第7話 我願う、君の幸せを
男は非常階段を音を立てて登っていた。カンカンと金属の音が耳に喧しく、その音で心臓が緊張から喚き立てるほどに鳴っていた。
「はぁ、はぁ・・・」
こめかみから汗が流れ落ちていたがそんな事は気にもならない。
ただ、捕まるのが恐ろしかった。
男の老体が悲鳴を上げ始め、男は立ち止まった。錆びた手すりを持つ手が小刻みに震えている。
「許してくれ・・」
乞うように呟く言葉は誰の耳にも届かない。
ハッと男は後ろを振り返り、そこに誰もいないのに怯えの色を表情にのせた。
追ってくる足音が聞こえて来た気がしたのだ。
男は再び階段を登り始める。
今が何階なのか分からないがそれでも登らなければならなかった。
切れ切れになる息を何とか落ち着けながらさっきよりも遅くなった足取りで階段を登ろうとする。
脚が重い。
でも登らなければ。
逃げなければ。
そして屋上にたどり着くと重い扉を開き、だだっ広く開かれたそこへ逃げ込んだ。
高いビルだった。眼下にはここよりも低いビルが立ち並び、上を剥けば空は青く晴れ渡っている。
上がりきった息を整えながら男は必死の形相で屋上の中程まで歩いた。
何か隠れられる場所はないかと周りを見渡していると、屋内から屋上に出る扉がギィィと音を立てて開かれる。
「は・・」
中からは人が二人出て来た。
二人の、同じ顔をした男が、ゆっくりとした足取りで扉をくぐり現れたのだ。
男は喉の奥で悲鳴を上げた。
男たちは自分の姿を見つけるとニッコリと微笑んだ。
「木下昭三さん、でよろしいですか?」
同じ顔をした二人の男のうち、スーツを着た男が笑顔で言った。
追われていた男、木下は頷くことも出来ずに固まったまま立ち尽くす。
するともう一人の男がタバコを吸いながら木下に近づいて来る。
「おいじいさん、聞いてんだろ。答えろよ」
ジーパンにTシャツ、黒のジャケットを着た男は低い声で木下にそう聞いて来る。
その言葉に言いようのしれない恐怖を覚え、木下はコクコクと震える体を抑えながら頷いた。
男は吸っていたタバコを地面に捨てると踏みにじった。
「それならいい、お前に用がある」
男は流れるように木下に近づき、目の前で立ち止まった。
木下は逃げることすら出来ず、震えていた。
「何だよ、そんなに怯えるなよ。こっちが悪者みたいじゃないか」
「あ・・あぅ、あ」
「さて、聞きたいことは一つだ。三十年前、上田茜と上田翠を殺したのはお前だな?」
「・・・ヒッ」
「女と子供を惨たらしく殺しておいて、のうのうとお前は生きて来た。間違いないな?」
「お、俺は・・・」
男は怒りに燃える目を木下に向けて来る。
木下は混乱していた。
この男たちは一体何者なのか、どうして自分を追って来るのか。
そもそも、どうしてあの事件の犯人が自分だと分かったのか。
だって警察ですら見つけ出せなかったのだ。
三十年もの間、逃げおおせたというのに。
木下の表情があまりにも雄弁だったのだろう、男の一人が皮肉気な笑みを浮かべる。
「俺たちがどうしてお前に気づいたかなんてもうお前には関係ないんだよ。ただ、お前は罪を犯した。ならば罰を受けなければならない。そうじゃなけりゃ・・・死んだ三人にとって不公平だろう?」
「さ、三人?」
木下は吃りながら握りしめた拳を震わせる。
あの時殺したのは二人だけだ、三人とはなんだ。
頭が混乱し、木下はまともに物が考えられなくなっていく。
「旦那も死んだ。誰の責任なんて聞くまでもないだろう?」
「そっ、そんな!」
「まさか関係ないとでも?」
淡々と男は言った。
木下は焦った。
せっかく警察から逃げきったのにこんな所で捕まるわけにはいかない。
そこで木下はハッとした。
「あ、あんた達は、け・・警察なのか?」
「いいや違う」
「じゃあ、なんで俺を・・・。警察じゃないなら逮捕なんて」
「誰が逮捕したいっつったよ。俺は罰を受けろと言ったんだ。警察に行きたきゃ勝手に自分で行け」
目の前の男は苛立ったように吐き捨てる。そして背後の同じ顔をした男に視線を向けた。
恐ろしい。言えるのはそれだけだった。
木下は男の意識がそれていると思い脱兎の如く駆け出した。屋内へと続く出入り口を目指し全力で走った、が実際はヨタヨタと覚束ない足取りでしかないことに本人は気づいていなかった。
スーツ姿の男の横を避け通り過ぎようとした時、木下は手首を掴まれた。
瞬間、視界がグルリとまわる。
気がつくと地面に倒れていた。
「は・・・」
視線を動かすと手首をスーツ姿の男が掴んだまま自分の真横に立っている。
「逃げられませんよ?」
とても優しい笑みだった。
「ひ、ひぃぃ」
それが余計に木下の恐怖を煽り、震え上がらせる。
「じいさん、逃げるのはフェアじゃねーな」
もう1人の男が倒れている木下の頭の元へやって来て、しゃがみ込み顔を覗き込んでくる。
「さて、逃げようとしたことも許せねえ。プラスアルファが決定だ」
男が木下の両目を手で覆った。
恐怖で木下は最早動けるはずもなく。
「死ぬよりも苦しい地獄を味わってこい」
ガクガクと震える体を押さえつけるように男は手の平を押し付けてきた。
そこで木下の意識は途絶えた。
「一体どんな夢を見せてる?」
スーツの男、青柳穂紬はもう1人の男である青柳有美に問うた。
「まあ・・・死んだほうがマシだってくらいの夢だな」
有美は木下の顔から手を離し立ち上がった。
「いつも思うけど有美の力って本当に不思議だよね」
有美は穂紬の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をする。
「そりゃお前の方だろうが」
自分を棚に上げて何を言っているんだ、こいつは。
もし自分たちの持つこの奇妙な能力が逆だったら自分はきっと使っていなかっただろう。
メルヘンチックな方で本当に良かったと有美はひしひしと感じていた。
「さて、後始末は任せるぞ」
有美はポケットからタバコを取り出し火を点けた。「えー」と穂紬が抗議の声を上げるが知ったことではない。
「お前の方が何かと都合がいいだろ、知り合いにでも頼めよ」
チクリと何時ぞやの出来事に触れ嫌味を言うと穂紬は僅かに肩をすくめて見せた。
「じゃあな」
そして有美は歩き出した。その先には木下が登ってきた非常階段がある。
「そっちから降りるの?」
不思議そうな穂紬の声が背に届くが有美は軽く手を振るだけで、答えはせず。
カンカンと高い音を立てながら長い階段を降り始める。
きっとこれは自己満足でしかないのだろう、上田がこんな事を望んでいたかどうかなんて知らないのだ。
正義を気取るつもりはない。自分たちがやっている事も正しくはないと分かっている。
それでもこれで良かったのだ。
復讐すると誓ったのだから。
「殺しはしない、それじゃああいつと同じになるからな。だからこれで勘弁してくれ」
有美は足を止め空を仰いだ。
願わくば引き裂かれた親子が共に光の中で笑っていられるように。
見上げた空の青さに目がくらみ、有美は目元を手で覆った。
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