第4話 ルナの祈り
「ルナの祈り」は、王国ネージュの初代聖女であるルナが、女神ネージュから授かった祝福の力だと言われている。力の強い聖女――たとえばイザベラさまのような――であれば、特別な文言を唱えずとも、祈りをこめるだけで傷や病を治癒したり、動植物を回復させたりできる奇跡の力だった。
だが、私の力は弱い。聖女候補となり、文献で歴代の聖女たちの活躍ぶりを学ぶうちに、その事実には早々に気づいてしまった。歴代の聖女たちのようにただ漫然と祈って治癒しようとしても、効果が薄いか、ひとりふたりを治したところで気を失ってしまうのだ。
そのため私のような力の弱い者は、限られた力を最大限効率的に活用して、どのように配分するか考えなければならない。その考えのもとたどり着いた先が、この書き付けだった。
この書き付けには、長年の試行錯誤の結果が詰まっている。礼拝堂の冷たい床の上で、書き付けと聖典を開き、目当ての頁を探してめくり続けた。
「アスター公爵令嬢、怪我人は五人との話です。皆、火薬で火傷を負っています」
「まもなく到着します!」
礼拝堂の中では、ルーア神官を筆頭とした神官たちと公爵邸の従者たちが怪我人を受け入れるためにお湯を沸かしたり、清潔な布を用意したりと慌ただしく動き回っていた。
「……あったわ!」
怪我人の到着を目前にして、ようやく火傷の治癒についてまとめた頁を探し当てることができた。大体は記憶に刻み込まれているが、思い描いている祈りの文言で間違いがないかどうか念入りに再確認する。どうやら問題なさそうだ。
「お嬢さま、怪我人たちが運ばれてきました」
リリアが囁くように教えてくれる。その言葉を合図に書き付けと聖典を彼女に託し、床から立ち上がった。
分厚い布の上に乗せられて、次々と怪我人たちが運び込まれてきた。火薬の匂いがする。
「こちらの布の上にそっと下ろしてください。……この方たちが怪我をした状況は?」
怪我人を運んできた男性のひとに問いかける。相当動揺しているようで、忙しなく手を握りこんだり自らの腕を掴んだりしていた。
「いや……打ち合わせのときに、崩れかけていた弾があって、危ないから避けておこうって話になってたのに、あいつら、間違えてそれを撃っちまったみたいで……それが暴発したらしいんだ」
運ばれてきた怪我人たちは軽い火傷と擦り傷程度の者から、顔が黒く煤けている者までさまざまだった。だが、幸いにも肉が抉れたり欠損があったりする者はいないようだ。皆、出血というよりも火傷が主病態のようだった。
「お嬢ちゃん……あんた、医者なのか?」
男性が不安げにこちらを見る。いつの間にか礼拝堂には住民が押しかけており、その中のひとりが声を上げた。
「あたし知ってる。その子、聖女さまのなりそこないじゃないのかい?」
「聖女選定で選ばれなかったほうの子か?」
「結局、聖女にふさわしくなかったってことよね? そんな子に治療を任せて大丈夫なの……?」
「聖女さまや隣町からお医者がくるまで待ったほうがいいんじゃ……」
口々に不安が広がっていく。その心配ももっともだ。聖女の座に未練はなくとも、こういう場で何の肩書きもないことはもどかしく思う。
「みなさん、聞いてください。私が今からすることは、皆さんも知っている聖典の一部の言葉に力を込めるだけです。『祝福の風は我らにあまねく行き渡る』、『女神の慈愛は張り巡らされた蜘蛛の糸』このふたつを、順に唱えていきます」
聖典の言葉には、すべて意味がある。漫然と祈るのではなく、この言葉の意味を汲み取って適切に唱えれば、少ない「ルナの祈り」を有効活用できるというのが、私がたどり着いた結論だった。
例えば、「祝福の風は我らにあまねく行き渡る」であれば、呼吸をする際に、空気の通り道が塞がるような病態を効果的に治癒できる。「女神の慈愛は張り巡らされた蜘蛛の糸」は、傷に光の覆いを被せて治癒を早めることができるのだ。
漫然と祈っていると、力が全身に行き渡ってしまい、このような限定的な効果は得られない。イザベラさまのように力が強ければそれでもいいのだろうが、力の弱い私はひとつひとつの病態や問題を見極め、それに相応しい文言を唱えなければならなかった。
それがまとめられたのが、この書き付けだ。私の長年の努力の結晶だった。
だが、これは一般的に認知されている「ルナの祈り」の使い方とは違う。その証拠に住民たちには動揺が広がっていた。
「馬鹿馬鹿しい。『ルナの祈り』なら言葉など必要ないはずじゃないか」
「でも、祈りの言葉を唱えるだけならやってもらったほうがいいんじゃ……」
多少風向きが変わったとは言え、人々の混乱は収まらない。歯痒く思っていると、人の輪の外から通りの良い美声が響いた。
「何かあれば、僕が責任を取る。だからこのまま彼女に力を使わせてほしい」
「……お兄さま」
現場から急いで戻ってきたのか、彼は肩で息をしていた。そのまま人波をかき分けるようにこちらへ歩み寄ると、私の目を見てこくりと頷いた。
「あれは、アスター公爵家の……」
「アシェルさま?」
「アシェルさまがそこまでおっしゃるなら……」
お兄さまの登場で、場の空気はがらりと変わった。それだけ、お兄さまが信頼されている証だ。
……なんて心強いの。
「エマ、いいよ。こちらは気にせず進めるんだ。急ぎたいんだろう?」
お兄さまはちらりと怪我人の一人を見やった。顔に煤がついている男性だ。先ほどから呼吸が苦しそうだ。
「ありがとう、お兄さま」
俺を述べながら彼を瞥し、さっそく顔に煤がついている男性のもとへしゃがみ込んだ。その口もとに手をかざし、いちどだけ深呼吸をして集中する。
……風を、思い描くのよ。
「女神ネージュさま……力をお貸しください。……『祝福の風は我らにあまねく行き渡る』」
彼の口もとから喉、胸の辺りまでゆっくりとかざした手を移動させる。ここが礼拝堂であるせいか、いつもよりずっと早く、女神が応えてくれるのがわかった。
指先から、淡い光が溢れ出す。それは雪の結晶のようにひらひらと舞って、彼の喉もとに染み込んでいった。
すっと、苦しげだった呼吸音が安らかなものに変わる。徐々に規則正しい呼吸に戻り、表情もずいぶんと楽そうだ。
……どうやらうまくいったみたい。
ほっと、息をつく。この人がいちばん危なかった。大きな山を乗り越えたような気持ちで、他の四人にも同じ祈りの言葉を捧げた。
あれほど騒がしかった住民たちは、皆、固唾を呑んで私を見守っていた。だが、集中しているせいか彼らの視線もさほど気にならない。
……後は、火傷自体を覆わなくちゃ。
五人の火傷の深さや広さを念入りに観察する。やはり、初めの男性がいちばん重症だ。彼が祝砲を撃っていたのかもしれない。
はじめに治療した男性のもとへ再度移動して、床に膝をつく。その拍子に、くらりと眩暈がした。
……礼拝堂で力を使っても、これか。
自嘲気味な笑みを無理やり打ち消して、男性が火傷を負った右手に手をかざした。
「女神さま……この者の傷をどうかあなたの祝福で覆ってください。『女神の慈愛は張り巡らされた蜘蛛の糸』」
ぽう、と指先に光が灯る。雪のように降り注いだ光は、今度は体の中に吸い込まれることなく傷の上に降り積もって、傷口の上に氷を張るように薄く広がった。
……うまくいったわ。
これで傷が治ったわけではない。これはあくまでも、新たな皮膚が張り出すまでの仮初の皮膚のようなものだ。淡い光が衰えてくれば、傷が治り始めた証だ。その辺りの説明は、後でまとめてすればいいだろう。
同じことを、他の四人にも施す。傷をひとつ覆うたび、苦しげな表情が和らいでいくのを見て心から安堵した。
「……あんたは」
ふと、五人目の怪我人の腕の火傷を治療していると、はじめに治療した男性がふっと意識を取り戻した。まだどこかぼんやりとしているようだが、視線が合うくらいには回復したようだ。
「よかった……目覚めたのですね。あなたがいちばん酷かった。お仲間も無事ですよ」
疲れて眠ってしまっている者もいるが、皆、命の危機は回避できただろう。励ますように微笑みかければ、彼はふっと息をついてゆったりと目を閉じた。
「ありがとう――聖女さま」
……『ルナの祈り』を使っていたら、そう見えるわよね。
ぎこちなく微笑み返して、最後の怪我人の治癒を再開する。点在する火傷にひとつひとつ祈りの言葉を唱えていると、ふっと視界が暗くなった。
「っ……」
ぐらりと傾いた体を、力強い腕に抱き止められる。ふわりと優しい香りがして、顔を見ずともお兄さまが支えてくださったのだとわかった。
「エマ……もう十分だ。この先は、『ルナの祈り』に頼らなくても治療できる」
……まだ、もう一回くらいは使えそうなのだけれど。
ちかちかと視界が暗転を繰り返す。意識がだんだんとだるく、重い泥の中をかき分けてすすんでいるような鈍いものになっていった。治療を続けるべきなのか、やめていいのか、それすらもよくわからない。
……やっぱり私は聖女にふさわしくない。なりそこない、ってぴったりの言葉だわ。
「エマ!」
がくり、と体から力が抜ける。暗い視界の中でお兄さまが私の名前を叫ぶ声だけを聞き届け、深い眠りへ誘われていった。
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