お兄さまの無自覚な溺愛

染井由乃

序章 聖女選定の儀

第1話 聖女のなりそこない

「偉大なる雪の女神ネージュの名のもとに宣言する。当代の聖女は――イザベラ・エル・ウィロウである!」


 ひやりと冷え切った広い神殿の中で、神官長が高らかに叫ぶ。参列者たちは一斉にどよめいた。


「イザベラさま……? まさか」


「最有力候補は、アスター公爵家のエマさまのはずじゃ……」


 遠慮のない視線が、最前列に座る私の背中に注がれる。驚き、憐れみ、好奇、実にさまざまな感情が入りまじった視線だった。


「イザベラ・エル・ウィロウ。こちらへ」


「ふふ……エマさま、ごめんなさいね?」


 隣に座っていた黒髪の美少女が、にこりと妖艶に笑ってみせる。彼女は見せつけるようにゆったりと立ち上がると、神官長の言葉に従って祭壇の前に歩み寄った。うねりのある長い黒髪が、歩くたびにゆらゆらと揺れる。


 祭壇の前で待つのは、金髪の美青年だ。彼こそが、この王国ネージュの王太子、フェリクス殿下だった。


 フェリクス殿下は、神官長から雪の結晶を連ねたような細やかな細工のティアラを受け取ると、イザベラさまとまっすぐに向き合った。殿下の海色の瞳と、イザベラさまの燃える炎のような赤の瞳がかちあう。


「イザベラ・エル・ウィロウ。厳正なる聖女選定の儀の結果、あなたが当代の聖女に選ばれた。これから私と、この王国ネージュの民を護り、慈しみ、ともに歩んでくれるだろうか」


 それは、求婚にも等しい文言だ。


 それもそのはず、この王国ネージュでは、王太子は聖女と結ばれ、ともに国を護るという習わしがあった。


 神聖な場面を目前にしているというのに、「聖女選定の証人」である高位貴族たちはいまだに落ち着きを取り戻していない。それほどまでに、イザベラさまが聖女に選ばれたことが予想外だったのだろう。


「本当に……? このままイザベラ嬢が?」


「アスター公爵家が黙っていないんじゃないか……」


「エマさま、お可哀想……。妃教育にも励まれて、さぞ立派なお妃さまになると思っていましたのに……」


 囁くような声で紡がれる、疑念、憐憫、そしてやはり隠しきれぬ好奇と他人の不幸に対する愉悦。普段は慎ましく、特別な立場に置かれた者として優雅に暮らしていても、彼らも人間だ。


「でも、まあ、イザベラさまと殿下は前々からお噂がありましたものね……」


「しっ。滅多なことを言うな。聖女が選定前にそんな……」


「殿下としては、ひょっとするとこの結果のほうがよろしかったのかもしれませんわ。だって、愛する令嬢を妃にできるのですもの」


「確かに……こうしてみれば似合いのふたりだ。イザベラ嬢のなんと美しいことか……。これが女神の愛し子の美貌か」


 参列者たちの言葉どおり、祭壇の前で見つめあうふたりは絵画のように美しかった。このざわめきの中にあっても、ふたりだけの世界に入り込めるほど、心を通わせあっているのだろう。


 ……なんとなく、気づいていたわ。


 殿下が、一年前に突如として聖女候補になったイザベラさまを、特別に慈しんでおられることも。婚約者同然の私には、いちども見せたことがないような笑みで彼女に甘い言葉を囁いていることも。


「フェリクス殿下……もちろんですわ。私、聖女としてあなたとともに歩んでゆきます。謹んで、お受けいたします」


 イザベラさまは聖女候補の純白の衣装をつまんで礼をした。所作のひとつひとつに目を奪われる。人の視線を惹きつけて離さない不思議な魅力が、彼女にはあった。


「では、聖女の冠をあなたに」


 殿下はとろけるように微笑むと、イザベラさまの黒髪の上に細いティアラを乗せた。当代の聖女誕生の瞬間だ。


 これにはざわめいていた参列者たちも、一斉に立ち上がって拍手を送る。選ばれたのが誰であれ、歴史的瞬間であることに違いはないのだ。


 イザベラさまはそっと顔を上げると、殿下に美しい笑みを送った。そうして、引き寄せられるようにふたりは抱きあう。このティアラをもって、イザベラさまが殿下の婚約者と認められたようなものだった。


 聖女候補の席である最前列にいる私の目には、その光景が誰よりもはっきりと焼き付けられていた。


 やがて、イザベラさまが勝ち誇ったようなまなざしで私を見る。そうして殿下にもたれかかり、何かを囁くと殿下も私に視線を移した。明確な言葉はなくとも、蔑まれているのを肌で感じる。


 冷ややかな視線をじっと受け止める。そのまま聖女候補の衣装をつまみ、なるべくゆったりと礼をした。


 数秒間たっぷりと視線を伏せてから、顔を上げる。これがきっと、彼らと顔を合わせる最後の機会だ。


「っ……」


「っ何よ、強がっちゃって」


 どうしてか殿下は言葉に詰まり、イザベラさまは眉を顰めている。その反応を見てはっとした。


 気づけば、私は微笑んでいたのだ。彼らの前で笑ったことなど、いちどもなかったのに。


 ……まずいわ、気が緩んでいるのかも。


 だが、いちど顕になった微笑みを引っ込めることは、なかなかできなかった。こうなっては仕方がない。ここを後にするしかなさそうだ。


 もういちど軽く会釈をして、踵を返す。殿下とイザベラさまに送られる拍手喝采の中、なるべく表情を乱さないように意識して出口へと突き進んだ。


 私を憐れむような視線は数えきれなかったが、誰も声をかけることはしなかった。かける言葉もないのだろう。それだけは幸いだ。


 扉を守っていた門番も、私に同情しているようで、何かを心得たように頷くと、すぐに扉を開けてくれた。


 神殿を一歩出るなり、やわらかな春風に包まれる。異国から親交の証で送られたという薄紅色の花の木が、さらさらと揺れていた。


「きれい……」


 景色が、こんなにも美しく見えたのはいつぶりだろう。胸いっぱいに花の香りがする春の陽気を吸い込んで、一歩、二歩と花のほうへ歩き出す。


 踵の高い靴で姿勢がふらつくのが煩わしくて、思わずその場で靴を脱ぎ捨てた。


 やわらかな草の感覚がくすぐったい。その場で慣らすように足踏みをしてから、そっと足を前へ進める。だんだんと勢いづいて、しまいには駆け出した。


「ふふ……! ふふふ! 私、もう自由なのね!」


 薄紅色の花びらが舞い散る中で、くるくると回る。人に見られたら「アスター公爵令嬢は聖女に選ばれなかったせいで心が乱れている」なんて噂されてしまいそうだけれど、この際どうでもいい。


 私を縛り付けていた見えない鎖が、音を立てて壊れていく。まるで羽が生えたかのように体が軽い。


「私、もう、聖女候補じゃないのだわ! どうしよう、今夜は何をしようかしら! 夜更かしして、お肉をたくさん食べて、お、お酒なんて飲んでみちゃったりして……!」


 厳粛な聖女候補としての生活も、もうおしまいなのだ。何をしても誰にも咎められない。してみたいことは、山ほどあった。


 スカートの裾をふわりと靡かせながらぶつぶつ呟いていると、ふと、芝生の些細なへこみに足を取られて派手に転んでしまう。


 背中が鈍く痛んだが、寝転んで見上げる空が思いの外綺麗で、そのまま地面に手足を投げ出した。純白の衣装が汚れてはいけないと今まで細心の注意を払ってきたが、もう、気にしなくていいのだ。


 ざあ、と先ほどよりも強い風が吹いて、花びらが舞い上がる。霞がかった春の雲が流れる青空に、薄紅色の花びらがちらちらと舞っていた。幻想的な春の空だ。


「どうやら、してみたいことがたくさんあるんだね。――ぜんぶ付き合うよ、エマ」


 ふっと、視界に影がかかる。青空と花びらで埋め尽くされた視界の中に、黒髪の青年がこちらを覗き込むようにして割り入ってきた。


 甘く整った顔立ちと、春の新芽を思わせる新緑の瞳は見間違えようがない。


 私の、お兄さまだ。


 今朝も顔を合わせたはずなのに、視線が合っただけで心臓が跳ね上がる。たちまち頬が熱くなるような気がした。


「お兄さま……聞いていらしたの」


「もちろん。かわいいエマの声ならどこにいたって聞こえるよ」


 自信満々にそう言い放ったかと思うと、彼は私のそばにしゃがみ込み、寝転んだ私の背中と膝裏に腕を差し入れた。そのままふわりと抱き上げられてしまう。


「聖女選定の儀、お疲れさま。……今までよく頑張ったね。このまま一緒に帰ろうか」


 お兄さまは優しく微笑んでいたが、私への気遣いがにじみ出ていた。先ほどの出来事がすくなからず私に衝撃を与えていると踏んでいるのだろう。


 私を責めも憐れみもしない言葉に、ほんのすこしだけ、胸がきゅうと締め付けられるような気がした。


 ……そうか、ぜんぶ、終わったのよね。


 その事実は受け止めていたはずなのに、お兄さまに言われて初めて、ぽかん、と心に穴が空いたような気がした。


 ……終わったのね。


 物心ついたころから聖女となるべく励んできたが、その努力も、今日でおしまいなのだ。明日からはもう、この純白の衣装に袖を通すこともない。


 聖女の座に未練はないけれど、その事実はじわりと私を寂しくさせた。長年の努力が無駄になったとは思わないが、誰もが認められるかたちで実らなかったのはすこし、残念だ。


 お兄さまに抱き上げられた体勢のまま、そっと彼の胸に頭を預ける。彼は何も言わずに私の頭に頬を擦り寄せ、額にくちづけた。そのまま、ゆっくりと神殿の門へ向かって歩き出す。


 この日、「氷の聖女」と呼ばれたエマ・エル・アスターは、確かに聖女選定の儀に敗れたのだった。


 ◇


 女神ネージュの愛し子を始祖として建国されたこの国には、王家に王太子となる男子が生まれるたびに、「ルナの祈り」という不思議な力を使える娘が誕生する。


 それは瞬く間に怪我人を治癒し、傷ついた樹木を癒し、汚れた水を清らかにする、治癒と浄化の力に恵まれた少女だ。


 神殿には「ルナの祈り」の素質を持つ少女が近づくと自然に鳴りだす小さな鐘があり、この国に生まれた少女は十八歳までに神殿に礼拝に赴き、その鐘のある広間へ立ち寄ることが義務付けられていた。そこで、「ルナの祈り」の力に恵まれた少女を見つけだすのだ。


 たったひとりだけに力が発現することもあれば、今回のようにふたりいることも珍しくない。多いときには五人もの少女が「ルナの祈り」に目覚めた記録もある。


 ただ、何人もの少女が力に恵まれようとも、「聖女」はいつの時代もひとりだけだ。王太子が二十歳を迎える年に、その代でもっとも強く正しい力を持つ少女が聖女に選ばれ、王太子と婚儀を挙げる。


 当代の聖女候補は、長いこと私だけだった。両親を始め、全貴族と神殿の期待を一身に背負って、聖女となるべく励んできた。何年もの間私以外の聖女候補が見つからなかったため、必然的に私が殿下と婚約を結ぶものと考えられ、同時に妃教育も進めてきたのだ。


 貴族どころか、平民に至るまで、私が聖女になり王太子妃になるものと信じていただろう。私だって、それが宿命なのだと思っていた。


 一年前、ウィロウ男爵家のイザベラさまが神殿の鐘を鳴らすまでは。


「どういうことなの……あの品性のかけらもない娘が聖女に選ばれて、エマが破れるなんて!」


 公爵邸に一歩足を踏み入れるなり、お母さまの悲鳴じみた声が空気をつんざく。


 聖女候補の親族は、選定に公正を期すために「聖女選定の儀」には参列できない。お兄さまだって、神殿の外で私を待っていた。


 きっと、儀式の様子を偵察していた公爵邸の従者によって結果を知らされたのだろう。お母さまが怒りとも悲しみとも取れる感情から声を荒らげていることに、ぐっと息が詰まった。


「……ああ、こんなのはおかしい。神殿に直接抗議してくる」


 低く地を這うような声には、明らかに怒りがにじみ出ていた。お父さまの声だ。お母さまは感情豊かな方だけれど、お父さまは口数の少ない冷静な方だから、この反応は少々意外だ。


「お兄さま……下ろしてくださいますか? お父さまとお母さまにお話ししなくては」


 神殿から馬車に乗って屋敷に戻ってきた後も、お兄さまは私を抱き上げて移動していた。今日はいつもにもまして過保護になっているようだ。

 

「エマ……無理することないんだよ」


「……ふたりは私が聖女になることを夢見ていました。ちゃんと、説明しないと」


 お父さまもお母さまも、この聖女選定の儀のためにわざわざ公爵領から王都まで来てくださったのだ。適当な報告をするわけにはいかない。


 お兄さまは心配そうに私を見つめたが、こちらの意思が揺るがないことを察したようで、背後の侍女に目配せをした。侍女の手によって、先ほど私が脱ぎ捨てた銀の靴が差し出される。


 お兄さまは玄関広間の隅にあった椅子に私を座らせると、目の前に跪いた。そうして片方ずつ、ゆっくりと靴を履かせてくれる。まるで壊れ物に触れるかのような手つきで足に触れられて、芝生の上を駆けたときよりもくすぐったくてならなかった。


「ありがとうございます、お兄さま」


 はにかみながら礼を述べれば、彼は甘く微笑んでなにかをねだるようにこちらを見上げた。


 この瞬間のお兄さまの目にはいつも、不思議な熱が帯びる。そのまなざしに囚われるたび、心臓が早鐘を打って仕方がないのだ。


 おずおずと、お兄さまの前に右手を差し出す。


「……あ、りがとう、お兄さま」


 彼は貴重なものを戴くように私の手を取ると、ゆっくりと指先にくちづけを落とした。


 お兄さまに感謝の意を示すときには、指先への口づけを許可しなければならない。わたしたちの間では何度も行われている儀式めいた行為なのに、いつまで経っても慣れなかった。


「あ……お父さまとお母さまが来ます」


 ふたりが玄関広間につながる大階段を降りてくるのを見て、慌ててお兄さまから手を離した。心臓はこれ以上ないくらいに脈打っていて息が苦しいくらいだが、きちんと話をしなければ。


 椅子から降りて階段の前へ移動すれば、すぐにお兄さまも私の隣に立ち並ぶ。お父さまとお母さまも私たちに気がついたようだ。彼らが階段を降りるのを待って、ふたりの前で礼をする。


「お父さま、お母さま、申し訳ありません。全力を尽くしましたが……聖女には選ばれませんでした」


 唇を引き結んで、彼らの言葉を待つ。私は聖女の座に未練はないし、自由になれて心から嬉しく思っているが、ふたりは違う。長年私が聖女となることを夢見てきたのだ。叱責されて当然だろう。


 だが、お母さまは私の肩を掴むと、顔を上げるように促した。


「エマ……心配しなくていいわ。今、お父さまが神殿に詳細を確認しに行ってくださるから。あなたはお部屋で待っていなさい」


 お父さまもその言葉に無言で頷いて、従者に目配せをし、杖と帽子を取ってくるよう命じている。ふたりはまだ、私を信じてくれているのだ。


 ……ありがとう、お父さま、お母さま。


 淡く微笑んで、ゆっくりと首を振る。


「エマ……?」


「いいのです、もう……。厳正な神官たちが見定めた結果ですもの。きちんと受け止めなければ」


 神聖なる「聖女選定の儀」に異を唱えるなんて、一歩間違えればネージュ教から破門されかねない。そんな危うい真似を、ふたりにさせるわけにはいかなかった。


「……何かの間違いです。あなたは物心ついたときからずっと、聖女となるべく努力してきたのに、突如現れたあの娘に聖女の座を奪われるなど考えられません」


 お母さまはきっぱりと言い放つ。それだけ私の努力を認めてくださっているのは嬉しいことだが、私にはわかっていた。


「お母さま、お父さま……確かにイザベラさまは聖女候補となって日が浅いですが……あの方は確かに私よりも強い『ルナの祈り』に恵まれています。私には、わかりました。だからなんとなく、こうなる気はしていたのです」


 聖女候補として初めて顔を合わせた瞬間に、わかってしまった。彼女は、私よりも強い力に恵まれている。その気になれば私が苦労して会得した治癒の術を、すぐに使いこなせるようになるだろうと。


 そのとき感じた無力感と虚しさは、きっと生涯忘れない。


 長い沈黙が訪れた。やがてお母さまは、ふう、と長い溜息をついて額に手を当てる。


「あなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね。……それでもわたくしは、あなたのほうが聖女にふさわしかったと思っているけれど」


「神殿も見る目がない」


 お父さまもぽつりと呟いて、首もとに締めていたタイを緩めた。帽子と杖を持ってきた侍従はそれを見て察したようで、音もなく下がっていく。


 お母さまもお父さまも、どうやらわかってくれたようだ。自由の身になれたことは嬉しいけれど、ふたりの期待に答えられなかったことはやはり心苦しかった。


「……ごめんなさい、母さま、父さま」


 気づけば幼いころの呼び方で、謝っていた。ふたりの視線が、はっとしたように私に注がれる。


「あ、謝ることは何もないのよ、エマ。……そうよ、もうその地味な白い衣装は着なくていいのだし、明日にでも仕立て屋を呼びましょう。わたくし、娘を着飾らせるのが夢だったのよ」


「……気晴らしに、気に入った装飾品でも犬でも店でも買え」


「エマは肉料理が食べたいそうなのでたくさん用意しましょう。今夜はお酒も飲んで、夜更かしもしたいんだとか」

 

 お兄さまが私の独り言をさらりと暴露する。お父さまもお母さまも目を丸くした。


 それもそうだろう。今まで神殿の教えに従って、野菜と少量の魚だけを何も言わずに食べていた娘が、肉と酒を所望すれば驚くに違いない。


「お兄さま……! もう!」


 小声で抗議の声を上げれば、お兄さまはくすくすと笑った。時折、こういう悪戯をするひとだということをすっかり忘れていた。


「ふふ、いいわね。今日は美容のことは忘れましょう。料理長を呼んで!」


 お母さまが手を叩いて合図する。その後ろでお父さまが早速執事と何やら打ちあわせをしていた。時折「先代の秘蔵の葡萄酒が」「蜂蜜酒なんかも人気ですが」と漏れ聞こえてくる。


「甘いものは僕に任せて、エマ」


 にこりと微笑みながら、お兄さまは私の頭を撫でる。


 ……みんな、優しすぎるわ。私は、期待に応えられなかったのに。


 じく、と目頭が熱くなる。慌てて目を擦り、唇を引き結んだ。せっかくみんなが私を元気づけようと親切にしてくれているのに、私が泣いていては元も子もない。


 だが、お兄さまには私が涙をこらえていることなどお見通しのようで、甘やかすように私を引き寄せると、頭にくちづけを落とした。慈しむようなその仕草に、ついにひと粒涙がこぼれ落ちてしまう。


「も、もう……お兄さま、私泣かないようにこらえておりましたのに」


「我慢はよくないよ。――僕の前では感情に枷をつけないで」


 そう囁きながら、彼は私の目尻にくちびるを触れさせた。


 懐かしい言葉だ。私とお兄さまにとっては、特別な意味のある言葉だった。


「お兄さま……」


「何も恥じることはない。君はやるべきことをやったんだ」


 ぎゅう、と抱きしめられながら、慈しむように頭を撫でられる。堰を切ったように、涙がぽろぽろとあふれ出した。聖女候補でいる間、人前でこんなに泣いたことはなかったのに。


 お兄さまは人目につかない物陰に私を誘導すると、私が泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。涙の跡をなぞるように何度も頬にくちづけられる。


 どのくらい、そうしていただろう。なんとか涙が落ち着いてきたのを機に、深呼吸を繰り返す。私を抱きしめていたお兄さまの腕が、ようやく緩んだ。


「……たくさん泣いたね。ゆっくり息を整えて」


 至近距離でまっすぐに視線が合い、どくん、と心臓が跳ね上がった。今になって、雨のようなくちづけを目尻や頬に受けていたことが恥ずかしく思えてくる。


「あの……お兄さま、みっともないところをお見せしましたわ」


「そんなふうに思わないで。僕は、君のどんな表情も近くで見ていたいだけなんだから」


 なんてことないように呟いて、彼は笑った。慈愛に満ちた、私の大好きな甘い笑みだ。


 ……お父さまとお母さまには悪いけれど、私、やっぱり聖女にならなくてよかったって思ってしまっているわ。


 じっとお兄さまを見上げて、罪悪感にも似た幸福を噛み締める。視線が絡むなり、彼は首を傾げて私の言葉を待つそぶりを見せた。けれどどくどくと心臓が早まった今では、まともな言葉を紡げない。


 ……きっと私、ずっと期待していたのよね。イザベラさまが、現れたときから。


 今日のまで、聖女になるために全力を尽くしてきた。今日の選定でも、心からの祈りを捧げている。それは、女神さまにもお父さまやお母さまにも誓って本当だ。


 けれど、一年前からきっと私は心のどこかで夢見ていた。


 聖女に選ばれなければ、お兄さまともうすこし、一緒にいられるかもしれない、と。


 彼はアシェル・エル・アスター。王国ネージュの筆頭公爵家アスター家の後継者。


 そして血のつながらないお義兄さま――私の、初恋のひとだ。

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