髪がうねることくらいあるだろう。


 それなのに、心臓はまるで警鐘を鳴らすように早まっていた。考えと裏腹に脳裏に浮かぶのは、癖ひとつない銀糸のような髪を、初夏の爽やかな風に靡かせるあの方の後ろ姿だった。


「は……」


 馬鹿げた妄想だ。だが、ちくりと引っ掛かったものは深く胸に食い込んで、絶えずじくじくと痛みを訴えるようだった。


 ……もういちど、箱を確認することができるだろうか。


 聖女選定に使われた髪と小箱は、すべて神殿の地下に保管されている。大神官の権限で、それを検めることができるかもしれない。


 一歩間違えれば、聖女選定の儀に異を唱えるような行いだ。破門されてもおかしくない。


 ……それでも、やってみるしかない。


 やらなければ、この胸の痛みとは決別できない気がする。思わずぎゅう、と胸を押さえつけた。心臓は早鐘を打ったままだ。


 だが、脈が早まっている原因が、聖女選定の儀にひっかかりを覚えたから、という理由だけでないのはわかっていた。僕は、心のどこかで期待しているのだ。


 ……もしあの聖女選定の儀に何か不正があれば、そのときは――。


 ふっと、目の前が明るくなるような気がした。この神殿の光ともいうべきひとが、白い装束をまとって神殿の主として君臨する様を夢想する。


 ……そのときは、きっと、お迎えに馳せ参じます。


 誰より清らかで美しい、氷の聖女。


 エマ・エル・アスターさま。

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