第2話 着せ替え人形とペンダント
「お嬢さま、こちらの色はいかがですか? 春らしい、柔らかな檸檬色がよくお似合いになるかと」
「祝祭の夜は大人の女性らしく、こちらの青紫はいかがでしょう。旧子爵領自慢の刺繍を施したストールを羽織れば、動きやすいながらに豪華な仕上がりになりますよ」
翌日。私にあてがわれた広い客間の中、ずらりと並んだ衣装の数々を見て目が眩むような思いを味わっていた。
――祝祭用に、君に合わせた衣装を何着か発注しておいたから、好きなのを選ぶといいよ。
祝祭準備の視察のために、朝早くから屋敷を出たお兄さまは、そう言い残していった。お祭りで纏う衣装を選ぶなんてなんとも楽しそうだと胸を躍らせていたが、届いた衣装の量に驚きを隠せない。
……お兄さま、お祭りは三日間なのよね?
軽く半月ぶんは困らないほどの衣装に囲まれて、思わず頭を抱える。
「お嬢さまには、こちらの新緑のワンピースがいいのではありませんか?」
リリアが、にやりとしながら衣装のひとつを姿見の前に立つ私にあてがった。柔らかな生地で仕立てられたそれは、すこし動くだけでも軽やかに裾が舞う可憐な代物だ。春らしい新緑も雪解けを祝う祭りにふさわしいだろう。
だが、リリアが言っているのはおそらくそういうことではない。私がお兄さまに抱く恋心に何年も前から気づいている彼女のことだ。お兄さまの瞳の色と同じだから私に勧めているのだ。
「リリア……もう、からかわないで」
「でも、一目見てお気に召しましたよね? 祝祭の趣旨にもぴったりですし、ほら、ワンピースと同じ生地で仕立てたリボンで髪を高く結んだからかわいいですよ!」
リリアが銀の髪を後ろでひとまとめにして、その根本に新緑のリボンを合わせる。確かに、全体的に軽やかで可憐な印象になるのは、私の好みに近かった。
「本当だ、よくお似合いです。お嬢さま」
「春の妖精のようですわ」
この街に滞在する間だけ雇われた侍女たちも、口々に賞賛してくれる。
「お靴はこちらを合わせて……」
侍女のひとりが、落ち着いた緑色の靴を足もとに置いてくれた。足首でリボンを結ぶようになっているらしく、今までに履いたことのないような可愛らしい靴だ。すこし踵が高いことが気にかかるが、ワンピースともよく合っている。
「まあ、完璧な仕上がりですわ!」
「きっと、アシェルさまも喜びますよー?」
リリアのからかうような声に、思わず頬を熱くさせる。姿見の中の私は、瞬く間に頬を染めていた。
「で、では……こちらの衣装にします。選んでくださってありがとう」
一応は公爵令嬢らしい威厳を取り繕って礼を述べる。皆、それに応えるように礼をしてくれたが、眼差しは微笑ましいものを見たと言わんばかりに柔らかなものだった。
退室していく侍女たちを見送りながら、揃えられた衣装を確認する。よく見ると新緑の生地と同じ色で刺繍が施されており、手が込んでいた。
「皆、お嬢さまを着飾らせるのを楽しみにしているようですよ。明日の完璧な装いのお嬢さまを見れば、アシェルさまもきっとお嬢さまを女性として意識するはずです!」
「どうかしら……なかなか手強いのよ、お兄さまは」
「……そうですね。あの無自覚さのせいで、お嬢さまの戦いは長期戦を強いられていますからね」
普段のお兄さまの言動を思い出したのか、リリアは遠い目をして何度か頷いた。
長年私がお兄さまに恋煩いをしていることに気づいているリリアだが、聖女候補であったころははっきりとした言葉で応援することはなかった。一応は、王太子の暫定婚約者だったのだから当然だろう。
だが、聖女選定の儀を終えてからというもの、半分からかうような調子で私を励ましてくれる。リリアのような友人が味方してくれるのは心強かった。
……きっと、私の恋が実ったら、自分のことのように喜んでくれるのでしょうね。
泣きながら笑う彼女の顔が目に浮かぶ。応援してくれる彼女のためにも、やはり祝祭という特別な舞台で一歩進みたいところだ。
「……せめて、お兄さまの頬を赤くすることができたらいいのだけれど」
いつも私ばかり顔を熱くして、不公平だ。彼が、私の言動でうろたえたり、照れたりしているところを見たことがない。
「お嬢さま……! なんてお可愛らしい! 明日は、いっぱいおしゃれしましょうね! リリアが、お嬢さまの装いを完璧にして差し上げますから!」
「ありがとう、リリア」
……私は周りの人に恵まれているわ。
誰もが皆、リリアのようなすてきな友人を得られるわけではないだろう。彼女と過ごす時間は、お兄さまとはまた違う意味でかけがえのないものだ。
「お嬢さま、衣装合わせでお疲れでしょう。向こうのお部屋にお茶をご用意してあります」
「ありがとう。……一人では寂しいから、あなたも付き合ってくれる?」
「ええ、喜んで」
思えばリリアとゆっくりお茶を楽しむのは、ずいぶん久しぶりだ。このひと月、旅支度と移動でお互いに忙しくしていたせいだろう。
「お嬢さま、私、祝祭にまつわる迷信を仕入れてきたのですよ!」
「どんなの? 聞かせてほしいわ」
はしゃぎあいながら、衣装部屋を出る。扉を開けた途端、紅茶の香りの入り混じった春風が、ふわりとわたしたちを包み込んだ。
◇
翌日。すっかり日が傾いたころ、私は姿見の前で全身を隈なく確認していた。
「リリア、おかしなところはないかしら?」
「ええ、お嬢さま。どこから見ても、完璧な仕上がりです。本当に、春の訪れを告げる妖精のようです!」
体を左右に捩ると、新緑のワンピースの裾がひらひらと揺れる。踵の高い靴は履き慣れないが、服とぴったり合っていた。銀の髪はリリアに後ろで高く一本に結い上げてもらい、ワンピースと同じ生地でできたリボンを結んである。派手にならない程度に化粧も施し、頭の先から爪先まで完璧な装いだ。自信を持ってお兄さまの隣を歩くことができる。
……すこしは、女性として意識してくださるかしら。
淡い期待を抱いていると、扉がノックされた。リリアが、来訪者を出迎える。
「エマ、支度はできた? そろそろ祝祭が始まるから街に――」
入室してくるなり、お兄さまははっと言葉を失った。これには、私もリリアも息をつめてお兄さまの反応を見守る。
……まさか、この姿にときめいて下さったのかしら?
期待を込めてお兄さまを見つめていると、お兄さまは足早に私の元へ駆け寄り、ぎゅう、と私の体をかき抱いた。
「か、かわいい! なんてかわいいんだ! 天使が舞い降りたのかと思った……こんな天使なら今すぐ女神の御許に連れて行かれてもなんの後悔もない……」
すりすりと、私の頭に頬を擦り寄せて、お兄さまは感激していた。彼の背後で、リリアが軽く頭を抱えながら息をついている。
……まあ、そうよね、お兄さまはそうよね。
褒めてくれるのは嬉しいが、期待していた反応とはまるで違った。私に見惚れて誤魔化すように視線を逸らしたり、顔を赤らめたりする反応が見たいのだ。私を丸ごと溺愛するこの反応は、いつも通りではないか。
「新緑も、雪解けの祝祭にぴったりの色だね。かわいい。春の妖精だってこんなにかわいくないだろう。嫉妬した妖精たちに連れ去られないか心配だ。絶対に街の中では手を離してはいけないよ。そもそも、こんなにかわいいエマを軽率に街に連れ出していいんだろうか……? あまりのかわいさに人々の目が溶け落ちるんじゃないか……僕でさえぎりぎりなのに」
「かわいすぎて直視できない!」とご乱心のお兄さまをどうにか引き剥がす。リリアはすっかりお兄さまに失望したようで、冷めた表情で外出の支度を整えに隣室へ移動してしまった。
「お兄さま……私の姿を見たくらいで人の目は溶けませんからご安心ください」
溜息混じりに、お兄さまをなだめる。お兄さまは家庭教師も唸らせるほど聡明な方のはずなのに、私にまつわることでは見当違いの心配をし始めるから困ったものだ。私が初めて聖女候補の純白の衣装を纏ったときも「エマが天使になってしまった……飛んで行かないようにしないと」と本気で頭を悩ませていたものだ。
……その大袈裟な褒め言葉も、嫌いではないのだけれど。
私が新緑を選んだ本当に意味にも気づかないような鈍感なお兄さまだが、憎めない。これがお兄さまらしいとも思う。そういうところも含めて好きになってしまった私の負けなのだ。
「でも、褒めて下さって嬉しいですわ、お兄さま。リリアと一緒に頑張った甲斐がありました」
ワンピースを摘めば、裾のあたりにあしらわれた細やかな刺繍がよく見える。
「すてきな衣装を用意して下さって、ありがとうございます、お兄さま」
心からの笑みで告げれば、彼は満足そうに頷いた、
「エマに着てもらって、その衣装も喜んでいるよ。……そうだ、あまりのかわいさに忘れるところだった。これを、エマに」
お兄さまは上着から小箱を取り出したかと思うと、私の背後に回った。姿見越しに、お兄さまを観察していると、首もとに歪んだガラスのペンダントがかけられた。色は、お兄さまの瞳を映し取ったかのような鮮やかな新緑だ。
「お守り。君が、春を謳歌して夏を健やかに過ごして秋の豊かな恵みを享受して、また、厳しい冬を越えられますように……そういう願いが込められた、この街のお守りなんだ。祝祭の夜には女の子たちはみんなつけているから、君にも贈りたくて」
「公爵令嬢がつけるような代物ではないんだけどね」と苦笑しながら、首の後ろでペンダントの革紐の長さを調整してくれた。うなじに彼の指先が触れて、くすぐったい。
「もらってくれる? ――エマに、持っていてほしいんだ」
鏡越しに、甘く笑いかけられる。いつの間にかお兄さまの腕に囚われていた鏡の中の私は、たちまち頬を赤く染めた。
「も、もちろんです。ありがとうございます、お兄さま。大切にします」
……嬉しい。なんてすてきな祈りが込められたお守りなのかしら。
何でできているかなんて関係ない。彼の慈愛がそのまま詰まったかのようなガラス玉が、愛おしくて仕方がなかった。お兄さまをときめかせることには失敗したが、そんなこと忘れてしまうほどに嬉しい。
ガラス玉を優しく握りしめ、喜びを噛み締めていると、ふと、お兄さまが鏡越しにじっと私を見ていることに気がついた。ねだるようなそのまなざしに、どくん、と心臓が跳ねる。
「あ……あり、がとう、お兄さま」
いつもの儀式めいたあのふれあいをお望みなのだと察して、そっと手を差し出す。背後からその手を絡め取られ、手のひらにゆっくりとくちづけが落とされた。
手のひらの感触を味わうかのような熱っぽいくちづけに、心臓は限界まで早鐘を打っていた。いつもは向かい合っているけれど、こうして背後から抱きしめられていたら、すぐに脈が早いのがばれてしまう。
案の定、鼓動の早さが伝わってしまったようで、お兄さまはくちづけていた私の手の手首を掴んだ。触れられるだけで、とくとくと脈打っているのがわかる。
「……かわいい。小動物みたいだ」
そのまま彼は手首にもくちづけて、満ち足りたように笑った。新緑の眼差しに囚われたまま、身動きができなくなる。顔どころか全身が熱くて、彼に抱きしめられていなければとっくに崩れ落ちていただろう。
「このままくっついていたいけど……そろそろ祝祭が始まるね。行こうか」
お兄さまは私の腰を抱くようにして歩き出そうとした。だが、とてもじゃないが足が動かない。
「お、お兄さま、お水を飲んでから行きますから、先に玄関へ行っていてください。すぐに追いかけます」
「そう? わかったよ。玄関広間で待ってる」
お兄さまはいつも通りに甘く微笑んで、先に部屋を出て行った。その後ろ姿を見てから、思わず絨毯の上にへたりこむ。
心臓は、まだばくばくと脈打っていた。頭の中まで茹ってしまうと思うほど、体が熱い。
そっと、お兄さまがくちづけていた右の手のひらを見つめる。彼がくちづけていた場所と同じところに、私もそっと唇を落とした。
「……お兄さま、すき」
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