第2話 妹あつかい

 その夜、アスター公爵邸では身内だけの夜会が開かれていた。使用人も交えての、格式張らない夜会だ。


 両親もお兄さまも、私の望みを全部叶えてくれた。ドレスも、お料理も、お酒も――お酒はあまりに口に合わなくてひとくちでやめてしまったけれど――すべてが揃っている。


「お嬢さまには、もっと明るい色もお似合いになると思います。月影のようなあの銀の髪には、どんな色も映えるかと」


「そうかしら? 旦那さま譲りのあの藤色の瞳には、今日のような色のほうが似合うと思うけれど」


 私を遠巻きに眺めながら、お母さまと私の専属侍女であるリリアがあれこれと相談しあっている。


 聖女候補には、白く簡素な作りのドレスの着用が義務付けられている。そのせいで今まで令嬢らしいドレスに袖を通したことはなかったのだが、今夜からはその制限もない。早速お母さまと侍女たちが、私のためにドレスを用意してくれたのだ。


 突如として開かれたこの夜会のために用意されたのは、星空を映し取ったかのような紺色のドレスだった。ところどころに銀の宝石が散りばめられていて、すこし身動きするだけでもきらきらと煌めく。どうして私の体型にぴったりのドレスがあるのか不思議に思ったが、お母さまが娘を着飾らせたい願望に抗えず、いつかこっそり私に着させようと準備していたものらしかった。


 ドレスを着付け、一緒に装飾品を選び、髪を纏めてくれたのはリリアだ。彼女もお母さま同様に、私の衣装を整えるのが楽しかったらしい。この調子では、ふたりで共謀して明日には山ほどドレスが発注されていそうでなんだか恐ろしかった。


 大広間に、急遽呼び寄せた音楽団が奏でる賑やかな音楽が流れ出す。使用人たちが軽やかに踊っているから、どうやら平民の間で流行っている音楽らしかった。皆、跳ねるように軽々とステップを踏んでいて楽しげだ。


 ……今朝、聖女選定の儀が行われただなんて、嘘みたい。


 ふっと笑みをこぼしながら、使用人たちの踊りを見守る。神殿で私に投げかけられた憐れみの言葉も、好奇の視線も、みんなのおかげでもうずいぶん遠い記憶になった。


「エマも踊ってみたいかい?」


 当然のように私の隣を陣取るお兄さまが、こちらに視線を流して問いかける。


「せっかくですが、知らない曲ですから難しいです」


 はにかんで答えれば、お兄さまの手が半ば強引に私の腰に伸びた。


「あっ」


 くるりと体を回転させられ、気づけばお兄さまに誘導されるがままに足を動かしていた。すると、不思議なくらい滑らかに周りと同じようなステップを踏むことができる。


「上手上手。ちゃんと踊れているよ」


「お兄さま……すごい! 魔法みたいですわ」


 お兄さまと手を取り合って踊る状況が嬉しくて、ついつい口もとが緩んでしまう。だが、足を動かしながらはたと気がついた。


 ……ちょっと待って。お兄さまは、どうして踊れるのかしら?


 この曲を知っているような、平民の女性と踊ったことがあるのだろうか。その可能性に気づいたとたん、もやもやとした気持ちが跳ねるような楽しさに入りまじって、うまく笑えなくなる。


「……エマ? どうしたの?」


 お兄さまは私の表情の変化に敏感だ。すぐに動きを止め、軽く俯いた私の髪をかき分けるように顔を覗き込んだ。


「お、お兄さまはこの踊りを、どこで習得されたのです……?」


 嫉妬丸出しの質問は醜いとわかっていながらも、口に出さずにはいられなかった。彼はそんな私の気も知らずに、なんてことないように微笑む。


「旧子爵領の祝祭にいったときに、会場にいた女性たちが教えてくれたよ」


「そ、そうですか……」


 うまくお兄さまの目を見られない。貴族である以上、女性と踊ることなんて山ほどあるというのに、あまり面白い気持ちではなかった。


「そうだ、エマも一緒に行こう。爵位を継ぐ前にもういちど各地の視察をして回ろうと思っていたんだ。エマの気晴らしにもなるだろう?」


 お兄さまは数年にいちど、半年ほどかけて公爵領や公爵家と関わりのある他家の領地を訪ねて視察に行かれる。思えば初夏頃に視察の旅に出るつもりだと、年の初めに仰っていた。


 ……そのときは、またお兄さまと半年間引き離されてしまうと悲しく思っていたけれど。


 聖女候補でもなんでもない私は、自由にどこへなりとも行けるのだ。お兄さまについていくことだってできる。


 先ほどまでのもやもやとした気持ちを覆すような嬉しい提案に、思わずぱっと表情を輝かせた。


「……行きたい、行きたいです! お兄さま」


「僕もずっとエマと一緒に行きたかった。君を連れて行きたい場所がたくさんある」


 お兄さまはそのまま私の手を取り、エスコートするように歩き出した。目指す先は並んで椅子に座るお父さまとお母さまのようだ。


「あら、踊りをやめてしまったの? 楽しそうだったのに」


 ゆったりと微笑むお母さまに、お兄さまは胸に手を当てて慎ましく礼をした。


「義母上、義父上、お話があります。今回の視察には、エマも連れて行ってよろしいでしょうか。旧子爵領の祝祭や淡雪の大樹、女神ネージュの泉、エマに見せたいものがたくさんあります」


「へえ、いいじゃない。行ってくればいいわ、ねえ、あなた」


 お母さまは隣に座っていたお父さまに微笑みかける。お父さまは渋い表情だ。


「……エマはほとんど王都から出たことがない。長旅に耐えられるかわからん」


 確かに、私は生まれてこの方この家と神殿、王城くらいしか訪ねたことがない。体力に自信があるかと言われると微妙な部分はあるが、この機会をどうしても逃したくなかった。


「問題ありません、お父さま。それに……私、もっといろいろなものを見てみたいのです」


 指を組んで、私とお揃いの藤色の瞳をじっと見つめる。お父さまは迷うように唸ってから、ぽつりと呟いた。


「……護衛の数を増やすなら、いい」


「本当? ありがとうございます! お父さま!」


 こんなにもあっさりと許可が出るとは。思わずお兄さまと顔を見合わせてはしゃいでしまう。


「僕からもお礼を、義父上、義母上。エマのことは傷ひとつつけずに守りますし、もちろん疲れさせないよう気を配ります。旅程をより緩やかなものに変更しましょう」


「お兄さま……ありがとうございます」


 目を輝かせて告げれば、お兄さまは満ち足りた表情で私の頭にくちづけた。


 ……お父さまとお母さまの前なのに。


 たちまち顔を熱くする私を見て、お母さまがにやりと笑う。


「エマはわかりやすいわね。ね? あなた。エマの縁談を考え直さない? ……エマが聖女候補になる前は、もともとそういう話だったじゃない」


「……まだ早い」


 お母さまが悪戯っぽく囁き、お父さまが苦虫を潰したような顔になる。


 ……それって、もしかして、私とお兄さまの縁談、なのかしら。


 お兄さまはお父さまのご友人である亡きラーク子爵の御子息だ。今から十五年前、お兄さまが五歳のときに、ラーク子爵領で大規模な雪崩が起こった。子爵夫妻や子爵に連なる分家の人々が滞在していた館も雪崩に襲われ、かろうじて救出されたのはラーク子爵夫人とお兄さまだけ。助け出されたはいいものの、子爵夫人もすぐに亡くなってしまった。


 ――リック、僕に何かあったときは、妻と息子をよろしく頼むよ。


 ラーク子爵の母君はお父さまの教育係を勤めていた貴婦人であり、ふたりは兄弟同然の仲だった。強い絆で結ばれた親友のかつての願いを忘れていなかったお父さまは、孤児院に入れられていたお兄さまを見つけ出し、弱っていたお兄さまをよい療養施設へ入れた。


 その後、お父さまは国王陛下と取り決めの上、お兄さまを公爵家の養子として迎え入れることに決めたのだと言う。公爵家に縁のある令嬢と、婚姻を結ぶという条件付きで。


 つまり、お兄さまと私はなんの血の繋がりもなく、この国の法律上婚姻は可能なのだ。


 ……それに、お兄さまにいちばん近い公爵家の令嬢は、間違いなく私のはずよ。


 自惚れるつもりはないが、条件的にもお兄さまの婚約者にもっとも近い立ち位置にいるのは私であるはずだ。今のお父さまとお母さまの会話だって、私とお兄さまの婚姻を考えているかのように思えた。


 ……もしお兄さまと婚約できるのなら、夢のようだわ。


 お兄さまがご自身の婚姻に課せられたその条件についてどこまでご存知なのかわからないが、そろそろ、結婚を意識し始めてもいいご年齢だ。こういう話題には敏感だろう。


 期待を込めて、ちらりとお兄さまを盗み見る。彼は、凍りついたように動かなくなっていた。


「……ちょっと待ってください、エマの縁談、ですか?」


 いつも甘く優しい微笑みを浮かべている顔が、悲痛に歪む。


「エマは今日、王太子から解放されたばかりじゃないですか。いったいどこの馬の骨がそんな不躾な申し出をしてきたんです? 王族ですか、それとも神官ですか。歳はどれくらいで財産はどれだけあっていつからエマに想いを寄せているのです。そもそも、エマは今朝まで聖女候補だったんだ。未来の聖女かもしれない少女に懸想するような不埒な輩はエマにはふさわしくない。とにかくまずは僕と顔を合わせて――いや、手っ取り早く、僕とそいつを決闘させてください。話はそれからだ。僕より弱い奴はエマと顔を合わせる資格もない」


 お兄さまはぎゅう、と私の体を抱き寄せ、縋るように頭を擦り寄せてきた。


「エマだってどこの誰かもわからないやつと婚約なんてしたくないだろう……? 君からも言ってくれ。今日の義父上と義母上は君の言うことならなんでも聞く」


 今にも泣き出しそうな弱々しい声で縋りつかれ、息が苦しいほど抱きしめられる。


 ……ああ、そうだ。そうよね、お兄さまはそうだった。


 夢のような時間を過ごしていたせいで忘れかけていたが、お兄さまはいつもこうだ。ご自分が、私の婚約者となる可能性をまったく検討していない。


 ……逆に言えば、それだけ私は恋愛対象に入っていないということなのかしら。


 ずん、と気分が重くなる。お兄さまに抱きしめられて嬉しいはずなのに、油断すると溜息がこぼれそうだった。


「……そういえばクリスも、ずいぶん長いこと奥方への恋心に気付いてなかったな」


 お父さまはぽつりと思い出したように呟く。クリスというのは、お兄さまの実のお父さま、ラーク子爵の名だ。だが、お兄さまは「エマ、どこにもいかないで」と繰り返し呟いて私に縋り付いているせいで、お父さまの声は届いていないらしく、それについては何の反応も示さない。


「無自覚も、ここまでくると罪よねえ。……まあ、頑張りなさい、エマ。とりあえず私たちからは何も言わないから」


 お母さまもお父さまも、憐れむような瞳で私を見てくる。聖女に選ばれなかったと告げたときもそんな目で見なかったのに。


 ……こうなったら、今回の視察の旅で私を意識してもらうんだから!


 思いがけず新たな目標が立ってしまった。縋り付くお兄さまを引き剥がして、まっすぐに向かい合う。


「お兄さま、私はどこにも行きませんわ。この先も、ずっと。……そ、それがどういうことなのか、今回の旅でちゃんと考えて――」


「――エマ! 嬉しいよ……僕もずっとどこへも行かない。どこへ行っても、君と一緒だ、エマ」


 お兄さまは熱に浮かされたような、甘くとろける微笑みで告げた。求婚と捉えられてもおかしくない言葉なのに、彼にその自覚はないのだろう。


 ……本当に、罪深いひと。


 火が出るのではないかと思うほど熱くなった頬を隠すように、お兄さまから視線を逸らす。お兄さまの自覚のなさを指摘したいのに、甘い言葉に黙らせられてしまうから、私もいけないのだ。


 ……でも、無理だもの。好きなひとに、こんなこと言われたら。


 きゅう、と胸が甘く締めつけられる。けれど、今までのような罪悪感はない。もう、聖女という鎖から解き放たれたからだろう。


 私を抱き寄せるお兄さまを見上げて、ふっと微笑む。


 知らなかった。恋が、こんなにもくすぐったく、輝かしいものだったなんて。

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