第6話 小さな祝祭
その夜。
祝祭最終日の夜というだけあって、街はずいぶんな賑わいを見せている。初日の祝砲の事故があったぶん、皆余計に祝祭を楽しもうとしているようだった。
もっとも、私はその賑やかな様子を屋敷のバルコニーから眺めているわけなのだけれども。
椅子に座った私の隣には、まるで見張りのようにお兄さまが張り付いていた。
「大盛況だね。祝砲の事故の怪我人も、体調がいい者は祝祭に出ているようだよ。君のおかげだね、エマ」
誇らしげな笑顔はいつ見ても嬉しいが、それはそれとして面白くない気持ちはあった。
「……それなら私も祝祭に行ってもいいのではありませんか?」
せっかくの祝祭最終日だというのに、お兄さまは私が倒れたことを理由に外出許可を下さらなかった。私なりにごねてみたのだが「君に鎖をつけるような非道な真似はしたくなかったんだけど……」とさらりと不穏なことを言い始めたので、仕方なくこうしてバルコニーに座っているのだ。
だが、祝祭の賑わいを前にして、お兄さまの考えも変わっているかもしれない。淡い期待を抱いて、指を組んでみる。
「お願い、お兄さま」
お兄さまは微笑みを崩さぬままに即答した。
「いくら可愛くお願いしてもだめだよ。君は今朝目覚めたばかりなんだから」
柔らかな口調だが、絶対に譲らないという強い意志を感じる。こういうときのお兄さまは何を言っても無駄だ。
「ほら、君が美味しいと言っていたクッキーを買ってきたから機嫌を直して、エマ」
お兄さまは小さな袋から花形のクッキーを取り出して、私の口もとに運んだ。残念ながらそれで誤魔化されるほど私も子どもではない。クッキーを咀嚼しながら、街の賑わいをどこか恨めしい気持ちで眺めた。
……お兄さまと、広場で踊ってみたかったな。
聖女選定の儀の夜にお兄さまと踊ったあの記憶は、宝物のように仕舞い込まれている。まるで夢のようなひとときだった。お兄さまとこうして静かに街を眺めるのもすてきだけれど、やはりせっかくのお祭りならばはしゃぎたかったと言うのが本音だ。
祝祭の賑わいに紛れて、背後で扉が叩かれる音が響く。お兄さまの許可の声の後に入室してきたのは、リリアだった。
「アシェルさま、準備が整いました」
「ありがとう。今行くよ」
リリアはすぐにまた退室したようだ。私が目覚めてからも彼女はなにかと忙しそうにしていたから、お兄さまに仕事を言い付けられているのだろう。せっかくの祝祭なのに彼女もかわいそうだ。
「エマ、外には出してあげられないけれど、いいものを見せてあげるよ」
「いいもの、ですか?」
お兄さまは頷きながら、椅子に座る私を横抱きにして抱き上げた。慌てて彼の首の後ろにしがみつく。
「ふふ、高いです、お兄さま」
「ちゃんとつかまって。すこしの間、目を瞑っておいで」
「こうですか?」
言われるがままに目を瞑り、お兄さまの首の後ろに回した腕に力を込める。ゆらゆらと揺れる感覚からは、お兄さまはどこかに移動しているようにも思えた。
……お兄さまに抱き上げられるの、好き。
彼は私が体調を崩したりちょっと怪我をしたりするだけで、よくこうして抱き上げて移動してくれる。子どものように甘やかされていると感じるが、お兄さまに包み込まれるようなこの瞬間が好きで嫌だとは思わない。これだけで、祝祭に行けなくて拗ねていた心が軽くなるような気がした。
階段を降りるような音のあと、お兄さまはゆっくりと私を床に下ろした。
「まだ目を開けてはいけないのですか?」
「もうすこし、僕がいいって言うまでね」
何が起きるのだろう。自然と胸が高鳴っていた。やがて瞼越しに光を感じ、お兄さまの手によって光のなかへと導かれる。
「エマ、いいよ。目を開けて」
お兄さまの合図を機に、ゆっくりと瞼を開く。その瞬間、視界いっぱいに花びらが舞った。
「エマさま! ありがとう!」
「あなたは祝祭に舞い降りた天使だ!」
わっと、歓声のように感謝の言葉が浴びせられる。目の前には、街の住民たちが大勢揃っていた。どうやらここは屋敷の広間のようだ。
「これは……?」
降り積もるほどに花びらを浴びせられながら、思わずお兄さまを見上げる。彼はくすりと笑って広間の中を見渡した。
「祝砲の事故の件で、君に感謝を示したいと申し出があったんだ。僕としては君を安静にさせておきたかったんだけど……まあ、屋敷の中でならはしゃいでもいいだろう。皆、君のためにいろいろと準備してきたようだから、ここで祝祭を楽しむといい」
「私の、ために……?」
よく見れば、広間の隅には祝祭で見かけた焼き菓子や果実酒なども用意されているようだった。私が外に出られないから、わざわざここに持ってきてくれたのだろう。華やかな衣装を纏った踊り子たちや、楽器を手にした音楽隊までいる。音楽隊は、早速賑やかな音楽を奏で出した。
「エマさま!」
小さな男の子と女の子が、ふいに目の前に駆け寄ってきた。その手には、色とりどりの花が編み込まれた花冠が握られている。
「お父さんを治してくれてありがとう!」
「まあ……綺麗な花冠。私にくれるの?」
目線を合わせるように、子どもたちの前にしゃがみ込む。
「うん! エマさまにあげる」
子どもたちはたどたどしい仕草で私の頭に花冠を載せてくれた。すこし歪んでいるが、きちんと輪になっている。
「わたしたちが作ったんだよ!」
「ありがとう、私よりずっと器用ね。大切にするわ」
子どもたちの頭を撫でると、彼らは恥ずかしそうにある女性の後ろへ引っ込んでしまった。女性は私を見るなり、深々と頭を下げる。
「エマさま……私はウィルの――あの事故でいちばん重症だった者の妻です。お医者さまには、あのときエマさまが適切に治療してくださっていなければ、喉が塞がって死んでいたかもしれないと伺いました。本当に、なんとお礼を申せば良いか……」
よく見ると女性は肩を震わせていた。愛するひとを失っていたかもしれないという恐怖は、どれほどのものだろう。
しゃがんでいる状態から立ち上がり、そっと女性の肩に手を置く。おずおずと顔を上げた女性を励ますように、静かに微笑みかけた。
「私は、女神ネージュさまのお力をお借りしただけです。感謝の気持ちはぜひ女神さまに。……旦那さまが、ご無事でよかったです」
本当に、祝祭が悲しい記憶で塗り替えられなくてよかった。悲劇を防ぐことができたのだと思えば、お兄さまが言ってくださったように、すこしは自分のことを誇らしく思える。
「……王国の偉いひとたちがなんと言おうとも、わたしたちにとっての聖女さまはエマさまです。主人も、ずっとエマさまのことを聖女さまと呼んでおります」
女性は指を組んで、祈るような仕草を見せた。彼女たちは心からの好意でそう言ってくれているのだろう。私は決して聖女ではないのだけれども、それを頭ごなしに否定する気にはなれなかった。
「……私には過ぎた敬称ですが、そこまで思ってくださったことは嬉しく思います」
曖昧に微笑んで、そっと頭の上の花冠に触れる。花びらの柔らかな感触が、なんだか温かかった。
……今の私には、聖女のティアラよりこの花冠のほうがずっと嬉しいわ。
こんなふうに感謝の気持ちを形にされたのは初めてで、油断するとすぐに頬が緩んでしまう。
「エマさまは笑わない『氷の聖女』だとお聞きしていたのですが……噂は当てにならないものですね」
女性はほう、と溜息をついて私を見ていた。聖女候補であったときは公の場で感情をあらわにしたことはなかったから、その印象も当然だろう。
「……笑えるようになったのは、お兄さまのおかげです」
女性と談笑しながら、ちらりとお兄さまを見上げる。きっと和やかな表情で私を見守っていることだろうと思ったのに、どうしてか顔を覆って小さく唸っていた。
「……お兄さま? どうなさったの?」
「天使がいる……そうか、エマは実は天使だったのか……道理でありえない愛らしさなわけだ……」
ぶつぶつと呟きながら顔を覆っているお兄さまの横で、リリアが溜息をつく。
「アシェルさまなら、お嬢さまが花冠をつけてからずっとこの調子です。いつもの発作でしょうからご心配なく」
「……どうやらそうみたいね」
恥ずかしいくらいに褒めちぎってくれるのは嬉しいが、相変わらず女性としては意識されていないようだ。
「アシェルさまのことは気にせず、お楽しみください。ほら、踊り子たちによる余興が始まるようですよ」
リリアに促され、用意された椅子に座る。軽快な音楽に合わせて、軽やかな布を纏った踊り子たちが飛ぶように舞い出した。長い手足を活かして、しなやかに踊る様は見事だ。
瞬きも許さないような美しい舞を終え、少女たちは花のようにふわりと礼をする。これには私も周りで見ていた住民たちも盛大な拍手を送った。
「次は皆さんも一緒に踊りましょう」
踊り子たちの声を合図に、賑やかな音楽が奏でられる。いつか、お兄さまと踊ったあの曲だ。
「聖女さまもどうぞこちらへ!」
「え?」
瞬く間に少女たちに手を取られたかと思うと、彼女たちに導かれるようにして踊りが始まってしまった。少女たちは男性側のステップもお手のもののようだ。女性と踊るなんてなんだか新鮮だが、これはこれで面白い。
「ほら、侍女さんも今夜はお堅いのはなしなし!」
「私のことはお気になさらずに――」
気づけばリリアも、少女たちに巻き込まれるようにして踊り始めていた。明るく溌剌とした少女たちに振り回されているリリアの姿に、思わずくすくすと笑みが溢れてしまう。
「お嬢さま! 今、私のこと笑いましたね!?」
「いいえ? 可愛らしい踊りだと思っただけよ?」
目敏いリリアの言葉を受け流して、少女たちと手を取り合って踊る。彼女たちが纏う透き通る薄布が、ふわふわと舞って綺麗だった。
「聖女さま、お上手です」
「ありがとう。あなたたちの舞については言うまでもないわね」
くるくると、目が回りそうな速さで次々と相手が変わっていく。少女たちの色とりどりの衣装があまりに鮮やかで、目が眩みそうだった。
「お兄さんも一緒に踊りましょう?」
「綺麗な緑色の瞳ね。宝石みたい!」
ふと、踊り子たちがお兄さまの周りにも群がっている様子が視界に入り込む。お兄さまは私やリリアと同様に流されるようにして少女たちと踊り始めていた。楽しげな光景だが、お兄さまの手が他の女性の手を握っているというのは、なんだか面白くない。
……あのくらい、舞踏会でも何度も見かけているじゃない。
お兄さまはアスター公爵家の後継者だ。夜会に招かれれば、紳士として令嬢たちと踊ることもある。その様を、私は聖女候補の席からずっと眺めてきた。お兄さまが他の女性と談笑する姿を見ても、平静を保てていたのに。
……どうして、あのときより面白くないのかしら。
「あら? 聖女さま、お兄さまが取られたのが気に入らないの?」
「かわいいわ。拗ねてるのね」
「そ、そういうわけでは……」
否定しようとするも、少女たちにはお見通しのようだった。気恥ずかしさを覚え、思わず視線を伏せる。
「恋人なの?」
少女の誘導でくるりと体を回される。ワンピースの裾が、ふわりと花開くように靡いた。
「そうなれたらいいと思っていますけれど……お兄さまにとって私は、ただの妹なんです」
名前も知らない少女相手に恋愛相談を始めるくらいには、私は追い詰められているらしい。美しく華のある彼女たちにとっては、好きなひとに女性として意識されないなんて考えられない話だろう。
「そう? そんなことないように見えるけれど」
「え?」
「だってそれ、あの人からもらったんでしょう?」
少女のひとりが、私の首にかかったペンダントを指差す。祝祭の初日に、お兄さまからもらった新緑のガラス玉がついたお守りだ。
少女はそのお守りから私に視線を移し、にいっと赤い唇を歪める。
「そのペンダント、普通は恋人に贈るものよ。それも、生涯をともにしようと考えているような真剣な相手にしか贈らないわ」
あたしも恋人からもらったのよ、と少女は首もとにつけた青いガラス玉を見せてくれた。透き通る海のような色で美しかったが、正直それどころではない。
……普通は恋人に贈るもの、って。
かあっと、たちまち顔が熱くなるのを感じた。きっと、見てわかるほどに頬が赤くなっているだろう。
「照れちゃって、かわいいわね」
「よっぽど好きなのね、あのひとのこと」
「確かにかっこいいわよね……優しげだけどちょっと翳りがありそうなところが妙に色っぽくて!」
少女たちは照れて何も言えなくなっている私を置いて盛り上がっていた。この手の話題を同年代の少女としたことなんて初めてだ。
「ほら、縮こまってないで行ってきなさいよ!」
「くちづけのひとつくらいしておいで!」
少女たちに口々に投げかけられたかと思うと、背中を押される。よろめくように足をすすめた先で、優しい腕にそっと抱き止められた。
「大丈夫? エマ」
「お兄さま!」
くるくると回っているうちに、いつの間にかお兄さまと近づいていたらしい。少女たちと踊った不思議な高揚感を引きずったまま、お兄さまとも流れるようにステップを踏み始めた。
「ずいぶん長いこと踊っていただろう。少し休もうか?」
確かに病み上がりの体には疲労が溜まり始めているが、今は足を止めたくなかった。
「平気です。もうすこし……この曲が終わるまでは踊りたいです」
ふわふわと熱に浮かされるような気持ちのまま、お兄さまと手を取り合っていたい。その一心で、私の手を取る彼の指先をきゅ、と握りしめた。
「君がそう言うなら」
お兄さまは和やかに微笑むと、聖女選定の儀の夜のように私を導いてくれた。お兄さまと踊ると、心もぴょこぴょこと跳ねるようだ。
「ねえ、お兄さま」
「ん?」
胸もとで揺れ動くペンダントに意識を移す。あんな話を聞いた後では、お兄さまが私にこれを贈ってくださった意図を聞いてみたくてたまらなかった。
……でも、お兄さまのことだから「妹として好きだから贈った」とか言うのよね、きっと。
それならば、夢見ていたほうがいい。お兄さまは、少しは私を女性として意識してこのペンダントを贈ってくれたのだと、勝手に思い込んでいた方がいい。
「……ペンダント、すごく気に入っています。ずっと大切にしますね」
いちばん聞きたかった問いは飲み込んで、そっとお兄さまの胸に頭を預けた。お兄さまも私の頭に頬を擦り寄せ、寄り添い合う。
「気に入ってくれてよかった。君にあげたかったんだ」
やがて皆で踊る賑やかな曲が終わったかと思うと、音楽が静かなものへ変わり、照明がひとつ、またひとつと落とされていった。広間はぼんやりとした明かりに照らされ、なんとも幻想的な雰囲気に満ちる。
「エマ、こちらへおいで。街の明かりがよく見えるよ」
「はい、お兄さま」
踊り疲れて火照った体を冷ますように、私たちはバルコニーへと移動した。淡く光る色とりどりの街の灯りは、まるで星の海を眺めているかのようだ。
「きれい」
「この街が気に入った? それなら、また来年も来ようか」
私の肩を抱きながら、お兄さまは微笑む。彼が、なんてことないように、当然のように、私たちが一緒にいる未来を思い描いているのが嬉しかった。
「ええ、お兄さま」
……来年も、その先もずっと、私はあなたとこの祝祭に来たいのです。
祝祭が、緩やかに終わっていく。
引き寄せられるように抱きしめあうこの時間が、今はただただ幸せだった。
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