第二章 淡雪の大樹
第1話 わがままな大樹
「お嬢さま、ご覧ください。あちらの山の頂には、まだ雪が積もっているようですよ」
「本当だわ。この辺りはお花でいっぱいなのに、なんだか不思議な光景ね」
祝祭から十日。私たちは旧ラーク子爵領の山岳地帯にある「淡雪の大樹」を目指して移動していた。街から距離はさほど遠くないが、馬車が通れない道もあるため慎重に移動を重ねて登ってきたところだ。
「エマ、体はつらくない? もうすぐ着くからね」
「平気です。ありがとうございます、お兄さま」
お兄さまの手を借りているおかげで、ほとんど体に負担はかかっていない。
もうすぐ「淡雪の大樹」のそばにある礼拝堂にたどり着く。この辺りは宿屋もないので、今夜は礼拝堂に泊まらせてもらう手筈になっていた。
「ほら、見えてきたよ。あの木が『淡雪の大樹』だ」
「まあ、あれが……!」
お兄さまが指差した先には、樹齢千年は超えていそうな立派な大木があった。その大きさだけでも圧巻だが、あの木が「淡雪の大樹」と呼ばれるのは別の理由があった。
「なんて、美しいの……」
その大樹には、雪の結晶のように白銀に輝く葉がついていた。柳のように雪の結晶を模した葉が連なっていて、風が吹くたびにしゃらしゃらと音を立てて揺れる。この世のものとは思えないほど繊細で、幻想的な光景だった。
「もっと近くで見てみる? 人の手ではとても作れないほど細やかで繊細な形をしているんだよ」
お兄さまの手に導かれ、大樹の根元まで移動する。背伸びすれば届きそうなほどに長く伸びた枝葉は、陽の光を受けてきらきらと煌めいていた。
「あ、これ……」
ふと、雪の結晶のような葉が連なっている様子に、既視感を覚える。同時に連想されるのは聖女の装束だ。
「エマは神殿で見たことがあるかもしれないね。そうだよ、これは聖女の正装の一部に飾りとして使われているんだ。聖女が代替わりするたびに、この地から献上している特別なものなんだよ」
「知りませんでした。旧ラーク子爵領のものだったのですね……」
お兄さまに言われて完全に思い出した。いちど神官に、聖女の正装を直接見せてもらったときにこの透き通る葉が連なったような装飾を見かけたのだ。神殿で心を動かされることなど滅多になかったのに、あのときは思わず息をついて見惚れたものだ。
「あまり公にされていることでもないから知らなくて当然だ。代々、これを直接神殿に持っていくのがラーク子爵家の習わしでね。正直、イザベラ嬢のために準備するのは癪だけど……子爵家の生き残りとして、これだけはやり遂げたかったんだ」
お兄さまは懐かしむように淡雪の大樹を見上げた。その横顔に少なくはない寂しさを見出して、ずきり、と胸が痛む。
……そうよね、ここは、お兄さまにとって忘れられない土地だもの。
お兄さまはいつも通りに振る舞っているが、本当はここに足を踏み入れるのは勇気がいることだっただろう。
お兄さまのご家族は、この大樹から程近くにある屋敷に滞在中に雪崩に巻き込まれ、亡くなられたのだから。
何か言葉をかけようと口を開いたのに、声が出てこない。家族を亡くしたことのない私には、お兄さまの気持ちが推し量れるとはとても思えなかった。何を言っても、届かない気がする。
「……あれ? この葉、なんだかおかしいね」
お兄さまは頭上の葉に触れながら、訝しむように呟いた。彼の手もとをよく見ようと、私も背伸びをする。だが、ふらふらとしてしまってあまりよく見えない。
その瞬間、お兄さまが屈んだかと思うと、膝を抱えるようにして持ち上げられた。抱き上げられた結果お兄さまよりも頭が高くなり、淡雪の大樹の葉をよく観察することができる。
「あ……本当です。なんだか不自然なひびが入っています」
硝子のように硬質なその葉には、よくみると所々にひびがはいっていた。模様の一種と捉えられなくもないが、少し力を加えると壊れてしまいそうに見える。
それも、ひとつだけではない。見渡す限りほとんどの葉にひびが入っているようだった。お兄さまの表情が明らかに曇る。
「困ったな……これでは神殿に持っていけない」
お兄さまは私を地面に下ろし、小さく息をついた。
「……いつからこうなっているのか、管理者に話を聞いてくるよ。エマは先にリリアと礼拝堂へ言って休んでおいで」
お兄さまが困っているせいで私も不安げな表情をしていたのだろうか。彼は安心させるような微笑みを浮かべながら、そっと頭を撫でてくれた。
……この土地で、お兄さまをひとりぼっちにしたくないわ。
悲しい記憶のある場所で、彼を孤独にはしたくなかった。思わずお兄さまの腕にしがみついて、首を横にふる。
「私も一緒に行きます。場合によっては『ルナの祈り』が役立つかもしれません」
「この間、力を使って倒れたばかりだろう。気持ちは嬉しいけど駄目だよ」
……この調子だと、旅の終わりまで力を使わせてくれなさそうね。
お兄さまの過保護を甘く見ていた。彼の前で倒れてしまった自分の軽薄さを反省する毎日だ。
「……では、ついていくだけついていきます」
「それならいいよ。おいで、管理者はあの小さな家に住んでいるんだ」
お兄さまは大樹を超えた先にある家屋を指差した。随分と古びているが、手入れの行き届いた可愛らしい家だ。赤く塗られた屋根が目立っている。
木の根が張り巡らされた小道を進み、管理者の住まう家を目指す。あたりには小さな川や畑もあり、この家の主人の生活感がありありと伝わってきた。
「ドロシアさん、アシェルです。すこしお話いいですか」
扉を叩くなり、お兄さまは親しげに呼びかけた。間も無くして、ささくれた木の扉が開く。
「なんだ。ラークさまのところの坊ちゃんじゃないか」
家の奥から出てきたのは、灰色の髪をした老婦人だった。腰の辺りから巻かれたエプロンのポケットには、干草や乾いた花が詰められている。屋敷からも薬草の匂いがした。
「ずいぶんな別嬪さんを連れているね。ついに奥さんをもらったのかい」
ドロシアさんという老婦人は、私を一瞥して、なんてことないように呟いた。
……わ、私とお兄さまが夫婦に見えるの!?
勘違いだとしても、こんなに嬉しいことはない。ここは街よりも涼しい風が吹いているのに、たちまち体が熱を帯びた。
「この子はアスター公爵家のご令嬢だよ。僕の大切な義妹だ」
……お兄さまって、乙女の夢を打ち壊すのがお上手ね。
思わず唇を尖らせれば、ドロシアさんが憐れむような目で私を見てきた。
「お嬢ちゃんが苦労していそうなことだけは伝わったよ。……まあ、入りなさい。ろくなもてなしはできないけどね」
ドロシアさんは私たちを家の奥へ招き入れると、すぐに温かなハーブティーを用意してくれた。紫色の綺麗な花が浮かんでいる。すっきりとした、とてもいい香りだ。
「ドロシアさんは魔女と呼ばれるほど凄腕の薬師なんだ。ハーブティーが絶品なんだよ」
「色も香りもとってもすてきです。いただきます、ドロシアさん」
花柄のティーカップに口をつけ、こくりとハーブティーを飲み込む。すうっと鼻を抜けるハーブの香りが心地よかった。
「それで、坊ちゃんがわざわざ訪ねてきたのは淡雪の大樹の件でかい」
私たちがお茶を半分ほど飲んだのを見計らって、ドロシアさんは切り出した。お兄さまは手にしていたティーカップを置いて、窓の外を眺める。窓枠に区切られた淡雪の大樹は、まるで一枚の絵画のようだった。
「さっき見てきたけど、葉にひびが入っていたんだ。ドロシアさんも気づいているんだろう。聖女の装飾品としてどうしても必要なんだけれど、治す方法を知らないかな」
「原因ならわかっているさ。あれは雪解け水を吸い取って葉をつけるが、今年は雪が少なかったから十分な雪解け水が巡らずに、葉が脆くなってしまったんだろう」
今年は雪の被害がなかったと街では喜んでいたが、思わぬところで弊害があったようだ。だが、原因がはっきりしているのはありがたい。
「では、お水をたくさん与えればよろしいのでしょうか?」
幸い、この家の近くには小川が流れている。水源には困らないだろう。
だが、ドロシアさんは溜息混じりに首を横に振った。
「そんな単純なものでもないんだよ。この国で雪と言ったら宗教的にはなんだい?」
「女神ネージュの祝福の象徴、ですわ」
元聖女候補として、このくらいは即答できる。大地に恵みをもたらす白銀の雪は、女神ネージュの祝福そのものだと聖典には記されていた。
「そうだろう? あの大樹を潤すには、祝福の込められた水が必要なんだ。あるいは、自然に雨でもふればそれでもいいだろうが、この時期はほとんど降らないから期待しないほうがいいね」
「手のかかる大樹だな」
お兄さまはふう、と溜息をついて窓の外の大樹を睨んだ。
「……淡雪の大樹の葉は、いつまでに献上すればよろしいのですか?」
「冬の聖女の即位式に間に合わせなければならないから、遅くても夏の終わりには届けたいところだね」
「夏の終わり……」
春が終わろうとしている今から王都へ戻って祝福を込めた水をここまで運び、葉が治るのを待つというのはあまり現実的ではない。このままでは雨が降ることに期待するしかなくなってしまう。
……雨、ね。
窓枠に収められた淡雪の大樹を眺める。風に揺れる姿を眺めるだけで、しゃらしゃらと硝子が触れ合うような涼やかな音が聞こえてくるようだ。
「……そういうことなら、仕方ありませんわね。お兄さま、今日のところはいったん礼拝堂へ参りましょう。休んでから対策を考えても遅くはありませんわ」
にこりと微笑んで、お兄さまを励ます。彼はもう一度溜息をついて、ティーカップを手にした。
「そうだね。エマの言う通りだ。明日にでも下山するつもりでいたのに、予定が狂っちゃったな……」
お兄さまの呟きを聞き届けながら、私もハーブティーに口をつける。すっとした香りを吸い込んで、ひっそりと心の中である決意を固めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます