第5話 悪い夢とくちづけ
『エマさま、笑うと心が乱れます。ただでさえあなたの力は弱いのですから、決して心を乱さぬよう。人前では感情をあらわにしてはいけません』
神官の装束を纏った、純白の髪の神官は言う。物心がついたころから、嫌というほど言い聞かせられた言葉だ。彼の言葉に従った結果、私は「氷の聖女」と呼ばれるようになったのだっけ。
『君は、本当に笑わないな。そんな様子で、人々を慈しむことなどできるのか?』
婚約者同然だった王太子殿下は、冷ややかなまなざしで私を見ていた。笑いも泣きもせず、一日中聖典から祈りの言葉を書きつけている私は、一緒にいてさぞ面白くなかっただろう。殿下がイザベラさまのような感情豊かな方に惹かれるのも、当然かもしれなかった。
人前で笑わないように気をつけていると、いつしか公爵邸でも笑えなくなった。両親は私を心配してくれたけれど、意図的に直せるものでもない。
私はこのまま、泣きも笑いもしないつまらない人生を送っていくのだろう。人の心から距離を置いて、灰色の毎日を過ごしていたのに、彼だけは「私」を諦めなかった。
『エマ、お願いだ。せめて僕の前でだけは感情に枷をつけないで。このままでは壊れてしまうよ』
お兄さまは毎日毎日粘り強く、私に語りかけた。あの手この手で私を喜ばせようと、毎日違うお花を生けたり贈り物を贈ってくださったりした。
『僕に感情を思い出させてくれた君が、それを捨てようとするなんて。だめだよ、エマ。……僕をひとりにしないで』
笑わなくなってから、五年。私が十五歳、お兄さまが十七歳になったころ、お兄さまは私の部屋を色鮮やかな花で埋め尽くして根気強く説得していた。お兄さまの願いに応えて差し上げたいと思うけれど、心に鍵がかかったかのように表情が作れないのだ。
『ごめんなさい、お兄さま……』
甘く香り立つ花に埋もれたまま、お兄さまから視線を逸らす。表情を作ろうとしても、すこしも頬が動かない。
その反応がお兄さまを幻滅させているだろうと思うと、ずきずきと胸が痛んだ。それを表情にすることは、やっぱりできなかったけれど。
『エマ……人形のような君は見ていられないよ。おかしくなりそうだ。笑って……ねえ、笑ってよ』
お兄さまは私の肩を掴んで、揺さぶりながら嘆願した。切羽詰まったような様子のお兄さまは、ひどく疲れているように見える。
私に笑えというお兄さまこそ、このところ笑っていない。それも私のせいか、と思うと、またひとつ気分が重くなった。
お兄さまの両手が、挟み込むように私の顔に添えられる。指先が、頬に食い込むほどの力だ。
『エマ、君の心の揺らぎに触れたい。君が生きていると思い知らせてほしい。そうだ、笑えないのなら……せめて泣いてくれないかな? どうすれば泣いてくれる……? 痛がらせるのも苦しめるのも嫌なんだけどな……』
お兄さまは私の額に自らの額を触れさせながら、まつ毛を伏せた。そうして歌うように続ける。
『そうだなあ……君はとっても優しいから、自分が傷つくよりも他人が傷つく方が悲しむよね』
お兄さまは名案を思いついたと言わんばかりに怪しげに瞳を輝かせた。不穏な空気に、体がこわばる。
『お兄さま……?』
お兄さまは私から手を離すと、大量に生けられた花のそばにあった剪定用の銀の鋏を手にした。それを片手に、彼はゆっくりと微笑む。ぞっとするほど美しく、翳りのある笑みだった。
『……君の心を取り戻すためなら、僕は手段を選ばない』
それだけ告げて、お兄さまは躊躇いなく自らの左の前腕に鋏を突き立てた。瞬く間に、赤い血が溢れ出す。
『お兄さま……!? お兄さま、やめて……!』
慌てて彼のもとに駆け寄り、鋏を持つ手を引き剥がそうとお兄さまの手に自らの手を重ねた。だが、彼の手はびくともせず、むしろ私の手が絡め取られてしまう。
彼はそのまま鋏を引いた。皮膚が裂ける鈍い感覚が伝わってくる。そのあまりの悍ましさと恐怖に、気づけば私は五年ぶりに涙を流していた。
『いや! お兄さま、いや……!』
『エマ! やっぱり君は優しい子だ。僕が傷付けば、泣いてくれるんだね。ああ、久しぶりのエマの涙だ……』
かしゃん、と音を立てて鋏が床に落ちる。血まみれの彼の手が、私の頬に触れた。生温かくぬるりとした液体が、涙と混じって頬を滴り落ちていく。
お兄さまは恍惚の笑みを浮かべたかと思うと、頬擦りするように私の顔に自らの顔を寄せ、目尻に浮かぶ涙を吸い取っていた。
『あたたかい……なんて、あたたかいんだろう。君の心が揺らがないと、この世界は熱を失ったみたいでずっと、ずっと寒かったんだ……。人形みたいに何の感情も浮かべないよりも、泣いているほうがずっといいよ。かわいい、かわいいエマ。怖かったね、僕のせいで。ごめんね、でも、かわいい。君が泣いているのを見るのは何より苦しかったはずなのに……ごめんね、この五年で随分麻痺してしまったみたいだ。このまま、君の泣き顔をいつまでも眺めていたい』
お兄さまはこのままでは私が壊れてしまうと言ったが、とんでもない。彼のほうがとっくに壊れかけている。そんな重大なことに、このとき私はようやく気づいた。
……お兄さまを、壊したくない。
そう思うと、感情を閉ざすように心に絡んでいた鎖が、するりと解けていくような気がした。
『お兄さま……私、悲しければ泣くし、楽しかったら笑いますから……もう二度とこんなことはなさらないで。ご自分を傷つけるなんて、女神さまはお許しにならないわ』
泣きながら懇願すれば、彼は優しく私を抱きしめた。彼の血と涙に塗れて、頭の奥がぼんやりとする。
『女神になんか赦されなくていいよ。僕は君だけに赦されていたい。……赦してくれる? エマ。自分を傷つけたことも、君を泣かせたことも』
『許します……許し、ますから……こんなこともうしないで』
『わかった。もうしないよ。……赦してくれて、ありがとう、エマ』
彼は先ほど鋏に添えた私の手を握ると、血まみれのその掌にくちづけた。
泣きじゃくりながら、彼のされるがままになる。掌に触れる彼の唇は、まるで刻印を残すかのように熱かった。
◇
「ん……」
懐かしい夢から、ゆっくりと目を覚ます。やけに瞼が重たかった。
目を覚ました場所は、どうやら私たちが滞在している屋敷の客間の中のようだった。閉ざされたカーテンからはぼんやりとした光が漏れており、今は夜明けなのだろうと察する。
身動きをしようとして、右腕がやけに重たいことに気がついた。見れば、お兄さまが私の右手に額を当て、ベッドに伏せるようにして眠っている。一晩中看病してくれたのだろう。
彼の額に触れていた指先を、そっと動かしてみる。柔らかな黒髪がくすぐったい。そのまま目もとや頬を指先でなぞっていると、彼はぴくりと身動きをした。起こしてしまったようだ。
「……エマ?」
よほど眠いのか、目を閉じたまま名前を呼ぶのがなんだかかわいらしかった。彼の頬を手の甲で何度も撫でれば、じゃれつくように私の掌に唇を寄せてくる。
「……お兄さまの夢を見ました」
「嬉しいな、どんな?」
ようやく目覚めたらしいお兄さまが、私の手を包み込むように握り、顔を覗き込んでくる。
「私の心にかかっていた枷を、お兄さまが無理やり壊した日の夢です」
「……ああ、あれか」
彼の口もとに自嘲気味な笑みが浮かぶ。白いシャツの袖口から覗く彼の左前腕には、あの日の古傷が残っていた。あのあと『ルナの祈り』を使ったが、私の力では傷跡を完全に消すことはできなかったのだ。
結果的に、あの出来事をきっかけに、私は公爵邸では泣いたり笑ったりするようになった。強引な手段ではあったものの、お兄さまが私の感情を縛り付けていた鎖を断ち切ってくださったのだ。あまりいい思い出ではないが、その点では感謝している。自らを傷つけてまで私の感情を切望してくださるのは、お兄さまだけだ。
お兄さまの指が、頬にかかった髪を避けてくれる。お兄さまの目もとにはよく見れば隈が浮かんでおり、私が倒れたことでずいぶん彼に無理させてしまったことが窺い知れた。
「お兄さま……私、どのくらい眠っていたのです?」
「一日半かな。今日は祝祭の最終日だよ」
「そうですか……ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
力を使い果たすと眠りについてしまうのはいつものことだが、今回は普段よりも長かった。
「……君はもう聖女候補じゃないんだ。人を助けるなとは言わないけれど、限界まで力を使わないでほしい」
「はい……今後はもうすこし、控えるようにします」
こういうところも、きっと私が聖女に選ばれなかった一因なのだろうと思う。時に危険な場所に赴くこともある聖女には、己の限界を見極める力も必要なはずだ。
ふっと、沈みかけていた気分をすくい上げるように、お兄さまの手が私の頭に伸びる。そのまま小さい子にするように、わしゃわしゃと頭を撫でられた。
「でもそれはそれとして、僕は君を誇らしく思う。君のおかげで、五人の命が助かった。祝祭を悲しい思い出にせずに済んだのは、君のおかげだよ、エマ」
お兄さまは、満面の笑みを浮かべ、何度も何度も私の頭を撫でた。その手があまりに温かくて、じわり、と目尻に涙が浮かぶ。
……お兄さまの言葉は、どうしてこうもすっと胸に染み渡るのかしら。
聖女候補であるときは、「ルナの祈り」を使って人助けをすることは当たり前だと思っていたし、実際私は今でもそう思っている。それでいいと思っている。
けれど、お兄さまはそれを得難い奇跡だと言わんばかりに褒めてくれた。本当はずっと、こんな言葉を望んでいたのかもしれない。
「私があのとき力を使えたのは、お兄さまがいてくださったからです。お兄さまのそばでは、私はお兄さまに誇りに思ってもらえる私でいられるんです。お兄さま……これからもずっとそばにいて、私を見ていてください」
祈るようにまつ毛を伏せて、私の頭を撫でていた彼の手に頬擦りをする。あたたかくて、包み込むように大きな優しい手だ。
私はこの手が好きだ。いつも彼がするように、思わず私も彼の手のひらにくちづけた。
だが、唇を彼の手のひらからゆっくりと離した瞬間、ふと我に返る。
……わ、私、なんてことしちゃったのかしら!
自分とは思えない大胆な行動に、遅れて身体中が熱を帯びる。恥ずかしくて溶けてしまいそうだった。
「あ……お、お兄さま、ごめんなさい、私、つい……!」
両手で顔を覆って、なんとか弁明を試みる。だが、ろくな言葉が出てこない。
「い、今のは、寝ぼけていたようなもので……病み上がりの病人のしたことと思ってお忘れください!」
ぎゅう、と目を瞑って懇願すれば、彼がふ、と笑うのがわかった。
恐る恐る目を開けて、お兄さまの様子を伺う。彼は目を細めて、どこか愉悦を帯びた微笑みを浮かべていた。
「かわいい」
ぽつりと呟いたかと思うと、視線を伏せ、私がくちづけた箇所に彼もまた唇を重ねた。その状態で、彼と目が合う。視線が絡むなり、彼は舌なめずりするように笑った。獲物を射るような鮮やかな新緑の眼差しに、心臓を貫かれる。
「っ……!」
……心臓に悪い!
思わず、逃げるように薄手の毛布を頭からかぶり、寝台の上でうずくまった。これ以上彼の顔を見ていたら心臓が止まりそうな気がする。現に胸はぎゅうぎゅう締め付けられて息苦しいくらいだ。
……これで無自覚なんだから、本当に罪深いひとだわ。
「エマ? どうしたの、出ておいで」
笑いかけるような優しい声に、毛布の中で全力で首を横に振った。
「す……すこし疲れました。このまま休みます」
「じゃあ、朝食の準備を進めるよう料理長に頼んでくるよ。何かあったらすぐに呼んで」
かた、と椅子が揺れる音がして、お兄さまが立ち上がる気配があった。薄手の毛布越しに頭を撫でられたかと思うと、足音が遠ざかっていく。
扉が閉ざされた音を聞いて、ようやく、まともに息ができるようになった気がした。
今も、耳の奥で心臓の音がうるさいくらいに鳴り響いている。胸を締め付けるような甘い痛みも疼きも、すこしも止んでくれない。思わず、恨み言のような好意を吐き出す。
「……ぜんぶ、お兄さまのせいなんだから」
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