第一章 旧子爵領の祝祭

第1話 お砂糖づけの旅

「お兄さま、街が見えてきましたわ!」


 馬車の窓に貼り付くようにして、外を眺める。このところ木々が生い茂る景色ばかり見ていたが、ようやく深い森を抜けたようだ。目的地が見えてきたらしい。


「ああ、あれが旧ラーク子爵領だね。……危ないからこっちへおいで。窓に頭でもぶつけたら大変だ」


 お兄さまは私の腰に腕を回して、窓からそっと引き剥がした。そのまま、お兄さまに寄りかかるような体勢で座席に座るよう促される。


「お兄さま……このくらい平気ですのに」


「君が怪我をしたら正気でいられない」


 なんてことないようにさらりと告げたかと思うと、私の頭に自らの頭を預けるようにして、擦り寄ってきた。


 ……旅に出てから、輪をかけて過保護がひどくなっている気がするわ。


 聖女選定の儀からひと月。あれから視察のための旅支度を進め、半月前、ついに私たちは王都を発った。急遽旅に同行することになった私に配慮して、旅程は当初のものよりずいぶんとゆったりしたものへ変更され、休みながら移動を重ねてきたのだ。


 初めの目的地は、豪雪と春の花々で有名な土地、旧ラーク子爵領だ。


 ここでは、毎年春先に、雪解けを祝う祭が開催されているのだという。今回はその祝祭の準備も含めて視察し、それを終えたあとは、旧ラーク子爵領の奥深くにあるという淡雪の大樹を訪ねる予定だ。


 旅程はおおむね計画通りに進んでおり、三日後の祝祭にも余裕を持って間に合った。旅の調子としては絶好調だ。


 ……お砂糖づけのような日々で、溺れてしまいそうだけれど。


 衰えることを知らないお兄さまの溺愛に、見事に私は振り回されていた。毎朝起きるたびに枕もとに違う花が活けられているし、移動中は基本的にこうして寄り添いあっている。


 初めは心臓がもたないから、行きすぎた過保護は控えてほしいと思っていたが、今までにないほど嬉しそうにするお兄さまを見ていると何も言えなくなってしまう。


 お兄さまは私にもたれかかるような体勢のまま、時折私の銀の髪を指で梳いていた。手が空いていると、彼はよくこうして私の髪をいじっている。ほとんど無意識のことらしい。落ち着かない気分になるが、お兄さまの好きなようにさせていた。


 そうこうしている間に、馬車は街へ入り、私たちが滞在する屋敷の前で停車した。公爵邸と比較すると大きさこそ劣るが、白塗りのすてきなお屋敷だ。ベランダや他のものの周りには、色とりどりの花が飾られている。


「きれい……まるでお伽噺のお屋敷みたい」


「神殿が貴人の宿泊用に用意した屋敷なんだ。快適に過ごせるはずだよ」


 馬車の扉が外から開けられ、お兄さまが先に降りた。ふわり、と柔らかな春風が馬車の中に吹き込んでくる。


「気をつけて。頭をぶつけないように」


 お兄さまに差し出された手に自らの手を重ね、足台にそっと足を下ろす。青空色のワンピースが、ひらひらと靡いた。


「長旅お疲れさま。気分は悪くない?」


「はい、おかげさまでちっとも。……お兄さまこそ、私を気遣うばかりでお疲れではありませんか?」


「むしろかつてないほど気分がいいよ。移動しているだけでも、君がいれば楽しい」


 風にさらわれた銀の髪を私の耳にかけながら、お兄さまは甘く微笑んだ。視線を絡めてそんな言葉を囁かれると、どうしたって頬が熱くなる。


「あ、相変わらずお兄さまは大袈裟ですわ……」


 耐えきれず、ふい、と視線を逸らす。こんなことを繰り返していると、視察の旅が終わるころには私の頬は溶けてなくなっているのではないだろうか。


「おやおや、アスター公爵令息殿とエマさまはずいぶんと仲がよろしいようで」


 気づけば館の目の前に、出迎えの人々が揃っていた。先頭に立っているのは白い装束を纏った壮年の神官で、微笑ましいものを見たと言わんばかりに頬を緩めている。


「ルーア神官殿、わざわざお出迎えありがとうございます」


 お兄さまは人好きのする笑みを浮かべながら、胸に手を当てて礼をした。私もそれに倣って、スカートをつまむ。


 ここ、旧ラーク子爵領は、ラーク子爵亡き後、神殿の直轄領となっている。領主はいないため、神官が責任者となって領地を管理しているのだ。今はルーア神官が旧子爵領の責任者として取りまとめているらしい。


「王都から長旅ご苦労さまです。まずは無事で何よりでございました」


「女神ネージュのご加護のおかげです。後ほど礼拝堂へ感謝を捧げに参ります」


 お兄さまの受け答えに、神官たちは満足したようだ。にこにこと微笑みながらお兄さまを見上げ、そうして私に視線を移す。


「今回はエマさまもご同行なさると聞いて、お目にかかれるのを楽しみにしておりました。旧ラーク子爵領の責任者を努めております、ルーアと申します」


 私の存在は、当然神官ならば皆知っているだろう。なんとなく気まずさを覚えながらも、かつての聖女候補としてではなく、アスター公爵令嬢として礼をする。


「はじめまして、エマ・エル・アスターです。ルーア神官の温かな歓迎に、感謝いたします」


 聖女候補であれば、ここで祈りの言葉のひとつやふたつ述べるものだが、今の私にはふさわしくない。簡潔に挨拶を述べて神官を見据えれば、神官たちは潤んだ瞳で私を見つめていた。


「なんと……なんと神々しい。女神さまも残酷な決断をなさった。これほど清廉で聡明なお方を、聖女とお定めにならないとは……」


「……それでも選ばれなかったということは、私には何かが足りなかったということなのでしょう」

 

 いまだに私を惜しんでくれる神官がいるとは思わなかった。それが嬉しくもあり、彼らの期待に応えられなかったことがやはり残念だと思う。口角が、すこしだけ重く感じた。


 その瞬間、影が降ってきたかと思うと、お兄さまに腰を引き寄せられ、庇うように抱きしめられる。

 


 彼は神官たちから私を隠すように私の顔を彼の胸に埋めさせると、いつにない冷ややかな声で告げた。


「ルーア神官、聖女選定の儀からまだひと月だ。……あまり、エマを惑わせるような発言はやめていただきたい」


 ぞっとするほど、冷え切った声だった。いつも甘やかで優しい声ばかり聞いているせいで、余計に恐ろしく感じてしまう。私に言われているわけでもないのに、肌が粟立っていた。


「こ、これはとんだ失礼を……。どうかお許しください、アスター公爵令嬢」


 謝罪の言葉に、慌ててお兄さまから離れて彼らと向き直った。


「ええ、もちろん。あまりお気になさらないで。それだけ私に期待してくださっていたこと、改めて嬉しく思いました」


 場を和ませるように微笑むと、神官たちもいくらか安心したようだ。彼らの表情を見て、私もほっと安堵する。


「では早速、屋敷の中をご案内いたしましょう。どうぞこちらへ」


 神官たちの言葉を合図に、屋敷の扉が両開きに開かれていく。


「お兄さま、参りましょう。お屋敷の中も楽しみですわ」


 半身で振り返りながら笑いかけるも、お兄さまはどこかしょんぼりとしたご様子だった。


「お兄さま……?」


「エマ、ごめん。君が場の空気を取り持ってくれたね。……エマが傷つけられたかと思うと、冷静でいられなくなる。僕の悪い癖だ」


「お兄さま……」


 そこまでして、私を想ってくれるのはお兄さまだけだ。その想いを否定したいわけではなかった。


「庇ってくださって、嬉しかったです。お兄さまがいれば、怖いことなんて何もありませんわ。……ありがとう、お兄さま」


 旅装用の手袋をするりと脱いで、そっと彼の前に素手を差し出す。彼はそっとその手を取ると、恭しく手の甲にくちづけた。


「エマ……」


 熱っぽく名前を囁かれると、なんだかいけないことをしているような気になってしまう。手の甲へのくちづけなんて、むしろ紳士的なはずなのにお兄さまがするとどうしてこうも色気にあふれているのだろう。


「僕を許してくれて、ありがとう」


 鮮やかな新緑の瞳に、一瞬で囚われる。いつも通り優しげに微笑んでいるはずなのに、その瞳の奥に、私の知らない翳りを見た気がした。


 ……僕を許してくれて、ね。


 その言葉もまた、私たちの間では特別な意味を持つ言葉だ。だが、神官たちが私たちを待っているのを見て、それ以上の追求はやめておいた。


「ふふ……本当に大袈裟ですわ。ほら、参りましょう? 私、早くお屋敷の中が見てみたいですわ」


 鈍感なふりをして、お兄さまの腕を引く。


 ……この旅の中で、お兄さまはどんな表情を見せてくれるのかしら。


 まだ、旅は始まったばかりだ。私の知らないお兄さまを、すこしずつ見つけていきたい。優しく正しい部分だけでなく、翳りも悪い癖も全部、お兄さまだと思えばきっと好きになれる。

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